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Last Crown  作者: 香山 結月
第5章 花明かりと薔薇
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71-2

 目の前にある光景に、亜莉香は目を疑った。


 広い敷地があり、石壁で囲まれた隙間から流れる小川の音が優しい。丸く浅い池の中で魚は悠々と泳ぎ、大きな樹もある。温かな風は頬を撫で、花の匂いが鼻をくすぐった。


 ひっそりと佇む一軒家は、見覚えがある。


 リリアが住んでいた家だ。

 チョコレート色の屋根や扉、窓枠。こんがり焼けたクッキー色の煉瓦の外壁に、咲き誇るつるバラは色とりどり。敷地内に咲く花は薔薇だけじゃない。牡丹も桜も、瑠璃唐草も向日葵も、季節関係なく花々は咲き、風に吹かれて花びらが宙を舞う。


 晴天の下、懐かしさを感じた。

 呆然と足が止まった亜莉香に合わせて、灯も立ち止まり景色を眺める。


「ここは闇に落ちても、時間が経てば全てが元に戻る。リリアの魔法の影響も大きいけど、この地の魔力が消えない限り、どれだけ破壊されても在るべき形に直るの」

「これ…夢、じゃないですよね?」


 実感なく亜莉香は呟いた。

 ここは、もう二度と足を踏み入れられなかった場所だ。


「夢だと思いたいなら、それでも私は構わない。現実を受け止めるか。見なかったふりをするのか。それを決めるのは、貴女自身の話なの」


 淡々と語った灯が歩き出し、亜莉香も慌てて歩き出す。

 向かった先は大きな樹の下で、瞬きをした直後に正方形の布が地面に現れた。深緑の布は草木の葉よりも濃い色。そこにヒナを連れて行き、仰向けになるように配慮する。


 横たわるヒナの顔色は悪いが、胸が上下に動いて息をしていた。

 首筋の怪我は痛々しい。血が乾き始めても、着物に血が染みこんでいた。それは亜莉香も同じで、着物も袴も汚れ、片方の袖はヒナの首筋を抑えた時に赤い血で染まったまま。


 酷い格好だと思いながら、そのままヒナの傍に腰を下ろした。

 少しでも怪我が消えればいいのにと祈りながら、そっと首筋に触れる。


 瞬きした直後、触れただけで傷が消えた。

 跡形もなく、まるで最初から傷などなかったかのように消えてしまい、驚いて手を離す。姿勢を正して何度見ても傷はなく、ヒナの表情が僅かに和らいだ。


 最初に心を占めたのは安堵。それから疑問が浮かび、唯一、この場にいて答えてくれそうな灯の姿を探した。敷地の中を歩く灯は懐かしそうに家を眺めて、花の匂いを嗅ぎ、池の水を両手で掬い、無邪気な笑みを零す。

 一人でも楽しそうな様子に、声をかけるのを躊躇した。


 仕方がないので上を向き、木漏れ日の光を見つめる。

 降り注ぐ光は綺麗だ。この場所が闇の中だということを忘れそうになる。そもそも闇に落とされた気がしない。記憶が途絶えた時を思い出すと、ため息しか出なかった。


 何もせず、記憶を呼び起こす。

 ガランスで偽物の灯に居場所を奪われたこと、領主の家に侵入したこと。叶詠である梅や、アンリとシンヤの母親であるカリンと出会ったこと。温泉街でヨルとフミエの協力を得て、扇の中に封じられていたイオの魔力を返したこと。全てが遠い記憶に思える。


 夢のような出来事でもあるとすれば、意識を取り戻す前の曖昧な記憶も同じ。


 ガランスに来ることがなかったら、起こりえたかもしれない日々を何となく覚えている。元の世界で何事もなく過ごし、魔法も精霊もいない世界は平凡だった。一人で住む家は寂しくて、大切な人は一人もいなかった。


 夢か現か判断しかねる、不思議な記憶。

 その記憶は、徐々に忘れていく予感があった。けれども心に残り、出会った二人を忘れはしない。灯の記憶の中にある二人の姿を瞼の裏に浮かべ、深く息を吐く。


 亜莉香は白い鳥居を越えて、帰ることを望んだ。

 引き止めようとした陸斗と、陸斗の腕を離さなかった麗良とは、そう簡単に縁が切れる仲ではないのかもしれない。少なくとも麗良はレイと繋がっていそうで、陸斗とも、灯を通じて何かが繋がるのだろう。


 今はまだ、何も分からない。

 それより二人は亜莉香のことを覚えているような口ぶりだったと、今更思い出した。


 考えることが多すぎて、疑問しかない。頭を悩ませていると、不意に左手に重みを感じ、小さくも時計の針の音がした。手首に紐を巻き付けていた懐中時計に目を向けようとすれば、灯に名前を呼ばれて視線を向ける。

