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降りしきる雨の音が、亜莉香の耳に響いた。
動かない人混みの中で立ち尽くして、頭の上には黒い傘。その傘を支えているのは、肩にいるピヴワヌで、ため息交じりに言う。
「何故、儂がこんなことを」
「変わりますよ」
他の人に見られたら、不自然な持ち方だった。誰かに指摘される前に亜莉香は本を抱え、もう一方の手で傘を握る。
足元の水溜まりに映って見えたのは、たった一度しか顔を見たことのない女性。
灯ではない。亜莉香が灯として過ごした時間で、渡り廊下で洗濯物を運んでいた女性。黒い着物姿で、黒い帯。喪服だと、すぐに気が付き、前を向く。
「皆、喪服ですね」
「ああ」
小さな声は雨で簡単に掻き消され、近くで忍び泣く声も一緒に消える。
頭より上を見れば、城の中に入る門の手前だった。横幅の広い道をゆっくりと進み、また人混みが止まる。門を越え、どこにも行けない場所から見える城には、大きな黒幕が下りていた。
その黒幕にも何も書かれずとも、誰が亡くなったのか予想は出来る。
それを裏付けるように、傍に居た人達の声が聞こえた。
「聞いた?結局、灯様のご遺体は誰も見ていないそうよ」
「やっぱりそうなの?でも亡くなったのは、本当の話だっていうじゃない」
「だから一部の人達はご遺体を見たけど、目を離した隙に消えたという噂なの。奏様や透様まで勝手に消えるかもしれないと、皆が警戒しているわ」
「一人で動くわけがないでしょ。誰の仕業か知らないけど酷い話」
「本当に、さっさと犯人が捕まればいいわね」
でも、と言った女性が、ますます声を落とす。
「あの噂は本当?透様は王子を庇ったせいで亡くなって、奏様は」
「馬鹿。ここで話しちゃ駄目よ。誰に聞かれているか分からないのよ」
片方が叱りつけられたせいで、話は中断した。それ以上の話を聞けないうちに、人混みが進む。おそらく話していた人達は見当がついたが、わざわざ聞きに行くつもりはない。
知りたいのは、灯でも透でもない、もう一人の人物の最期。
亜莉香は人混みから動けないとして、ピヴワヌなら、と視線を向けると目が合った。
「…行け、と?」
「可能なら」
「五分で戻る」
それくらいなら動いたとしても、数メートルだ。
承諾する前に肩から飛び降りたピヴワヌは、地面に着地する前に姿を消した。
進むのを待ちながら、亜莉香は考える。
奏、という文字を、確認した書類で見た。警備隊長の欄にあった名前は丁寧で、綺麗な文字だった。灯と透と同列にされる人物と言えば、一人しか思い浮かばない。
三兄妹の、最後の一人に亜莉香は会ったことがない。
その存在は知っている。灯と透の兄。兄さん、と灯が呼んだ記憶は、ネモフィルから受け取った二十年の前の精霊の記憶の欠片。顔こそ見えなかったが、そこでの会話は、奏と思われる人物が言った言葉は覚えている。
どんな人なのだろう、と思った。
灯のいう全てを託された人。
会ってみたいと強く願いながら、ピヴワヌの帰りを待った。五分は短いようで長い。降りしきる雨はやむことなく、不意に頬に冷たく濡れた毛が触れた。
振り返りはせず、亜莉香は言う。
「おかえりなさい。もう五分経ったのですね」
「まだ経っておらん。だが、知りたかったことは分かった。この城の中に精霊が多くて助かったな。おかげで苦労せずに済んだ」
ふわりと温かな空気を感じた途端、ピヴワヌの濡れていた身体は乾いた。
魔法を使っても、誰も気付かない。この場にいる人達にとって精霊は見えない存在であり、声すら聞こえていないのだろう。
亜莉香が大きな声で話さなければ、誰も不審に思わない。
それで、と促すと、ピヴワヌは口を開いた。
「突き落とされた」
「…誰が?」
「勿論、奏と呼ばれていた男だ。精霊共の目撃情報は多かったから、順を追って話す」
淡々と語るピヴワヌの声には、何の感情もなかった。ただ事実を述べ、亜莉香は黙って話の続きを待つ。
「異変が起きたのは、年に一度行われる、国王の生誕を祝う式典の翌日だ。裏門と呼ばれていた社を、お主も覚えているだろう?」
はい、と頷き、少しだけ前に進んだ。
少しずつ城へ続く足が重い。その先に待つのを見ることも、ピヴワヌの話を聞くことも、ここまで来ては避けては通れない道だ。
「その社の扉が――開いた」
「なんで?」
「そこまでは知らん。開かれた闇の扉からルグトリスが溢れ、城の中で暴れた」
脳裏に浮かんだは、つい先程までいた場所だった。
裏門隊員と呼ばれる人達がいて、亜莉香に気遣ってくれた人達の顔を、声を思い出す。目に焼き付けたはずの光景に涙が零れそうになって、同時に思い出したのは、何度も繰り返し見た悪夢だ。
灯は、もういない。
ここは、あの悪夢が過ぎた時間。
心が落ち着くまで待ってくれたピヴワヌに、亜莉香は訊ねる。
「裏門の皆さんは?」
「誰も助からなかった」
零れそうになった涙を堪えた。そんな気はしていた。
「裏門だけで対応しきれず、他の隊でも死傷者が出た。透は、な。あの王子をルグトリスから庇って、命を落とした。灯は悪夢で見た通り、一人で戦いに赴いて、最期は社の傍で眠るように横たわっていた。その表情は、心安らかだったらしい」
良かったのだ、とピヴワヌが呟いた。
小さな兎の身体は震え、亜莉香と同じように泣くのを我慢していた。ピヴワヌにとって、灯は主だった人物だ。例え契約していなかった時期だとしても、灯の死の度に心は傷付き、泣いていた。
慰め合う方法を知らず、亜莉香はピヴワヌの身体に頭を傾げた。
鼻をすすり、深く息を吐いてからピヴワヌが話し出す。
「数多くの命がルグトリスによって奪われたが、奏だけは違った」
「どんな風に、ですか?」
「奏だけは、城の上層階から突き落とされた。その時点で、既に重傷だったのだ。それに追い打ちをかけるように、人の手によって殺された」
どうして、と言いたかった。
言葉を呑み込み、悲しそうな言葉は続く。
「社の扉が開いたと知った王は、それが王冠のせいだと決めつけた。奏は王と王冠を護りに行ったのに、破壊されそうな王冠を見て奪い、逃走しようとした。その時に突き落とされ、そのまま――」
最後まで言わずとも、言いたいことは分かった。
「闇の扉も王冠も…翌日には灯の遺体も消えた。何故なのだろうな。その時は王冠せいだと決めつけた王は、翌日には目を覚ましたように、自分が間違っていたことに気付いたそうだ。まるで操られていたようだったと、精霊は言っていた」




