72-3 Side留依
こまめに懐中時計を見ていたわけではない。
ふと時刻を確認した時、一番短い針が止まっていた。
秒針は動いている。懐中時計が壊れたとは思えない。一定の速度で時を刻む時計の針が、ルイの心臓を急がせた。立ち止まっていては駄目だと悟り、午後の予定を全て蹴った。
何かを感づいたルカを置いて、一人でシノープルの街を駆ける。
シノープルの街で目立つのは植物だ。どこの家でも建物でも、道路にも窓辺の隅にも木々が植えられ、色鮮やかな花々が咲く。一歩でも街の外に出れば、すぐに広大な畑や果樹園が出迎え、作物と果実に溢れた街。
鳥待月になって咲き出した桜が、街の至る所を桃色に染めていた。
その代表とも言える街の一角には、桜の木々が道路の両脇に植えられている場所がある。散った桜の花びらで埋め尽くされた地面は、桜模様の広大な絨毯。シノープルで行われる風船祭りの時期にしか見られない観光地とも呼べる場所を抜け、街の外れの宿を目指した。
初めて足を踏み入れる場所で少し迷いながら、何とか見つけ出した一軒の宿。
手作りの看板で宿の名前を確認した。
探していた人物の部屋番号は聞いている。すれ違う人と挨拶をしながら、早足で部屋の前まで行った。勢いよく扉を叩けば、部屋の中から軽い返事がした。
「ちょっと待ってくれな。今、勝負中」
「早くしてくれよ。僕だって、暇じゃないからさ」
「分かっているって」
遠慮なく開けた部屋の中にいたのは透であり、その向かいに知らない少年。
胡坐を組んだ少年は、ルイと同じくらいの年齢。ぼさぼさの髪は深緑の色で、暇そうな顔をルイに向けた。明るい緑色の瞳がルイを捕らえ、弧を描く。宝石のペリドットを思わせる瞳。着物は無地の黒を羽織って、その下には白い着物と、女性の好みそうな桜色の帯。
悪戯好きそうな顔した少年だ。
少年の向かいに座っていた透は真剣そのもので、床に並んだ十枚のカードを見つめる。
全て同じ、王冠の描かれた白黒の絵。右手を無意識に口元に寄せ、じっくりと考える。視線だけはカードの上を行き来させると、二枚のカードを裏返した。
現れたのは、二枚のハートの女王。
透が小さく喜んだ。あーあ、と零した少年が、表面上は残念そうに肩を竦める。そのまま残りのカードも同じ柄で合わせていけば、あっという間にカードは無くなった。
乱れていた息を整えたルイは、閉めた扉の前から動けずに訊ねる。
「…何やっているのさ」
「神経衰弱。俺の勝ちだな」
「仕方がないな。かっちゃんが探っていたのは、オラージュ・ミロワール家。シノープルの領主様さ。僕達は主の指示に従って、次期領主にちょっと挨拶したのさ」
手にしていたカードを戻しながら、少年は笑いながら言った。
「いやいや、あれは楽しかったね。なんせ領主のくせに、俺達の悪戯に驚き、怖がり、階段を踏み外して怪我をした。ああ、わざと階段から落としたわけじゃない。勝手に走り出したと思ったら、足を踏み外したのさ」
「領主じゃなくて、兄さんのその後は?」
「さあね。いつだって風のように消えて、時々僕達と遊ぶだけ。僕達が知っているのは、かっちゃんの居場所じゃなくて、かっちゃんと何して遊んだか。もっと詳しく遊んだ内容を教えてもいいけど、それはご所望ではない様子だ」
よっこらせ、と言いながら、少年は立ち上がる。
身体を捻りながら、言葉が続いた。
「ここ二十年は、比較的遊んでいる方かな。落ち合う場所は貴族の家が多い。かっちゃん、姿は見せてくれなくてさ。呼ばれれば駆け付けるけど、ここ数日は音沙汰なし。正月に領主で遊んだのが最後で、今頃どこで、何をしているのやら」
困った、と少年は呟いた。立ち上がらない透は顔を上げ、首を傾げる。
「もし兄さんに呼ばれたら、俺に教えてくれるか?」
「勝負に負けたのだから仕方がない。いいよ、風船祭りが終わるまでは手を貸す。どうせ、あと数日の辛抱。何もなくても、僕のせいじゃない」
あはは、と笑いながら窓を開け、足をかけようとして動きが止まる。ルイを振り返り、にやりと笑った。その笑みは楽しそうでもあり、愉快にも見える。
