73-6
城の近くまで来て、木々の影から亜莉香は顔を覗かせる。
城の渡り廊下を行き交う人は様々だ。使用人と思われる女性もいれば、日本刀を身に付けた警備と思わしき男性もいる。身分の高そうな貴族には付き添いがいて、慌ただしさはなく、誰もが堂々としていた。
踏み出せない亜莉香の肩で、ピヴワヌは言う。
「場違いだな」
「そうですよね。なんて声をかければいいのか」
答えは出なくて、お互いに黙り込んだ。
声をかけることもだが、何となく亜莉香は視線を下げた。亜莉香の格好は変わっていないが、透は指摘しなかった。出会う人には違った服装であることを祈るしかない。
誰に話しかけようか迷えば、人の波がなくなった。
そのまま誰も来ないかと思えば、洗濯物と思われるものを両手で持った女性が一人で歩いて来た。足取りはしっかりしているが、落とさないように歩む速度は遅い。さりげなく話しかけたかったのに目の前を通り過ぎ、ピヴワヌが後を追った。
慌てた亜莉香も木の影から飛び出す。
女性には見えないピヴワヌの姿は、亜莉香にははっきり見える。女性の持っていた洗濯物の上に乗ったかと思えば、一枚のタオルが不自然に宙を舞った。
勿論、女性の後ろに投げたのはピヴワヌだ。
地面に落ちる前に亜莉香は拾い、振り返った女性が目を見開く。
「姫様!」
「えっと…落としましたよ」
「お手を煩わせて、大変申し訳ありませんでした」
女性が頭を下げようとすれば、他の洗濯物まで落ちそうになった。慌てて女性に近寄り、洗濯物を支える。一人で運ぶのに問題のない量だが、何か会話をせねばと亜莉香は言う。
「手伝いましょうか?」
「いえ、そんな。私のような者は、姫様に声をかけて頂くだけで十分です」
「でも、また風に吹かれて洗ったばかりのタオルが汚れては悲しいです。良かったら、途中まで一緒に行っても構いませんか?」
「それは…その…」
なんて答えればいいのか分からなくなっている女性に笑いかけると、恥ずかしそうに顔を下げられてしまった。
人選を見誤ったようだ。肩に戻ったピヴワヌの顔を見なくても、阿呆、の声が頭に響く。他に人がいなかったのだから仕方がないと反論するのは、心の中だけにした。
女性を困らせたいわけではないが、せめて一つくらい質問したい。
ご迷惑でなければ、と前置きして、亜莉香は訊ねた。
「太一という名の人物を、ご存知ですか?」
「城内隊長のことでしょうか?私はそれ以外の方を存じ上げないのですが」
段々と小さくなった女性の声は不安そうで、亜莉香は先程の透との会話で聞いた単語だと思い出す。透が逃げ出す相手となれば、優しい人柄ではないはずだ。想像したくも難しい人物に、自然と眉間に皺が寄った。
透を追いかける大柄の男性だろうだろうか。
詳しく聞きたいけど、それ以上のことを灯が聞くのは不自然ではないかと考える。透の顔見知りであり、灯とも知り合いなら、知っていて当然の人物。不自然ではない質問をもう一つ、と頭を捻る。その一つが思い浮かばずにいると、廊下に足音が響いて目を向けた。
従者を数人引き連れて、先頭を歩く青年は見覚えがある。
腰まで伸びた薄い茶色の髪を靡かせて、落ち着いた袴姿は上品だ。煌びやかな焦げ茶の着物に家紋を背負い、見るからに高級な素材の無地の袴は黒。身分の高いことは明白で、誰もが振り返りそうな整った顔。
陸斗、と声にならなかった名前は、女性の息を呑む音に掻き消された。
顔色が変わった女性が頭を深く下げ、廊下の端に寄る。
反射的に亜莉香も女性の隣に並び、両手を合わせて軽く頭を下げた。
素通りして欲しいと願ったのに、青年の足が目の前で止まる。嫌な予感を覚えたが逃げ出すことも出来ずに、息を止めるように身体が硬直した。
