73-3
うたた寝をしていた亜莉香は、扉を叩く音で目が覚めた。
いつの間にか日が暮れ、部屋の中は薄暗い。顔を上げれば、部屋の中は何も変わっていなかった。眠り続けるヒナも、窓の外を眺め続けるピヴワヌも、膝を抱えた状態だった亜莉香の身体は固くなって、ゆっくりと腕を上に伸ばす。
もう一度、扉を叩く音がした。
返事をすれば扉が開き、青年が顔を覗かせる。ピヴワヌは振り向きもしないので、青年の視線は、自然と亜莉香で止まった。
「もしかして、寝ていた?」
「えっと…少しだけ」
嘘をつく必要もないので、腕を下ろしつつ答えた。
まだ眠たくて、瞳を擦る。その隙に青年が部屋の電気を付け、一気に部屋の中が明るくなった。布団以外に何もない部屋だけれど、天井は低くて広いとは言えない。
屋根裏にある部屋だと、青年は言っていた。
いつものように食事を持って来てくれたのかもしれないと、姿勢を正し、腰を上げれば、青年は部屋の中を見渡してから言った。
「もう一人の精霊殿は、まだ戻っていない?」
「はい」
余計なことを言う必要はないと、最低限の返事をした。
「ふーん。なるほど、なるほど」
勝手に何かを納得して、青年が部屋の中に足を踏み入れる。食事を運ぶことはあっても、部屋の中に入り、ヒナの近くに腰を下ろしたのは初めてのことだ。
警戒を怠らぬまま、亜莉香は青年の動きを観察する。
傍に座っただけで何もしない。代わりに亜莉香を振り返り、笑みを浮かべて訊ねる。
「この子と人の子は、どんな関係なわけ?」
「人の子ではない。アリカだ」
身体を動かさずに顔を青年に向けたピヴワヌが、はっきりと言った。
「いつまでも人の子と呼ぶな。名を蔑ろにすれば、その見返りが己に返るぞ」
「それは失礼した。蔑ろにしたつもりはないけど、人の子にお目にかかるのは随分と久しぶりでね。そう言えば、名乗ることすら忘れていたよ」
喧嘩腰のピヴワヌに対して、余裕を持った青年が改めて亜莉香に向き直る。
少し灰色がかった黒い瞳は、まるで全てを見透かしているように見えた。態度を改めるように正座して、両手を膝の上に揃えて言う。
「俺はキセ。黄色の瀬戸際とでも言えばいいのか。さてはて、これで通じるかな?」
話をしながら右手を動かし、宙で描いた線は淡い光を放つ文字となる。描いた文字が反転して、黄瀬、の文字が亜莉香の目の高さで揺らめいた。
何度か瞬きするうちに光は消えて、驚きを隠せず亜莉香は口を開く。
「黄瀬、さん?」
「さん、は要らない。その代わり、こちらも呼び捨てにすることを許して欲しい。さて、人の子の名前は?」
新しい玩具を見つけた子供のように、黄瀬が瞳を輝かせた。
先程ピヴワヌに名前を呼ばれたが、改めて名乗る必要がある様子。黄瀬と同じように文字を描けるとは思えなくて、口頭で伝わることを祈って言う。
「唖然の右側に、草冠に利口の利、香りの三文字を組み合わせて、亜莉香です」
「亜莉香」
即座に繰り返された名前に、少し驚いた。
驚いただけで、返事をすることはない。瞳を逸らさなかった黄瀬に見つめられ、暫しの沈黙が訪れた。それを破ったのはピヴワヌの微かな笑い声で、立ち上がると傍にやって来た。
隣に立ち、亜莉香の肩に手を添える。
「名を知っただけで、我が主を縛れるとは思うな。もし我が主に手を出そうものなら、その命はないからな」
「これは失礼。彼女の力を確かめるようにと、一応長老からの命令で。精霊殿のお怒りを買うつもりは、微塵もありません」
「それが簡単に信じられる程、儂は単純じゃない」
ゆらりとピヴワヌの身体が揺れて、白く巨大な兎に変わりそうな気配がした。
見るからに不機嫌で、怒っているのは分かっても、その理由が分からない。ただならぬ雰囲気に、黄瀬が誠心誠意を込めて深々と下げた。それでも収まらないピヴワヌの荒れた心情に、疎外感を隠せず亜莉香は呟く。
「…私の分からない話は、やめて頂けませんか?」
案外部屋に響いた一言で、ピヴワヌの怒りは瞬時に消えた。
