73-2
扉を開けると、ネモフィルは部屋の隅で膝を抱えていた。
その視線はヒナを見ているようで、全く見ていない。どちらかと言えば床を見つめ、身体を小さくして繰り返すは、スクレ・シュクセスという里の名前。
亜莉香が部屋に戻って来たことすら気付かず、ネモフィルの名前を呼ぶと振り返った。
「おかえりなさい」
「ただいま。里の名前を繰り返して…何かありましたか?」
一瞬だけ目を向けたヒナに、変化はない。
被っていた麦わら帽子を入口近くに置き、ネモフィルの近くに腰を落とす。
背筋を伸ばしたネモフィルは正座をして、腕を組んでから首を傾げた。
「何もないわよ。けど、スクレ・シュクセスという言葉を、どこかで聞いたことがあるのよね。それがどうしても思い出せなくて」
「年だな」
ぼそっと呟いたピヴワヌを、ネモフィルが睨んだ。言った本人は窓辺まで行き、外を眺める。その位置が落ち着くようで、部屋の中での定位置とも言えた。
余計なことを、と思いつつ、笑みを浮かべた亜莉香は質問を返す。
「誰かから聞いた言葉ですか?」
「そう…だった気もするし、どこかで読んだ本に書いてあった気もするのよね。セレストに戻れば思い出せそうだけど――」
だけど、と言った後に目が合い、困ったようにネモフィルは笑った。
「まだ、アリカから離れたくなかったの」
「もう十分だろう。アリカは見た通り元気で、動けないのは小娘が起きないせいだ。小娘が起き次第、里を出る」
断言したピヴワヌの言う通りだ。胡坐を掻いたまま、身体の向きを変えたピヴワヌは、それに、と付け足した。
「儂が傍に居る限り、もう手の届かない場所には行かせん」
「もう、どこにも行く気はありませんよ?」
「そう言って、ふらっとどこかに行くのがお主だ。現実でも狭間でも、夢の中ですら、道に迷ったことがあるだろう」
それを言われたら、言い返せない。
小さく唸り、反論したいが、言葉が出なかった。ネモフィルの笑い声が聞こえ振り返れば、肩を震わせて膝に頭を寄せていた。
「馬鹿兎がそこまで言うなら、一度、透の所に戻ろうかしら。ここにいても、水鏡で連絡は取れないし、外に出れば、その子を目覚めさせる方法を探せるし」
「そうしろ。さっさと戻って、無事であることを伝えるのだな」
「あら、それは透に?それとも、トシヤにかしら?」
後半の名前に、ピヴワヌの顔が歪んだ。
咄嗟に亜莉香は何も反応しなかったが、ネモフィルには横目に表情を確認された。瞳を伏せてから、さっさと立ち上がり髪を靡かせる。
「どちらにせよ。アリカの無事を伝えるわ。他に伝えたいことはある?」
ネモフィルに問われ、亜莉香は首を横に振った。
「今は…特にありません」
「儂もないからな。無駄口を叩いていないで、さっさと行ったらどうだ」
「そこまで追い出したいなら、さっさと出て行くわよ」
舌を出して見せたネモフィルが怒っていて、知らん顔のピヴワヌは窓枠に肘を置き、既に身体の向きを変えていた。片手で追い払う仕草まですれば、頬を膨らませたネモフィルが勢いよく亜莉香を見た。
「アリカ!あの馬鹿兎が嫌になったら、すぐにでも契約を破棄しなさい!」
「おい、勝手なことを言うな!」
ピヴワヌが片足を立たせる前に、胸を張ったネモフィルが右手を胸元に当てて叫ぶ。
「代わりに私がアリカの精霊になるわ!」
「おぞましいことを言うな!それにお主には瑞の護人がいるだろうが!そんな簡単に主を変えるな!」
「五月蠅い馬鹿兎!アリカに何かあったら、貴方を責めるから覚悟なさい!」
勢いよく指差されて、その勢いにピヴワヌの腰が引けた。
鼻を鳴らしたネモフィルは踵を返し、扉を思いっきり閉めて出て行った。その背中にピヴワヌは何も言えないまま、静寂が訪れた部屋で亜莉香は問う。
「契約の破棄とは…どうやってやるのでしょう?」
「…やる気か?」
「いえ、参考までに」
微笑みながら言えば、座り直したピヴワヌが深く息を吐いた。
冗談でも口には出さない方が良い話のようだ。ピヴワヌが本気にしたら可哀想なので、さっさと話題を変える。
「それにしても、ネモがいなくなると寂しくなりますね」
「儂は清々したぞ。近くにいると五月蠅くて仕方がない」
だが、と一呼吸を置いて、ピヴワヌは窓の外を眺めた。
「あれでいて、気が利く奴ではあるな。体力はないが知識はあるし、何だかんだ言いつつ、頼めば引き受け責任を持つ奴だ」
「それは本人がいる時に言ってあげたら、どうですか?」
素直にピヴワヌが褒めるのは珍しいが、亜莉香の言葉に返事はなかった。本人に言ったところで、ネモフィルも素直に喜ぶとは思えない。
ピヴワヌと顔を合わせない時に、ネモフィルの本音も聞いてみたい。
壁に背を預けて足を崩した亜莉香も座ったまま、ぼんやりと外を眺めた。
窓の外では、ふわりと雪が舞い降りる。まだまだ終わらない冬が続きそうで、空は雲に覆われ始めた。どんよりとした天気の下で、ネモフィルは透の元へ向かっているのだろう。
冬も雪も好きだけど春が待ち遠しいと、亜莉香は肩の力を抜いた。