「…灯殿?」
灯の名前を呼ばれて、迷ったのは一瞬だった。息を吸い込み、ゆっくりと顔を上げる。
髪より深い瞳が亜莉香を捕らえ、驚きを浮かべた。見つめられる瞳に怯むことなく、亜莉香は胸を張って答える。
「はい」
「何故、ここに?」
「人を探していました。こちらにいると伺ったのですが、どうやら行き違いがあったようです。お邪魔にならないうちに、失礼しようと思います」
事実を織り交ぜて、すらすらと嘘が口から溢れた。
笑みを浮かべてみせた亜莉香のいる城の中に、きっと灯の居場所はない。少し考えれば、すぐに分かることだった。姫様と呼ばれようが、帰る家だったのは森の中の一軒家。
ここにいるのは危険、と心は訴える。
作り笑いとは言え笑みを浮かべた亜莉香に、微笑んだ青年は遠慮がちに言う。
「良かったら、少しお茶に付き合ってくれないだろうか?」
従者の一人が、王子、と呼んだ。
どうやら目の前にいる青年が王子だと、他人事のように理解した。急に誘われても断る選択肢しかないのは、亜莉香の顔見知りである陸斗と、瓜二つである青年と関わりたくない拒否反応。正直に断るにしろ、当時の灯なら何というべきか。
目の前にいる兄ではないが王子と呼ばれた青年を見て、ふと考える。
唇を結べば、頭の中にピヴワヌの声が響いた。
【逃げるか?】
【他に、穏便に済ませる方法はありませんか?】
【この状況は儂の中で、すでに穏便の域を超えておるわ。お主が嫌がっているのは分かる。丸腰の主くらい守れる。この場を凌いで、他で情報を集めても問題あるまい】
【それは、そうなのですが】
【先手必勝で、甘噛みでもいいぞ】
あまりにも軽かった提案は、本気だ。
ピグワヌとの会話は目の前の人物には聞こえてない。亜莉香の迷いを、青年は前向きに解釈したようで右手を差し出した。
その手に触れたくはない。
ピヴワヌの言う通り、今すぐに逃げ出したい。
その気持ちを押し殺せたのは、青年が灯にとって、どんな人物か少し気になったせいだ。灯が教えてくれないのなら、自分で調べるしかない。
調べるにしろ、お茶会とは別の方法で。
さっさと誘いを断るよりも早く、青年の間に割り込んだ背中に亜莉香は目を奪われた。
「――あ」
小さく零れた声が、自分の声だと気付けなかった。
後ろで結んだ明るい茶色の髪が、駆け寄った勢いで揺れていた。肩で息をする少年は、灰色の着物に黒い袴。腰には日本刀を身に付け、亜莉香に背を向けたまま、守るように割り込んで言う。
「申し訳ありません。裏門隊長を、正門隊長がお待ちです」
短くも明確に、用件だけを伝える声に、目頭が熱くなった。顔を見なくても、駆け付けてくれた少年が誰なのか分かってしまう。青年が後退り、少年の背中に亜莉香は隠された。
「お茶会は、またの機会に。よろしいですよね」
勢いに負けて頷くしかなかった青年の答えに、少年が振り返って亜莉香を見る。
「トシヤ、さん?」
「はい。行きましょう、姫様。先程言った通り、正門隊長が首を長くしてお待ちです」
黒い焦げ茶の瞳に映るのは、泣くのを我慢した亜莉香だった。
安心させるように、少年が微笑む。その笑みがあまりにも優しくて、懐かしくて。今度は拒絶することをせず、差し出された手に自分の手を重ねた。
軽く握りしめた手から伝わる温度があって、立ち止まっていた亜莉香を引っ張る。
一礼した少年に導かれて、青年の脇を通り過ぎた。途中から早足で、ピヴワヌが亜莉香の肩にしがみついたのに気付けず、ただただ少年の背中を見つめて足を動かした。
早足から駆け足へ、林の中を全速力で駆けた。
木々の間を抜けるから、真っ直ぐには進めない。引っ張ってくれる少年が居なければ、木々に激突してもおかしくなかった。
