08-3
慌ただしい数日を過ごし、亜莉香は大きな欠伸をしながら裏路地を歩いていた。
午前中はもうすぐ出産予定の奥さんがいるパン屋の手伝いをして、昼近くにケイの元を訪れて、ぬいぐるみを縫い直す。一緒に着物の仕立て方を習う。夕方には買い物をして、急いで家に帰って夕食を作り、お風呂に入って。寝る前にケイに教わった縫い方を復讐して、練習だと頼まれた着物を仕立てる。
数日前に黒い何か、改めルグトリスに襲われていたことが遠い昔のことのよう。
ぬいぐるみを直すのは、順調に進んでいる。一度全て分解して、使える部分は丁寧に洗い、アンリから受け取った端切れを使って縫い直した。手間暇がかかったが、ケイの指示に従い、あとは両目と首に巻くリボンを付ければ完成する
リボンだけはもうボロボロで、仕方がなく同じリボンを発注した。
ケイの店に品物が届かないとどうしようもないが、明日になったら兎のぬいぐるみの両目を付けることにして、ひとまず店を出たのが数分前。
「今日だけは、早く寝させてもらおう」
呟いて、亜莉香は最近の睡眠時間を振り返る。日中に着物を仕立てる時間が少なく、最近は寝る間を惜しんで縫い上げていた。いつか自分で着物を縫いたいと思うようになったのは教わり始めてからで、早く上手に綺麗に縫えるようになりたい。
そのせいなのか、とても眠い。
気を抜くと寝てしまいそうで、よく考えれば片手で数えられる程度しか寝ていない。
目の下に隈が出来ない体質は幸いだ。まだ誰かに気付かれている様子はない。ぬいぐるみが直し終われば忙しさも減るので、このまま誰にも気付かれないことを祈るしかない。
夕食はどうしよう、と考えながら歩いていると、進行方向の数十メートル先の道の端で、蹲っている女性がいた。その女性の顔が見えるよりも早く、苦しむ声が聞こえた。
一気に目が覚めた亜莉香は、慌てて駆け寄る。
「大丈夫ですか!?」
「うぅ、アリカ、ちゃん?」
声を掛けられて、顔を上げた女性は顔見知りのパン屋の奥さん、モモエだった。
驚いたのは、子供がもうすぐ生まれる、とつい数時間前に話していたモモエが路地裏に一人でいること。その理由を聞く前に、亜莉香はしゃがみ込んでモモエの顔を見た。
汗を流し、辛そうな顔をしているモモエが、無理やり笑顔を作る。
「よかった、知り合いに会えて。ちょっと診療所まで付いて来てくれない?」
「ワタルさんは一緒じゃないのですか?」
「あの人には買い物を頼んで家にいなくて、一人で診療所まで行けると思ったんだけどね」
状況を説明しようとするモモエの顔の汗を、亜莉香は着物の袖で拭う。その後すぐにモモエの背中に腕を回し、声を掛けて一緒に立ち上がる。
ゆっくりと、一歩ずつ歩きながらモモエは言う。
「まだ、産まれないと思っていたから。無理しちゃった」
「無理したら駄目だと、皆に言われていたじゃないですか」
「そうだけど。無理したくなる時もあるのよ」
仕方がない、と自分自身に言い聞かせるモモエの声に、微かに元気が戻った。
「きっと、私も子供も早く会いたくてしょうがないの。だから予定より早く、子供が産まれそうなのかもしれないわね」
「そういうものなのですか?」
「きっとそう。それなのに、あの人は買い物に出て、出産に立ち会えないかもしれないわ。あーあ、残念。おろおろしている様子を、目に焼き付けてやろうと思っていたのに」
心の底から残念そうではなく、冗談交じりの声でモモエは言った。
話していた方が楽そうで、亜莉香はぎこちなく微笑んで訊ねる。
「何を、ワタルさんに頼んだのですか?」
「和菓子、何だか無性に欲しくなって。食べられなくても見たい、と思ったの。沢山買うように頼んだから、アリカちゃんも一緒に食べましょう」
そうですね、と頷くと、モモエは子供ついて語り出した。
まだ女の子なのか男の子なのか、分からないこと。生まれない子供の名前に付ける名前を、ワタルと共にあれこれと悩んでいること。どんなに話し合っても、名前が決まらないこと。
楽しそうな表情を浮かべ始めたモモエと共に、診療所を目指して歩く。
診療所はすぐ近くのはずなのに、やたら長い距離を歩いた気がした。階段の前に到着すると、亜莉香はモモエを置いて、階段を駆け上がった。勢いのままに、診療所の扉を開ける。
「ユシアさん!」
腹の底から、亜莉香は叫んでいた。
しーん、と静まり返っていた診療所の中に、亜莉香の声が響く。
なんで、と呟いた声が、力なく宙に消えた。診療所の中は、誰もいなかった。誰もいなかったことに気付いても、すぐに動けない。足が固まって動けなくて、これからのことを必死に考える。
モモエを一人で放置して、誰かを探しに行く。
ユシアか診療所の先生が帰って来るのを待つ。
