73-5
響いた鐘の音で、亜莉香は顔を上げた。
夕焼け空を背景に、そびえ立つ城が見える。ほんの目と鼻の先に、少し歩けば辿り着きそうな城は、今まで見たどの建物より高い。白や灰色を基準とした煉瓦を敷き詰めて作られた城で、華やかではないが存在感のある城だ。
城の窓の一部は夕日を反射して、一部では城の中を行き交う人々が見える。その他にも上品なカーテンで閉められた窓もあれば、ベランダへと続く扉が開かれた箇所もあった。
近くの木々で鳥が羽ばたき、ゆっくりと視線を下げる。
林と言うより森のような場所は、木々の隙間が広い。青々とした木々が多くて、根からキノコが生えている木々もあり、地面の雑草も名の知らない花々も生き生きとしていた。
「…どこ?」
「儂も知らん」
いつの間にか肩の上に飛び乗ったピヴワヌが兎の姿で、即座に答えた。
「だが、魔導書の中と言って問題はなさそうだ」
「そうなのですか?」
「それ以外なかろう。さっきまで洞窟に居て、光に呑まれたと思ったら――これだ。ここがどこなのか、誰かに教えて欲しい所だが」
話をしながら、ピヴワヌの視線が隣にいたはずの人物を探す。
黄瀬の姿がない。
「消えたな」
「そうみたいですね。私はピヴワヌと一緒で安心しましたが、黄瀬さ…黄瀬が一人だと不安かもしれませんよ」
「お主が心配することはない。あいつは慣れているはずだろう」
本人がいなくても、呼び捨てにすることを意識した。黄瀬の不在を、ピヴワヌは気にも留めない。ひとまず安堵の息を吐き、亜莉香は手の中の本を見下ろした。
光もしない本は開いたままで、閉じようと思えば石のように動かない。
「動かんな」
亜莉香の代わりに事実を述べたピヴワヌに、頷き返した。
「どうしましょう?」
「どうもこうも、儂はお主の傍に居るぞ。ここがどこか気になるなら、少し散策してみるのはどうだ?近くに怪しい気配はないようだしな」
ピヴワヌの提案に、素直に同意した。
どこに向かうか。城の方角か、何もない森の中か。少しだけ悩みはしたが、片手に本を持ち、踏み出した足は城に向かう。
「とても不思議な感覚ですね」
「まあな。全てが現実のようで、本の中ということを忘れそうだ。狭間で過去を覗き見るようなものなのか。それとも――」
ピヴワヌの言葉が途切れたのは、近づいて来る人影に気付いたからだ。
真っ直ぐに、亜莉香に向かって来るのは見知った少年。
亜莉香の幼馴染である透が、両手を頭の後ろに回しながら歩いて来た。遠目でも目が合った気がして、狭間のように干渉出来ないはずだと自分自身に言い聞かす。
下手に動けなかったのは、透の姿がいつもと少し違っていたせいだ。
亜莉香よりも高い身長は変わらない。髪の毛の色や瞳は変わらず黒であるが、後ろの毛は腰よりも長かった。紺の着物に、黒の袴で腰には日本刀。その姿が高貴な雰囲気を醸し出し、違いを見つける度に目を離せなくなる。
当たり前のように亜莉香の目の前に止まった透が、首を傾げて言う。
「こんな所で、何をやっているんだ?」
灯、と透が言った。亜莉香の知る透が、灯と見間違えるとは思えない。
呆然としつつも、何か言わなければと訊ねる。
「えっと…透こそ、ここで何を?」
「俺はちょっと、城内隊長から逃げている途中。灯は朝から、裏門にいるはずだろ。そこで正門隊長と話をするとか何とか、今朝言ってなかったっけ?」
あれ、と不思議そうな顔をした透と、普通に会話が成立してしまった。
口を出そうか迷っているピヴワヌの視線を感じても、振り返れない。目の前の透は訳の分からないことを言い、亜莉香の知らない透みたいだ。
そんなはずはないと思いたいのに、それを否定する術がない。
困惑した亜莉香の顔の前で片手を振られ、そのまま軽く額を叩かれた。
「…痛い」
「ぼんやりして、裏門隊長が務まるのか?」
「裏門隊長?」
「おいおい、本当に大丈夫か?熱でもあるわけじゃないよな?」
伸ばされた透の右手が、亜莉香の額に触れた。
温かな手の感触に、急に実感が湧く。狭間のように見て触れられない場所じゃない。人に出会えば目を見て話せ、手を伸ばせば触れられる。
そっと透の手を振り払い、血の気が引いた亜莉香は身を引いた。
「私は大丈夫。ピヴワヌが…精霊が一緒だから」
透の視線が、瞳を伏せた亜莉香の肩で止まった。
じっと見つめるピヴワヌから目を逸らし、頭を掻きながら透は言う。
「灯が大丈夫だと言うなら、深くは追及しないけどさ。何かあったら、ちゃんと俺に言えよ。俺じゃなくても、リリアでも兄さんでもいいからさ」
分かった、と小さく返事をした。
微笑んだ透は亜莉香の肩を叩いて、横を通り過ぎる。そのまま森の中に消えてしまった後ろ姿を見送ってから、肺に溜まった息を吐き出した。
「ここは、何なのですか?」
「儂は知らんと言っただろう。だが、あいつはお主を灯と呼んだ。儂のことを見て見ぬふりと言うより、知らんような顔だった。ここが魔導書の中であるのは間違いないとして、知ろうとしていたのは千年前の里のこと。お主が出会った透は――」
亜莉香と同じく透が消えた先を見据えて、ピヴワヌが言う。
「千年前の透ではないか?」
城を目指そうとしていた足が重くなった。
例えば誰かに見られたとして、存在しない者なら何も気にせずに進める。それが叶わず、灯として認識されるなら、亜莉香の行動で何かが変わる。
過ぎった不安に立ち止まりそうになっても、ピヴワヌは言葉を続けた。
「さっきの奴が千年前の透だとしても、だ。魔導書の中で何をしようが、現実では何も変わらない。気にせず、城に向かうぞ」
「灯さんとして、ですよね?」
「ここで否定しても、頭がおかしいと思われるからな。灯として振る舞うのは嫌かもしれんが、何かを知りたいなら立ち止まるわけにもいかん。千年前の事実を知るのが、お主の望みであろう?」
過ぎった不安は、ピヴワヌの真っ直ぐな瞳が吹き飛ばした。
深呼吸をして心を落ち着かせ、手にしていた本を両手で強く抱きしめる。
「はい」
「なら、心のままに進め。儂は離れん」
「そうします。先に進みながら、黄瀬を探してみましょうか」
踵を返し、笑みを浮かべて亜莉香は言った。
「探しても良いが、そう簡単に見つかるとは思えん。なんせ気配がしない。お主が灯に見えるように、あいつも別の人物として存在しているかもしれんな。あー…探すのは面倒だ」
後半の声は小さかったが、亜莉香にはしっかり聞こえた。ずっと笑って、お気楽に城に向かうわけにはいかない。灯として、他の人に違和感を与えないように気を引き締める。
それでもピヴワヌが面倒だと繰り返せば、亜莉香は自然と笑ってしまった。