どんどん加速していく速度に、息が上がる。
足がつまずいた途端、トシヤと繋いでいた手が離れた。驚き、頭が激突するのではないかと、反射的に目を瞑る。
「――っ!」
予想していた衝撃はなく、代わりに誰かに抱きとめられた。
転びそうになった身体を支えたのは、咄嗟に振り返ってくれた少年。トシヤと同じ顔で、同じ名前の少年が、安堵した息を吐く。
「姫様、大丈夫ですか?」
「…はい」
「もしかして、体調悪かったですか?」
体勢を戻して、気遣う顔が目の前にあった。
視線が絡み、涙腺が緩む。例え亜莉香の会いたかったトシヤでなくても、同じ姿で心配されると、心に込み上げる感情がある。
大丈夫だと、答えたかった。
その前に少年の頭に向かって、小さな兎が身体ごと頭突きした。綺麗に地面に着地してみせたピヴワヌは二本足で立って腕を組み、後ろに倒れて尻餅をついた少年に言う。
「おい、儂を無視するな」
堂々とした態度に、腹の底からの低い声。
すっかり忘れていたピヴワヌの存在に、亜莉香の思考が停止した。頭を押さえて少年は、今更ながらピヴワヌに気付き、片膝をついて姿勢を正す。
「失礼しました。精霊様」
少年の丁寧な口調に、ピヴワヌの怒りが急速に萎む。
「今…何と言った?」
「無礼なことをしてしまい、大変失礼しました。精霊様」
長くなった言葉に、ピヴワヌが唸った。心の中でピヴワヌの知っているトシヤと、目の前の少年が被って、葛藤しているに違いない。
頭を上下に振って唸り続けたかと思えば、勢いよく瞳を開いた。
「やめろ!お主にそんな態度を取られるのは不愉快だ!」
「ですが――」
「敬語で話すな!様付けするな!さっさと立て!」
噛みつくようにピヴワヌが叫んだ。
どうするべきか、迷った少年が困った表情を浮かべる。無言で亜莉香に視線を送り、次の行動を問いかける姿に、小さくも頷き返す。
その返答で、少年は立ち上がった。鼻を鳴らしたピヴワヌも、すぐに亜莉香の肩に戻る。身体の向きを少年に向けて、それで、と問いかけた。
「小僧、名前は?」
「利哉です」
名乗った後に、少年は右手で宙に名前を書いた。
淡く赤い光の文字が反転して、亜莉香の目の前に漂う。揺らめき、すぐに文字が消えてしまえば、ふーん、と興味なさそうにピヴワヌが言った。
「小僧、強い魔力を持っているのだな」
「これでも城に仕える身ですので、それなりに」
「ふん。精霊の姿が見えているのに、謙遜するな。昔から精霊が見えたのか?」
敬語をやめずに、利哉は肯定した。名前を訊ねた本人でもあるピヴワヌは名前で呼ばず、小僧と呼ぶ。亜莉香が言ったら不自然な質問でも、ピヴワヌが訊ねる分には問題ない。
亜莉香に目線を配ったかと思えば、ピヴワヌは質問を重ねる。
「どこで生まれた?」
「王都です。生まれも、育ちも王都で、今は裏門を守る一人です」
「家族は?」
「父と母、それから妹が王都で暮らしていますが――」
何故そんな質問を、と利哉の表情が物語る。
ゆっくりと実感するのは、目の前にいる少年が亜莉香の全く知らない人だということ。
これ以上は聞かなくても良いと、判断したピヴワヌが黙る。分かっていたことだと笑えばいいのか。悲しめばいいのか分からず、亜莉香は作り笑いをするしかない。
何でもないと装って、利哉に問う。
「正門隊長が待っているのでしたよね?」
「そうです。一時間程前から裏門に来て、姫様を待っているのですが…具合が悪いなら、そのようにお伝えしましょうか?」
いいえ、と首を横に振った。
もう手を引いてもらわなくても、一人で歩いて行ける。誰に出会ったとしても、灯のように振る舞える。
「急ぎ、裏門に向かいましょう」
落とさなかった本を片手に、深呼吸した亜莉香は言った。