どうしよう、どうしようと答えを出すよりも早く、奥から物音が聞こえて、亜莉香は下がっていた顔を上げた。診療所の奥から、何事かとやって来たユシアと目が合う。
「どうしたの?アリカちゃん」
「モ、モモエさんが階段の下にいて、今にも産まれそうで!私には連れて来ることしか出来なくて、それで――」
「落ち着いて、モモエさんが下にいるのね」
ユシアに会えた安心から、亜莉香は早口で話し出していた。駆け寄ったユシアの言葉に、何度も首を縦に振る。
「――っそう、です。私、どうすればいいですか」
「急いで中に連れて来ましょう。手伝って」
「はい!」
息をつく暇もなく頷いて、不安だった心を忘れた亜莉香は急いでモモエの元に戻る。
階段の下で待っていたモモエは、深呼吸を繰り返して待っていた。亜莉香と一緒に下りて来たユシアの姿を見るなり、微笑んだ。
「あら、ユシアちゃん。ごめんなさいね、一人で階段を上れそうじゃなくて。あの人がいれば、手伝ってもらうのだけど」
「気にしないで下さい」
ユシアはモモエの肩に腕を回す。亜莉香も反対側に腕を回し、二人でモモエの身体を支えると、ほぼ同時に足を踏み出した。階段の幅は広いとは言えないので、亜莉香とユシアは身体の向きに気を付けないといけない。亜莉香が空いていた片方の手を、モモエの手と重ねた。
ぎゅっと亜莉香の手を握ったモモエが、ゆっくりと口を開く。
「本当にごめんなさいね。二人に迷惑をかけて」
「そんなことないですよ」
「迷惑じゃありません」
即座に否定した亜莉香とユシアの言葉に、モモエは嬉しそうに笑みを零した。
階段を上りきると、ユシアが診療所の奥を指差した。
誰もいない診療所に、三人分の足音が響いては消える。不安で、怖い気持ちを反映したかのように。診療所に入るとすぐに、空から静かに雨が降り出して、窓ガラスに水滴が当たる音がした。
モモエを奥の部屋に運んで、ユシアは亜莉香を廊下に呼んだ。真面目な顔のユシアに呼び出された亜莉香は、ユシアの一言を聞いた途端に瞬きを繰り返した。
「…冗談、ですよね?」
「この状況で、流石に冗談は言わないわよ。もう一度言うけど、もうすぐ生まれそうだから、アリカちゃんにも手伝って欲しいの」
じっと見つめる眼差しは真剣で、亜莉香は言葉に詰まり視線を外した。
ユシアの言葉が信じきれなくて、頷くことが出来ない。
「無理、です。私が手伝えるはずがありません。それなら、他に手伝えそうな人を探した方がいいはずです」
「それも考えたわよ。でも、他に誰を探すの?この場に一番に居て欲しい先生は外診中で、今どこにいるのか皆目見当付かない。他の人を探しに行く時間だって惜しいのに」
亜莉香の言葉に、ユシアは即答した。無意識に両手を合わせていた亜莉香は、下がっていた顔を上げられない。決して視線を合わせようとしない亜莉香に、ユシアは力なく言う。
「分かっているの。私が無茶苦茶なお願いをしていることは。ただ、今この場で私が頼れるのはアリカちゃんだけで、私はモモエさんの傍を離れるわけにはいかない。簡単な手伝いしか頼まないから、傍で助けて欲しい」
お願い、とユシアは言った。
亜莉香もユシアも口を閉ざして、廊下は静まり返る。
ゆっくりと顔を上げた亜莉香の瞳に、窓の外を眺めているユシアの横顔が映った。腕を組んで、まるで両腕で身体を抱きしめているユシアは、寂しそうで、苦しそうな顔。両腕で身体を抱きしめていても、微かに震えている。
不安だったのは、亜莉香だけじゃなかった。
言葉に出さなくてもユシアが不安なのは一目瞭然で、亜莉香は静かに息を吐く。
「私…本当に大した役には立てません」
小さな声で言えば、ユシアは亜莉香を見て微笑む。
「傍にいてくれるだけで、心強いの。それでも…やっぱり駄目かしら?」
「そんな風に言われたら、断りづらいです」
「それじゃあ?」
「手伝います。正直、不安と寝不足で倒れてしまわないか、心配ではありますが――」
亜莉香が話している途中で、ユシアは勢いよく亜莉香に抱きついた。倒れそうになった亜莉香はユシアを支え、顔を見ようとするが、肩に押し付けられて表情は分からない。
驚いている亜莉香に、ユシアは囁く。
「私を一人にしないでくれて、ありがとう」
「いえ…これくらいのことしか、私には出来ませんから。でも、本当に私はどう動けばいいのか分からないので、ユシアさんに言われないと動くことは出来ませんからね」
「ええ、分かっているわ。それに知識と経験はあるわ。大丈夫、二人でも何とかしてみせる」
ありがとう、と繰り返したユシアに迷いはなかった。凄いな、と素直に思う。経験と知識があっても、亜莉香には無理。そんな度胸も、土壇場で動ける行動力もない。
だって私は、と心に浮かぶ言葉は、ユシアに名前を呼ばれて続かなかった。