「はてさて、さっきの話はここだけの話にしてくれよ。僕の正体なんて気にするな。下手に探ろうとしない方が、己の身の為になる」
「お前の正体はすぐにばれるからな。それそこ領主より、ルイは魔力も剣術も上だぞ。そういう奴らも集めるのが、シノープルの領主様だ」
「あー、やだやだ。自分に力がないのを隠して、何を強い奴に自慢するのだか。強い奴らが集まるのに、遊べないと暇になる。もし遊ぶなら、そっちから声をかけておくれ」
ルイではなく透に少年は言い、じゃあな、と言って窓から飛び出した。
少年の姿は瞬く間に消える。その直後に一羽の鴉が空高く舞い上がり、遥か遠くに飛んでいった。晴れ渡る空に消えて行く白い姿を見送り、改めて部屋を眺める。
扉から見て、上部が円形の窓がある壁は正面。質素な部屋には机と椅子、ベッドが一つずつ。青空の色と木製の薄い茶色で統一され、手作り溢れる家具や装飾。机の上には薔薇が活けられた部屋は、宿の二階で、道路に面していたはずだ。
普通の人ではないと思っていたが、確認のためルイは問う。
「さっきの彼は?」
「凬の護人と契約している精霊。色々話が聞きたくて…会うのは、明日じゃなかったか?」
途中で話が変わった。曖昧な返事を返せば、とりあえず椅子に座るように勧められる。
大人しく従い、ルイは深く椅子に腰かけた。透はベッドの脇にカードを置き、代わりに一リットル程の水が入った容器を手に持つ。丸みを帯びた大きな急須のような容器は透明で、中には一輪の花が咲いていた。
容器と一緒に置いてあったグラスに水を注いだ透が、笑みを浮かべながら差し出す。お礼を言ってグラスを受け取り、微かに甘い水で喉を潤した。甘いのは好きではないが、ほんの少しの甘さなら問題ない。
静かに息を吐いたルイに、ベッドに腰かけた透が言う。
「それで何があった?一人で来るなんて、よっぽどのことだろ?」
単刀直入で遠慮なかった。
瑞の護人である透と水鏡で話すことはあっても、直接顔を合わせて話した回数は少ない。その時でさえ周りに誰かがいた状況だったのに、今は部屋に二人きり。友人と呼べる間柄でもないのに押し掛けたことを、今更ながら少し後悔した。
「その…ネモから、連絡はあった?」
「ネモフィル?いや、まだないな。アリカかピヴワヌの身に何かあったら、すぐに報せるように頼みはしたけど」
そっか、と安堵の息が零れた。
それを聞いただけでも、肩の重荷が消える。懐中時計の一番短い針が止まり、その最悪は免れたと希望を見いだせた。その裏付けを聞きたくて、ルイは首から下げていた懐中時計を取り出す。
懐中時計だけではなく、一人分の命の重さがあった。
ルカでさえ話せずにいた一番短い針の意味を、ようやく誰かに話せる。透がいなければ、最初に打ち明けていたのはルカのはずだ。打ち明けたところで何も出来ずとも、たった一人の少女の生存を示す針を見ない日はなかった。
懐中時計を手渡すなり、透は驚きつつ話し出す。
「珍しいものを持っているな。ヴェリモントだろ?」
「その名前は知らない。僕が知っているのは、その針の意味だよ」
懐中時計の蓋を開け、中を確認するなり理解する透が居て良かった。話が早くて助かり、余計な説明をしなくて済む。
「この対を持っているのは、亜莉香か?」
「うん。ずっと震えるように動いていた針が、気付かないうちに止まっていた。今朝は動いていたから、それ以降。針が止まってもネモから連絡がないなら、それはつまり――」
「亜莉香は生きている」
つまり、の後の言葉を、透が引き継いでくれた。
他の誰かの言葉では、ルイの心に響かない。懐中時計の意味を知り、精霊とも繋がりのある透だからこそ、それが事実だと受け止められる。
懐中時計を投げて返され、ルイの手に慣れた重さが戻った。
晴れやかな表情を浮かべた透は、窓の外を眺めに立ち上がる。
「影渡りでさえ十日も過ぎれば命はない、と言われていた。その十日を過ぎて、一番短い針が十二を過ぎて止まるとしたら、ヴェリモントに込められた魔力が切れた時だったな。それも早くて数年後――亜莉香は違う」