 本来なら有り得ない晴天を背景に、灯は大きく手を振っていた。


「お茶会をしましょう!」

「…え、ここで?」

「そうよ。ほら、早く来て!お茶やお菓子が冷めてしまう前に!」


 満面の笑みを浮かべた灯が脇に退け、用意したテーブルと椅子を両手で示す。

 亜莉香が目を離した隙に、お茶会の準備は整っていた。木製の丸いテーブルの上には花柄の布を敷き、中央の大皿に色とりどりのマカロンの山。マカロンの隙間やテーブルの上に無造作に、色鮮やかな花が添えてある。精霊の姿はないのにティーポットは踊りながら宙に浮き、控えめな小花の描かれたティーカップに紅茶を注ぐ。


 甘い匂いにつられて、亜莉香のお腹が鳴った。

 いそいそと灯が椅子に座り、亜莉香を待たずにマカロンを口に入れる。頬を膨らませて美味しそうに食べる様子に、気が抜けた。


「美味しそうに食べますね」

「顔は一緒でしょ」


 軽い口調で返されて、曖昧な返事を返した。

 場所を移動し椅子を引き、亜莉香も席に着く。宙に浮いていたティーポットが空いていたカップに紅茶を注ぎ、緊張しつつも紅茶を口に含む。

 熱くて甘い。

 苺やラズベリーの匂いに、蜂蜜の仄かな甘み。

 深呼吸をして息を整えれば、桃色のマカロン一つを空にかざした灯が言う。


「人の記憶は曖昧だと思わない?」

「え?」

「出会った記憶も感情も、形ないものは曖昧。目に見えなくて触れないから、形が変わったことすら気付けない。知らない間に嫌な記憶を忘れ、都合の良い記憶に塗り替える。悲しみも寂しさも慣れて、愛した感情は容易く憎しみに変わる」


 淡々とした口調が、やけに静かに響いた。


「私も同じなの」

「同じ…?」

「長い時を経て、記憶も感情も変わってしまった。最初の私を取り戻す術はない。灯という名の記憶と感情だけが、形ないものとして存在しているだけ」


 表情の消えた灯は人形のような顔をして、微かに笑う。

 灯の手にあったマカロンが、少し力を入れただけで砕けた。欠片が宙に浮いて漂い、色を変えていく。赤青緑、黄色に橙、紫や白や黒など、幾つもの欠片の中でも大きな欠片を掴むと、口に運んだ。

 美味しそうに頬を緩め、表情に感情が戻る。

 形のないものだとは、亜莉香には思えない。


「私は目の前にいる灯さんこそ本物で、形ないものだとは思えませんが?」

「今は、でしょ?」


 ゆっくりと、同じ色の瞳に見つめられて、亜莉香の表情が強張った。

 同じ顔なのに、どこか怖い。冷めた瞳のようにも見える。宙に浮いていたマカロンを手で払い、人差し指を亜莉香に向ける。


「それに私の記憶や感情は本物の灯だとしても、現実の世界で、私の身体という器はないの。貴女と出会わなければ、私は二十年前に全てを託して消えていた。貴女が望んだから、私はここにいるのよ」

「私が望んだ?」

「そうよ。だから私は――貴女の心の中にいる」


 灯が指し示すのは亜莉香の心臓で、大きく脈打った。

 何も望んではない。灯と出会った記憶すらないのに、何か恐ろしいことを突き付けられた気分だ。その何かが口に出来なくて、唾を呑み込み、口を閉ざす。

 ふっと笑みを零した灯は指差すのをやめ、深く腰掛け直した。


「まあ、いいの。消えたかったけど、貴女のおかげで、ここにいるのも事実。貴女が私を認識してくれたおかげで、こうして会話も出来る」


 勝手に話をまとめて紅茶で喉を潤す灯に、同じように紅茶を飲むように勧められる。

 手にしていたティーカップの中身は、あっという間に冷めてしまった。紅茶を飲む気が失せたのに、宙に浮いているティーポットは空気を読まない。少しでも減った紅茶を足そうとする。ひとまずティーカップをテーブルに戻し、亜莉香はそっと話し出す。


「私は…いつ、灯さんに会ったのでしょうか?」


 並々と注がれたティーカップを両手で持ちながら、遠慮がちに訊ねた。


「二十年前、私は生まれていません」

「知っている。でも、これ以上のことを聞かない方が己の為よ。いずれ過去を知り、貴女は大きな選択を迫られる。余計なことを聞き過ぎて、混乱したくないでしょう?」


 微笑む灯の表情が、紅茶の水面に映って揺れる。

 優雅に紅茶を飲み、マカロンに手を伸ばす灯は話さない。仕方なく亜莉香は紅茶を飲み、深呼吸をして、ようやく真っ白なマカロンを手に取った。


 サクッとした表面が崩れ、中の生地は柔らかかった。甘いクリームの中に苺のジャム、見た目に騙されて、隠されていた美味しさを噛みしめる。どんな場所にいても、誰と居ても、美味しいもの美味しい。


