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月明かりに照らされた道を、亜莉香は黙って歩いた。
先頭には上機嫌な黄瀬がいて、後方では不機嫌なピヴワヌが歩く。いつもより大きく感じる月のおかげで、他の明かりは要らない。雪が止んだ白銀の世界は静かで、とても寒い。頬や鼻を赤く染めながら、両手を温めて歩くのは亜莉香だけ。
向かう先は、黄瀬の家の背後にそびえ立つ森の中。
森の途中から広い道が現れ、誰かが雪かきをした跡が残る。周りの木々は葉がなくて、枝も幹も雪で白い。幅が二メートル程の道は、どこまでも続きそうな雰囲気があった。
サクサクと雪を踏み締める、三人分の足音が響く。
無駄な話はしない。誰かが話題を持ち出すこともない。
部屋で眠っているヒナの面倒は、黄瀬の家にやって来た少女に任せて家を出た。ほんの少し顔を合わせただけでも睨まれたのに、ピヴワヌにも黄瀬にも気にするなと言われてしまえば、今すぐに仲良くなるのは諦める。
背が高く、年が近そうな胡桃色の髪を持つ少女であったが、精霊の血を引くのなら、その見た目と年齢は合っていないのだろう。頭に被った白い着物から覗く髪は腰より長く、眉が出る程、切り揃えている前髪は短かった。強い意思が宿る瞳の色は黄色に近い強い黄緑の、鳥の鶸のような色。琥珀色の着物は素朴な縦縞で、瞳と同じ色の帯を固く結んでいた。
何もしていないのに敵意を感じたのは、この際考えないことにする。
黙々と歩いているうちに、案内された場所は水飛沫を上げる大きな滝だった。
寒い冬にも関わらず、勢いよく流れる水が数メートルの崖から落ちる。落ちた先の滝壺は綺麗な深い青緑で、離れるにつれ透明感のある色に変わっていた。
足が止まりそうになった亜莉香に、先を歩く黄瀬が言う。
「もう少しで着くけど、疲れてない?」
「大丈夫です」
「一体儂らを、どこに連れて行くつもりだ?」
「それは着いてからのお楽しみ」
のらりくらりと質問をかわす黄瀬が楽しそうで、ピヴワヌはため息を零した。何度同じ質問をしたところで、掴みどころのない背中は答えない。
亜莉香は微笑みつつも歩き続け、滝の裏側まで進んだ。
途中で一人分しか通れない細い道に変わったが、一本道なので迷いはしない。上を見上げれば流れる水が月の光を透かし、まるで滝が光っているように見えた。
爽やかな水の音が、耳に響く。
不意に現れた洞窟に近づき、歩みを止めた黄瀬は振り返る。
「ここから先は、少し狭い。足元や頭上に注意して欲しい」
真面目な警告に頷けば、頭を下げた黄瀬が踏み出した。
倣うように身をかがめ、亜莉香とピヴワヌも後に続く。天井の僅かな隙間から漏れる月の光を道標に、狭く細い道を行く。大小様々な石が散乱しているのは、足の裏から伝わった。転びそうになって両側にある石壁に手を伸ばせば、ごつごつとした手触りや丸くて固い岩の壁だった。生き物の気配はなくて、代わりに奥に進むたびに微かに甘い花の匂いがする。
何の花の匂いか。
途中で道が分かれても、どこかで嗅いだ匂いのする方角が進むべき道だ。
幾つもの分かれ道を越えた。聞こえていた滝の音が聞こえなくなって、月の光が少しずつ減っていった。薄暗い中を手探りで歩けば、黄瀬の輪郭を照らすような光が増していく。
一度だけ、強い風が吹いて亜莉香の髪が靡いた。
辿り着いた広い空間は洞窟の奥で、頭上からふわりと光が落ちる。
まるで光る雪のように、か弱くて、地面に辿り着いては溶けるように消えた。天井の中心である高い位置に、丸い窓がある。目を凝らせば、はめ込まれているのは無色透明なガラス。その窓は月の光を受け止め、月から降り注ぐように小さく柔らかな光が舞い降りていた。
束の間の驚きと感動を覚えて、幻想的な光景に目を奪われる。
とても美しい場所は光に満ち、立ち止まった亜莉香は呟く。
「…綺麗」
「温かな場所だな」
亜莉香の隣に立ったピヴワヌに言われて、今まで感じていた寒さが消えたと知る。
降り積もることのない光は、亜莉香の手のひらに落ちても消えた。生まれては消えゆく光を眺め続けていたいが、一人だけ中央まで行った黄瀬が振り返り、手招きした。
「こっちだよ」
ピヴワヌと顔を合わせてから、亜莉香は急ぎ足で黄瀬の元へ向かう。
中心にあったのは、たった一冊の本だった。
何の変哲もない小さなテーブルに置いてある、古びた本。上品な革の表紙は、見る角度によって何色にも見える。深い赤でも青でも緑でもあれば、黒にも白にも変わる。
場所を空けた黄瀬を見向きもせず、亜莉香は訊ねた。
「これは…?」
「この里で代々受け継がれてきた、魔導書。里を訪れる来訪者が望めば、里の者がこの場所まで案内する。と言っても、実際に案内することなんて滅多にないけど」
「この中身はうかつに人に話せない内容か」
「いや、そうでもないかな。この魔導書に込められた記憶や想いは、各家で受け継がれているし。普通に里の連中同士で喋っていることもあるし」
黄瀬とピヴワヌの会話は耳を通り抜け、亜莉香は本から目を離せない。
「それで、儂らにどうしろと?」
「それは簡単。本を開けば、千年前に行ける。と言っても魔導書を作った著者が、椅子に座って語るだけとも言えるかな」
「狭間で過去を覗き見る感じか?」
「ごめん。それはちょっと分からない」
両脇で話す二人の声が遠ざかった。
そっと本に手を伸ばす。狭間で過去を見ることを説明するピヴワヌと、それに質問をぶつける黄瀬の内容を聞き取れない。本の表紙を撫でれば、何も書いてなかった表紙の右下に文字が浮かび上がり、亜莉香の瞳に焼き付いた。
「太一」
とても小さく読み上げた亜莉香の頭に、たっくん、と呼ぶ灯の声が聞こえた。
懐かしそうに、会えて嬉しいと喜ぶように、灯は表紙の人物の名前を呼んだ。きっと灯にとって大事な人だと、名前を呼んだだけで亜莉香にも分かる。
灯の気持ちが亜莉香まで伝わって、何故だか涙が伝って本に落ちた。
涙が光り、表紙に染みこむ。本全体が淡く白く光り出し、傍に居た二人が驚いた。それでも手に持った本を離せずにいれば、今度は中心に文字が浮かぶ。
本のタイトルにしては長かった。
自然と動く身体は止められない。左手に持った本を、右手で開こうと手をかける。僅かに震える右手に深く息を吐き、表紙の言葉を読み上げる。
「全ては――貴女を導くために作り上げられた物語」
本を捲った途端、あまりに眩い光に目を閉じた。