鼻を鳴らして、勢いよく亜莉香の隣に腰を下ろす。胡坐を掻き、腕を組んで、偉そうな態度を示しながらも、それで、と黄瀬に話しかけた。
「顔を上げて話せ。ついでに儂に対する仰々しい態度をやめろ。虫唾が走る」
では、と言った直後に顔を上げた黄瀬の表情は明るく、開き直って口調が変わった。
「礼儀正しくするのはやめる。俺だって、好きで話し方を変えたいわけじゃないからね。長老や頭の固い連中が精霊を崇め、礼儀を尽くせと言うから従っただけのこと。本当はもっと早く話したかったのに、中々お許しが出なくてね。数日は様子を見ろ、だとさ。数日様子を見たからって、何か分かるものかね?」
両手を後ろに置いて気楽に話す黄瀬の言葉を、ピヴワヌはため息を返す。
「そっちの都合など知らん」
「そんなことを言わないで欲しいな。こっちは久しぶりの来客で、嬉しくて堪らないのに。人の子が里にやって来るなんて、もう百年も前のことさ」
「百年前ですか?」
信じられない亜莉香に微笑み、黄瀬は片手を宙に掲げた。
指を鳴らした途端、どこからともなく三つのティーカップが現れる。とても薄く真っ白な姿は花のように可憐で、花びらを表すように縁が波打っていた。宙を移動し、それぞれが手に取る。とても軽い。注がれている紅茶は薔薇の香りを匂わせ、温かな温度が亜莉香の両手に伝わった。
「お茶でも飲みながら話そうか。亜莉香にも分かるようにね」
乾杯、と言いながら黄瀬がティーカップを掲げたので、反射的に亜莉香も真似した。ピヴワヌは一人だけ紅茶を口に含み、深く息を吐いて訊ねる。
「お主、相当長く生きているな」
「流石精霊殿。見れば分かる?」
ピヴワヌは首を縦にも横にも振らなかったが、黄瀬は気にせず話し出す。
「俺はね、先祖返りと言われているのさ」
紅茶で喉を潤すと、黄瀬は床にティーカップを置いた。
「亜莉香、俺はいくつに見える?」
「えっと…二十歳前後、でしょうか?」
最初の印象を正直に言えば、にやりとした笑みを返された。
「残念。それに十を掛けて欲しいね」
「二百、歳?」
「他の連中より、精霊の血を強く受け継いでいるな。儂に隠すのは無駄だ。隠す奴ほど、力の扱い方に長けているのは知っている」
じとっと黄瀬を見つめるピヴワヌの眼差しは鋭い。微笑む黄瀬が、言葉に詰まった亜莉香に向ける眼差しは優しかった。
「この里の中で俺は古株で、見た目以上に長く生きている。この里の連中は皆、多少なりとも精霊の力を身体に宿しているのさ。片親が精霊であるのは、今となっては、長老と俺くらいだね」
なんてことなく言った言葉が、亜莉香の耳には遠い場所での出来事に聞こえた。目の前にいる存在が二百年も生きていることも、精霊の力を宿した存在であることも、そう簡単に信じられることじゃない。
そっとティーカップに手を伸ばした黄瀬が、口元に運ぶ。
「俺と長老以外は、祖父母や曾祖父、曾祖母である精霊の力を受け継いでいる。俺より見た目が老いた奴が俺より若いこともあるが、それなりに上手に付き合っているつもりだよ」
「そうだとしても、この里で力の強い精霊の姿を見ておらん」
「皆、いなくなった。千年も経てば、何もかも変わるさ」
千年と言う単語が、亜莉香の心に引っかかった。それはピヴワヌも同じで、眉を潜める。
千年前と言われれば、思い出すのは灯が生きていた時代。ここでも何かが繋がって、亜莉香が導かれたのは偶然ではないと知る。
ぬるくなり始めた紅茶をようやく一口飲み、亜莉香は小さくも質問した。
「千年前に、何があったのですか?」
「それは俺が説明するより、見た方が早い。なにせ一言では済まされないことでね。俺は案内こそ出来るけど、当事者ではない。何もかも知っているように易々と語るのは、この里の掟に反する」
「もったいぶらずに、さっさと言え」
「それは無理だって。そこまで言うなら、今からでも案内することにしようか」
いらいらしたピヴワヌに肩を竦めて見せた黄瀬は、不意に窓の外を眺める。窓の外、その奥で黄瀬にしか見えない景色を眺め、誰にでもなく呟いた。
「――それが俺の、為すべき役目さ」




