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Last Crown  作者: 香山 結月
序章 薄明かりと少女
36/507

08-2

 二人分の足音が遠のくと、亜莉香は部屋に残っていたケイを見た。

 アンリがいる間は伸びていたはずの背筋が曲がり、一回り小さくなって見えたケイは誰もいない中庭を眺めていた。ケイの名前を、小さな声で呼ぶ。


「ケイさん」

「つまらない話を聞かせてしまったね、忘れておくれ」

「忘れられるはず、ないお話でしたよ」


 ケイの目の前の手を伸ばせば届く距離に正座した。


「聞いた話を口外するつもりはありません。トシヤさんやコウタくんには、ケイト・ポルトはケイさんの知り合いで、アンリちゃんが手掛かりを見つけられたことだけを、伝えたいと思います


 ただ、と言葉を止めて、亜莉香はケイの右手に触れた。

 痩せて細くなり、短い爪に荒れた手の甲を両手で包み込むと、ケイの右手は微かに震えていた。今までアンリに対して接していた態度からは一変して、ケイの様子は弱々しい。

 話を聞いていて、どうしても知りたかったことを亜莉香は訊ねる。


「ケイさんが、ケイト・ポルトであることを忘れていたのは嘘ですよね?」

「どうして、そう思うのだい?」

「本当に忘れていたのなら、きっとぬいぐるみと同じ布で作られた匂い袋を、肌身離さず持っていないでしょう」


 亜莉香の言葉に、ケイはようやく顔を上げた。

 何も言わないが、瞳に影があるように見えて言葉を続ける。


「アンリちゃんのお母さんにとって、大事なぬいぐるみだったように。ケイさんにとって、大事な匂い袋だった。私には羨ましいと思えるほど、お互いが大切な存在だったのですね」

「昔の、話だよ」

「違いますよ」


 ケイの言葉を否定して、亜莉香は言った。


「今でも、お互いにとって大切な相手です。だからケイさんは私に匂い袋を直すように依頼して、アンリちゃんはお母さんのためにぬいぐるみを直そうとしたのです」

「だけど、ぬいぐるみを直すことは出来なかった」


 過去形で言ったケイは視線を下げ、空いていた左手を亜莉香の手の上に重ねた。

 悔しそうなケイに、亜莉香は確認を込めて言う。


「本当に、縫えないのですか?」


 ああ、とケイは重々しく頷く。


「縫えないよ。最初の頃はね、また縫おうとした。けど、駄目だった。針を持つと手が震えて、酷い時は過呼吸になって。もう縫うことは叶わないのだと諦めた」


 仕方がないのだと、ケイは呟く。


「事故が、私がもう二度と針を持たせないようにするために貴族が仕組んだと知った時、針を持つこと自体が恐怖になった。どれだけ縫いたくても、その恐怖が消えてくれない。また怪我をさせられるかもしれないと、そう思い込んでしまったんだ」

「そんなことは――」


 ない、と言おうとして、言葉が止まった。

 言い切れないのは、それが過去のことで、ケイの言葉は事実に成りえたかもしれないことだからだ。当事者でもなく、軽く話を聞いただけの亜莉香が言える言葉はない。

 話を聞いて悲しくなって、それでも、と情けない声が出る。


「私は、アンリちゃんを助けたいです。ケイさんがぬいぐるみを元に戻したいと望むなら、私は力になりたいです」


 だから、と必死に考える。

 ルグトリスから助けてくれたアンリと、お世話になっているケイの二人に、今の亜莉香が出来ること。


 頭の中に、一つの案が浮かんだ。それはお節介なことかもしれない。

 そうだとしても一度思い付くと、口に出さずにはいられない。


「ねえ、ケイさん――」


 思いつくままに語れば、諦めていたケイの瞳に光が戻り、うっすらと涙が浮かんで見えた。






 部屋から駆け出すと、亜莉香は靴を履かずに外に飛び出した。

 ケイの店の前で、雨が降りそうだった空の下にアンリは立っていた。着物を頭に被り、今にも立ち去りそうなアンリと、その隣でアンリの背中に手を添えていた男性を見つけるなり、亜莉香は叫ぶ。