ルイを振り返った透は窓枠に背中を預け、申し訳なさそうに言う。
「重荷を背負わせて、悪かったな」
「僕は別に…」
「闇から助け出せない現実を突き付けられるのは、辛いだろ?」
声が小さくなったルイに、透は何もかも悟った顔で微笑む。
視線を避けて、顔を僅かに伏せる。懐中時計を持つことは希望でもあったが、その希望を持ち続けることは苦痛にもなる。
分かっていたことだと、手のひらの懐中時計を見下ろした。
巫女の部屋の片隅で、もう動くことのない懐中時計を見たことがある。何人もの対であり、その一番短い針はどれも十二を僅かに過ぎて、止まっていた。時刻を示す他の針も動かず、懐中時計はどれも古くて寂れたものだ。
狭間に入って帰らぬ人となった影渡りの対だと、先々代の巫女が言っていた。
動き続ける針は希望だ。もしかしたら生きていると、信じてしまう。止まってしまえば押し寄せる絶望があり、もう戻らない、と現実を突き付けられる。亡骸に触れることすら叶わなかった影渡りは、両手では数えきれない。
それでも歴代の巫女達は対を渡し、大切に保管していたのだと教わった。必ず帰って来るように祈りを込めて、影渡り達に渡していた。
ルイの持つ懐中時計の対は、もう不安の塊ではない。
深呼吸をして、懐中時計を首に掛け直す。着物の襟元に隠してから、ルイはグラスの水を飲み干した。顔を上げて、口角も上げる。
「もう辛くはないよ。話が聞けて良かった」
「それなら良かった。それより他の連中も、シノープルに着いたのか?泊まる場所は領主の屋敷だったよな?」
場を明るくしようと、透は笑って話題を変えた。
軽く頷き、グラスを両手で包んだままルイは答える。
「そうだよ。シンヤを含む、ガランス一行は昼頃到着。今頃、領主の敷地内で休んでいる所じゃないかな?道中はシンヤが五月蠅くて、ルカもトシヤくん疲れていたから。トウゴくんとフルーヴは始終楽しそうだったけどね」
本来なら、ルイも混じって一休みしていた。シノープルに着き次第、領主の敷地内の安全を確保。その後は、先に到着しているはずのセレストの次期領主のツユと合流。挨拶をした翌日に、透とは会う予定を考えていた。
懐中時計で時間を確認したが為に、一人で行動をした。
戻ったら色々と説明をしなくてはいけない。単独行動をしたことを、トシヤやルカには怒られそうだ。シンヤの護衛であるロイに至っては何も言わないのが目に見えているが、その他に黙っていてくれる人はいない。
騒がしい面々でシノープルまで来たことを、ある意味奇跡だと言いたいくらいだ。
「あーあ、まだ帰りたくないな」
「この宿に泊まるか?」
「それもいいけど、皆が待っているからね。ちゃんと戻るよ。それにしてもこの宿は、とても居心地が良さそうだ」
「まあな」
同意した透が窓の外を眺め、ルイも視線を向ける。
晴天の空に、桜色が空に舞い上がった。透の瞳に映るのは美しいシノープルの街並みで、窓から見える景色はさぞ綺麗で、美しいのだろう。
先程まで精霊が居たことも関係しているのか、部屋の中の空気が澄んでいる。
「領主の屋敷で出された食事は、どうも俺に合わなくてさ」
「え、それで領主の所に泊まるのをやめたの?」
「当たり前だろ。その理由を素直に告げたら、即座にツユに反対される。仕方がなく精霊と頻繁に連絡を取り合え、一人になる場所の確保を表の理由にしたわけだ」
言ってなかったっけ、と呑気な透が頭を掻いた。
想像していなかった回答だ。呆れと驚きを隠さず、ルイは言う。
「聞いてないよ」
「ツユには言うなよ。言ったら最後、自分が料理をするとか言い出すからな。余計な仕事を増やしたと怒りながら、それも微妙な料理を作ってくれてさ。ツユが小さい頃は何度、微妙な料理を食べさせられたことか。周りが止めれば良いものを」
ため息をついた透が変なことを言い出して、訪ねた理由とは全く関係のない会話になる。案外二人でも会話は続きそうだ。流れるのは平凡で、穏やかな時間。聞こえるのは街のささやかな賑わいや鳥の囀り。
心を蝕んでいた不安の一つが消えて、ルイは自然と笑いが込み上げた。




