74-6
名前を呼ばれて、亜莉香は我に返った。
大丈夫かと問うピヴワヌに指摘されるまで、涙が零れたことに気付かなかった。流した涙を拭って、利哉に別れを告げてから、ひっそりと建物を出る。
振り続けていた雨が、少しだけ弱まった。それでも傘は必要だ。
目指す場所は、来た道ではない。誰も向かわない林の中に足を向けて歩き出せば、ピヴワヌが遠慮がちに言った。
「無理はするな」
気遣うピヴワヌは、利哉との別れを悲しんでいると勘違いしている。
別れたのは同じだ。ずっと心の中で見守って、導いてくれた人がいなくなった。それは悲しいけれど、心を塞ぐものではない。
「大丈夫ですよ」
本心は素直に零れ、亜莉香は言う。
「悲しくても辛くても、ちゃんと受け止めて前に進めます――終わりは始まりですから」
教わった灯の言葉を、大切に心にしまう。
灯が終わり、亜莉香は始まり。利哉も終わりなら、トシヤが始まりだ。目には見えなかった繋がりを経て、顔を上げた亜莉香が先へ行く。
そうか、と相槌を打ったピヴワヌが黙って、羅針盤の針に導かれるままに進んだ。
木々の間を越える。
その先の何もない場所に、座り込む黄瀬の後ろ姿を発見した。花々は踏み付けられ、木々は切り倒され、焼き払われた何もない場所の中心にいる。無残な場所は戦いの傷跡が残ったままで、項垂れる黄瀬は動かなかった。
そこは、灯の家があった場所。
人が暮らしていた痕跡は跡形もなく、亜莉香は思わず隠れて様子を伺う。
雨に打たれてもいる黄瀬の隣には、同じく傘を持たない久高の後ろ姿もあった。
「太一が幼馴染で、正直羨ましかったよ」
片腕を包帯で吊るした久高が、もう片手で頭を掻く。
「たっくん、なんて呼ばれてさ。お前は嫌がっていたけど、羨ましがっていた連中は結構多かったぜ。姫とか王子とか、そんな肩書き関係なく、あの人達と親しいことが、俺達にとっては羨ましかった」
僅かに顔を上げた久高の顔に、雨粒が当たる。流れているのは雨か、涙なのか。びしょ濡れになっても気にせず、言葉が続いた。
「お前のせいじゃない。あの人達を守れなかった責任は、太一の責任じゃない」
「…違う」
「自分を責めるな」
「――違うっ!」
雨音を切り裂いて黄瀬が叫んだ。両手を痛いほど握りしめて、雨と一緒に血が滴る。
隣にいた久高に向かって掴みかかって、胸元を掴む。久高の方が背は高いし、体格も大きい。その差を感じさせない迫力で、叫び続ける。
「先代の王に誓った!あの方々を守ると!生涯かけて、先代の王の意思を受け継ぎ、守り続けると!それなのに、なのに…私は――」
段々と小さくなった声が、消えた。守れなかった、と言葉が続く。その横顔から、瞳から涙が溢れては零れる。
「太一にとって、大事な家族だったよな」
久高は悲しそうな顔をしていた。
「血が繋がらなくても、一緒に過ごした時間は短くても。先代の王と王妃は、父と母のような存在だった。奏様は、太一の唯一無二の親友だった。透様と灯様は、太一を師として敬っていた。それは皆――知っているさ」
太一、と優しく名前を呼ぶ。
「俺達は、悲しんでばかりいられない。あの人達の守りたかったものを無視するな。まだ、全て無くなってはいない」
「一人にしてくれ」
「太一」
「頼む」
ふらっと座り込んだ黄瀬に、久高は何も言わなかった。
片膝を立て、その上に置いた腕で頭を支える黄瀬に、かける言葉はない。ただただ見下ろしていただけだったが、懐から封筒を取り出すと、そっと地面に置いた。
雨に濡れても染みることない白い封筒は、やけに明るく見える。
「それは俺が数日前に預かった、灯様からの手紙だ」
聞いていないとしても久高は言った。
「もしもの時に、と渡された。冗談かと思って拒絶したのに、机の中に入っていた。中身は見てない。どんな内容が書いてあるかは、自分で確かめてくれ。それはお前宛てだ」
うんともすんとも言わない黄瀬は動かなかった。
久高は素早く踵を返し、その場から姿を消す。あっという間にいなくなり、残されたのは一人だけ。止まない雨の中で手紙に手を伸ばすことない姿に、亜莉香はようやく踏み出した。
足音を立てながら近づき、石のように固まっている黄瀬を見下ろす。傘はピヴワヌに頼んだ。本を両手で持ち直すと、それを雨から頭を守るように被せる。
「黄瀬」
名前を呼んだ身体が震えた。ゆっくりと、何度も瞬きして見上げた顔は、無理やり笑みを浮かべ、静かに息を吸う。
「雨に濡れても、風邪は引かないよ」
「減らず口が叩けるなら大丈夫だな。立つか?」
「もう少しだけ、休ませてくれ。色んな記憶が混ざって、頭がくらくらするからさ」
本を払うような仕草をした。座っていた身体を後ろに倒し、黄瀬が地面に横になった。二人で入るには小さい傘を、ピヴワヌは頭だけでも濡れないように傾ける。
止まらない涙を両手で顔を隠した黄瀬は、深呼吸を繰り返してから話し出した。
「君が前回成り代わっていた人は、もういないのか」
「…はい」
「人がいなくなるのは悲しいね。それが事故でも寿命でも、別れは寂しくて悲しい。太一は絶望のドン底だ。こんな悲しみから、どうやって立ち直れたのか不思議だよ」