「待って!」


 亜莉香の声に、アンリと男性が同時に驚いた顔で振り返る。


「アリカさん?」

「――っ、待って!まだ、行かないで下さい」


 息絶え絶えに話してアンリの前にしゃがむと、右手で胸元を押さえた。全速力で走ったので、息が上がって上手く声が出ない。

 亜莉香が息を整え話し出す前に、アンリは言う。


「折角手伝ってもらったのに、何も言わずに立ち去ろうとして、申し訳ありませんでした」

「いえ、それは。気にしないで下さい」

「…私の名前を聞きましたよね?」


 アンリの質問に亜莉香が顔を上げれば、悲しそうなアンリの顔が瞳に映った。

 素直に頷いた亜莉香に、アンリは自嘲気味に話し出す。


「ケイト・ポルトが言った名前が、私の本当の名前です。驚きましたよね?」

「少しだけ」


 ようやく心臓が落ち着いた亜莉香を見ようとはせず、アンリの視線は下がる。


「私、嬉しかったのですよ。まるで普通の子どものように、アリカさんもトシヤさんも、コウタくんも接してくれて。トシヤさんやコウタくんにも謝っておいて下さい。きちんと名乗らなかったことを」


 ごめんなさい、とアンリは言った。

 心の底から申し訳ないと感じて謝るアンリに、亜莉香は優しく言う。


「謝る必要なんてないです。なんで、謝るのですか?」

「だって、本当のことを言わなかったから。本当の名前を知られたくなくて、隠して。距離を置かれる気がして。それが、嫌で」


 段々と、アンリの声は小さくなる。


「私は…どうしても本当の名前を名乗れませんでした」

「どうして、名前を聞いたくらいで距離を置くのですか?」


 ふと質問をすれば、アンリが驚いた顔で亜莉香を見た。


「え…?私の名前を聞いて、その、思うところもあるでしょう?」

「私が驚いたのは、長い名前だったことです。私はこの街について、貴族について、何も知らないのですよ。なので、アンリちゃんの名前を聞いても、思うところはなくて。やっぱり貴族だったのかな、程度なのですが」


 徐々に自信を失くした話し方になり、まだまだ知識のないことを実感する。

 虚を突かれた顔のアンリが何か話そうとする前に、亜莉香は微笑んだ。


「名前は、大事ですよね。だからと言って、それに縛られる必要はないと思います。どんな家名を持っていても、アンリちゃんはアンリちゃんです。違いますか?」

「それ、は…」

「名前を知られたくない、と言うのなら、私は今日聞いた名前を忘れます。誰にも言いません。私は本当に、トシヤさんとコウタくんに、アンリちゃんの本当の名前とその謝罪を伝えた方がいいですか?」


 はっきりと問えば、アンリは呆然として言葉を失っていた。瞬きを繰り返してから、唇を噛みしめ、うっすらと涙を浮かべる。嬉しそうに、笑みを零して首を横に振る。


「言わないで、くれませんか?もう少し、私はこのままでいたいです」

「はい、約束します」

「ありがとうございます」


 アンリが軽く頭を下げて、亜莉香はちらっとアンリの隣の男性を見た。目が合った男性は面白そうなものでも見るような視線を向けている。

 何が面白いのだろう、と考えてから、亜莉香はハッとした顔で言う。


「もしかして、私が言わなくても、コウタくんのお父さん経由で話してしまう、なんてことはないですよね?」

「言いませんよ、それがアンリ様の命令なら。これでも口は堅いので」

「良かったです。えっと…コウタくんのお父さんとお呼びすればよろしいですか?」


 首を傾げながら、亜莉香は言った。


「コウタの父でも構いませんが、私の名前はコウジ、と言います。妻のムツキから話は聞いています。アリカさん、でしたね。妻や息子がお世話になっています」

「いえ、お世話になっているのは私の方です」


 先に会釈した男性に、亜莉香も軽く頭を下げた。それで、とコウジは口を開く。


「何か用事があって、アンリ様を呼び止めたのでは?」

「そうでした」


 言い忘れていたことを指摘され、亜莉香は恥ずかしくなった。本来の目的を思い出して、アンリが大事そうに、両手で抱えている小さなぬいぐるみを確認する。

 アンリと視線を合わせると、亜莉香は遠慮がちに言う。


「私、お願いがあって来たのです。アンリちゃんが持っているぬいぐるみを、私が預かることは可能ですか?」

「可能ですが…?」

「私が、直してもいいですか?」


 予想外の言葉にアンリは驚き、すかさず言い返す。


「直していただけるならお願いしたいですが、この子の元の形は作った本人とこの子を受け取った母しか分かりません。失礼ながら、私はアリカさんがこの子を直せるとは思えないのですが」