本を抱え直した亜莉香は、傍にしゃがむ。
まだ記憶の整理に時間のかかりそうな黄瀬に、余計なことは言いたくない。黙って傍に居ようと思えば、涙を止めた瞳が亜莉香を見る。
「あのさ。その手紙、読んでくれないかな?」
「私が、ですか?」
「俺は読む元気がない。読み聞かせてくれたら嬉しい」
腕を枕にした黄瀬は言った。ピヴワヌにも目を向けると頷き返される。二人に頼まれたら、断る理由はなかった。逆さにした本を膝の上に乗せ、封筒を手に取る。
とても上品でシンプルな封筒。
そっと封を開けば、微かに甘い匂いがした。
手紙は一枚しかない。二つ折りにしてある手紙を開き、最初の言葉を読み上げる。
「【親愛なる太一改め、たっくん】」
灯から太一へ、向けられた手紙の冒頭から、親しみのある呼び方に変わった。
「【この手紙を受け取った時、私はもういないのでしょう。それを誰よりも悲しんでくれる幼馴染に、この手紙を残します】」
はっきりと想いを込めて、亜莉香は読む。
「【私達の出逢いを、覚えていますか?兄さんと同い年ながら優秀だと、父に初めて紹介された時、私は透と一緒に喧嘩を売りました。だって当時の私達に魔法で敵う大人はいなくて、信じられなかったからです。父に褒められているのは羨ましいし、私達の方が優れていると証明したくて、売った喧嘩で見事に負けました。惨敗です。それから再戦を申し込むたびに嫌な顔をされたのを、今でもはっきり覚えています】」
考えたこともなかった灯の幼い頃の思い出は、亜莉香の知らない温かさがあった。
「【喧嘩しながら、私と透に魔法を教えてくれました。滅多に人に心を開かない兄さんと仲良くなって、透と二人で嫉妬しました。子供じみた悪戯を仕掛けても相手にされなくていじけたり、遊んで欲しくて話しかけても途中から勉強を教わる羽目になったり、そんな日々は楽しい日々でした】」
繊細な文字から、言葉から灯の気持ちが溢れる。
手紙に綴られている内容は過去系だ。
「【あの頃はまだ、たっくんの家庭の事情を知らずに無邪気に接していましたね。大貴族の三男の立場があり、たっくんが家族と上手くいってなかったことは、随分後に知りました。お互い成長するにつれ、少しずつ距離を置こうとするたっくんに、私達はしつこく絡みました。たっくん、と嫌がる呼び名で呼びました。毎年、たっくんの誕生日を盛大に祝おうとするのに逃げられ、捕まえるのは大変だったのは忘れられません。素直に喜べばいい、と何度言っても聞いてくれない頑固さは長所でしょうね】」
本人に話しかけるような書き方に、黄瀬は途中で再び瞳を隠した。ピヴワヌは一切口を出さず、黙って傘を差して雨から守ってくれる。
どれだけ雨粒が当たろうと、手紙は決して濡れない魔法がかかっていた。
「【嫌な顔をあからさまにしても、ちゃんと私達にはたっくんの気持ちは伝わっていました。幼い頃からの付き合いで、家族の一員で、正しい魔法の使い方を教えてくれた師匠ですもの。それは永遠に変わりません。私がいなくなっても泣かないでとは言いません。大泣きして下さい。だってそれだけ、たっくんが私を想ってくれている証になるでしょう?】」
この手紙を書きながら、灯が笑っていたような気がした。
どんな態度を取られても、どんな表情で見られても、灯の太一に対する感情は真っ直ぐだ。大事な家族で、尊敬する師匠で、大切にしていた人物。
「【沢山泣いて疲れたら、美味しいものを食べて下さい。仕事が忙しくても、睡眠時間は確保して下さい。誕生日は素直に祝われて、嫌な顔ではなく笑って下さい。お願いばかり書いたら、いつものように怒られそうですね。それでは、これくらいで――いつまでも悲しみそうな幼馴染を心配した 灯・クロンヌ・ルリユールより】」
名前の隣に、真っ赤な花びらは押し花。牡丹の花に思われる花びらは色褪せることなく、白い紙に映えている。黄瀬が身体の力を抜いた。ピヴワヌは手紙を覗き込んだから、まだ文章が残っていることを知っている。
深く息を吸い、追伸、と亜莉香は読み上げた。
「【花降る里を知っていますか?私は行ったことがありませんが、素敵な場所だそうです。可愛い子がいるので、是非仲良くなってください】」
聞いたことのある里の名前に、亜莉香は手紙から顔を上げる。
続きはない。書いてある内容はここでお終いで、遠慮がちに問う。
「黄瀬の住む里には、可愛い子がいたのですか?」
「後の太一の嫁か?」
亜莉香に続けてピヴワヌまで言えば、黄瀬が急に腹を抱えて笑い出した。悲しみなど吹き飛んで、起き上がって涙を拭う。
「可愛い子はいたけど、太一の嫁ではないよ」
「つまらん」
ぼそっと言ったピヴワヌの言葉は聞き流された。胡坐を掻き直して、かき上げた髪から雨が滴る。切れた雨雲の間から日差しが差し込むと、笑みを浮かべた黄瀬が言った。
「可愛い子は、里の女性と奏様の子。結婚もせずに生まれた子供で、隠し子かな。一年後に里に会いに来た太一は、それはもう可愛がったと言い伝えられているのさ」