 遠回りに拒否されていることは分かるが、そこで引くつもりはない。

 ほんの数分前にケイと話をした。

 話して分かったことは、どうしてもケイは縫えないという事実と、仕方がないと諦めていること。そして、本当は直してあげたい気持ちが、ケイの心の中にあること。

 話を聞いたからこそ、力になりたいと思った。直す方法は、一つじゃない。


「私一人では直せません。私とケイさんで直します」

「どういうことですか?」

「ケイさんは、どんなに頑張っても縫えません。それは変わらない事実です。でも、直したくないわけではありません」


 分かってもらうために、一呼吸おいて亜莉香は言葉を重ねる。


「ケイさん、そのぬいぐるみの元の形ははっきり覚えているそうです。今だって、ぬいぐるみと同じ布でアンリちゃんのお母さんが作ってくれた匂い袋を持っているくらい、ケイさんにとってアンリちゃんのお母さんは大切な人です」

「本当に?」

「はい」


 たった一言で、アンリの瞳が輝いた。だから、と亜莉香は自信を持つ。


「私がケイさんの代わりに縫います。破けたところは縫い合わせて、片目がないので、同じ材料を探すのには時間がかかりますが。それでも良ければ、私に預けてください」


 お願いします、と亜莉香は頼んだ。もしかしたら拒否されるかもしれない、と思ったが、それは杞憂で終わった。アンリは返事よりも早く、持っていたぬいぐるみを差し出す。


「この子を、よろしくお願いします」

「確かに、お預かりします」


 今にも壊れてしまいそうなぬいぐるみを、亜莉香はそっと受け取った。

 それから、とアンリは胸元から何かを取り出す。

 取り出して見せたのは、取れてしまった片目と、それを包んでいたぬいぐるみと同じ布の端切れ。それらを見ながら、アンリは言う。


「片目を探す必要はありません。私が壊したので、大事に取ってあったのです。破けているところは、この端切れを使えませんか?一応同じ模様の端切れを、持って来たのですが…」

「同じ布が、あったのですね」


 驚きながら片目と端切れを受け取れば、アンリは微笑んだ。


「元々は、母の着物を作った残りで作られたぬいぐるみです。着物はケイト・ポルトが辞めた時に一度は捨てられましたが、母はその捨てられた端切れをこっそり保管していました。ぬいぐるみが壊れて端切れも捨てようとしていたので、私が貰いました」

「捨てようとしたものでも、役に立つ時って多いですよね」


 亜莉香が笑えば、アンリは肩の力を抜いた。


「何だか、アリカさんには返しきれない恩を作った気分です」

「私が好きでやっていることなので、恩を感じる必要はありませんよ?出来るだけ早く直しますが、今度いつ会えますか?」


 いつ、と言う単語に、アンリはゆっくりとコウジを振り返った。


「…来週、外出しちゃ駄目ですか?」

「お兄様に怒られますよ」

「そうですよね」


 悩み出したアンリの様子に、コウジは仕方がないと言わんばかりの表情になった。亜莉香を見て、礼儀正しく言う。


「アンリ様はお忙しいので。ぬいぐるみが直りましたら、妻経由で渡してもらえますか?そうしたら、私がアンリ様に渡します」

「私は構いませんが、アンリちゃんはそれでよろしいですか?」

「暫くは、外出許可が下りなさそうなので。それでお願いします。コウタくんとトシヤさんに会えるのも、よく考えれば暫く先の話になりそうです」

「きっと、暫くなんてすぐに過ぎて。また皆で街を歩けますよ」

「そうだと、嬉しいですね。アリカさん、もしも何か困ったことがあったら、コウジさん経由で私に言って下さい。私もアリカさんの力になりたいです」


 困ったこと、は特に思い浮かばない。

 頷いた後に、亜莉香の頭に別の名案が浮かんだ。考えるよりも早く、亜莉香は両手を合わせていた。


「困ったことではないのですが、個人的なお願いをしてもいいですか?」


 何でしょう、とアンリは首を傾げた。アンリの耳元に亜莉香は口元を寄せ、こっそりとお願いを言った。

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