 もう一つ、と手を伸ばした時に、懐中時計の針が瞳に映った。

 金の装飾が美しい蓋を開けずとも、時間を刻む針が進む。四本あるうちの三本は規則正しく一定の速さで、時刻は十二時を過ぎたところ。

 一番短い針だけが小刻みに揺れ、十二の数字を過ぎては戻る。


 時間は止まっていない。

 歯車が回り続ける。


 一番短い針だけが、壊れるはずない。時刻は正しく、一日ごとに進む短い針も正しいのなら、闇の中で最低十二日は経過していることになる。

 お茶会をしている場合ではないのではないか。

 急に押し寄せる現実感に、不安が心を占めた。すぐにピヴワヌに呼びかける。それは心の中で、何の返事もなく、繋がっている感覚もない。


 音を立てながら、亜莉香は勢いよく椅子から立ち上がった。

 マカロンを口に入れようとした灯は、きょとんとした顔をして首を傾げる。


「どうかしたの?」

「すみません。これ以上の話がないのなら、今すぐに帰りたいのです。帰り道を教えて貰えませんか?」


 他に訊ねる人がいなくて、亜莉香は言った。

 懐中時計に目を向け、灯はマカロンを口に放り投げる。亜莉香が焦る意味を悟っているのかは分からないが、皿に乗っているマカロンに手を伸ばしながら問う。


「どうしても帰りたいの?」

「はい」

「もう少しだけ休んだら?元の世界に戻れば、貴女は戦わなくてはいけないのだから」


 戦いは避けられないと断定されて、亜莉香は返答に困った。

 マカロンを食べ、紅茶を飲む灯に向かって、小さくも言い返す。


「戦いたいから…帰りたいわけではありません」


 想いが届くように願った。

 背筋を伸ばして言葉を選ぶ。


「戦うのは好きじゃないです。誰かを傷つけたり、自分が傷ついたりしたくないです。それでも帰りたいのは、会いたい人達がいて、私の帰りを待っている人達がいるのを知っているからだと思います」


 話をしながら、思い浮かぶ顔があった。

 手が止まった灯に見つめられ、無意識に懐中時計をいじる。蓋に描かれた牡丹の花をなぞりつつ、微かな笑みを浮かべる。


「もう少し、と休むのは簡単なことですよね。でも私は、ここで休みたくありません。今はまだ、休まず前に進みたいのです。待っている人がいても、いなくても。その先で戦いが待ち受けているとしても、逃げずに立ち向かいたいのです。それが私の――今の望みです」


 口に出した言葉こそが本心だと、胸を張れる。

 欲しいのは、用意されたお菓子や紅茶じゃない。休むための居場所でもなく、灯と対話して得られる情報でもない。


 一刻も早く、帰りたい。


 そう願ったのは何度目か。その望みこそが、亜莉香を突き動かす原動力だ。灯が質問に答えてくれないのなら、まずは意識を失っているヒナを起こす。ヒナが一緒に帰ると言ってくれたら心強いが、何を言われても歩き続けて自力で帰る。

 何も言わなかった灯は、瞳を伏せると静かに息を吐いた。


「貴女には敵わないわ」


 独り言は、あまりにも小さく聞き逃した。

 何を言ったか聞き返す前に、灯が立ち上がる。その途端に座っていた椅子が消えた。椅子だけじゃなく、マカロンが残っていたテーブルも、宙に浮いていたティーポットも、灯が用意したお茶会の道具は全て、一瞬で消え去った。


 堂々と立つ灯の背後から強い風が吹き、亜莉香の髪が靡く。

 太陽を雲が隠して、辺りが少し薄暗くなった。


「元の世界に帰るのに、必要なのは魔力じゃないの。必要なのは、闇に負けない心。その心を失わず歩き続ければ、いつか外に出られる」


 いつか、という単語は不安定な響きだ。

 でも、と言って、一歩下がった灯は両手を広げる。


「いつか、なんて不確かな未来を待っている時間も惜しいのでしょ?それなら今回は、私が一つ、素敵な提案をする」

「提案、ですか?」


 何かを企んでいそうで怪しめば、その気持ちは灯に伝わった。


「別に変なことじゃないからね。貴女だけなら兎も角、後ろの子も一緒に連れて行くなら、長い時間をかけて闇を彷徨い続けるのは可哀想で口を出したいだけ。話を聞いて嫌なら、聞かなかったことにすればいいの」


 両手を腰に当てて頬を膨らませた後に、にやりと笑って人差し指を口に当てる。

 表情豊かな灯に対する警戒心は消えてない。ほんの数秒だけヒナを振り返り、動かない様子を確認した。話だけでも聞いてみようと思えば、亜莉香が口を開く前に話し出す。


「この地には、簡単に街一つを滅ぼす魔力がある。その魔力があるから、私は自由に物を作り出したり、動かせたりした。精霊達が居ても居なくても、魔力がある限りは何でも出来ると考えて」

「…はあ」

「外に出たら出来ないけど、この中にいれば望めば何でも叶うわけ。命あるものを作り出すのは無理な話だけど、今回作りたいのは当てはまらないから問題ない」


 曖昧にしか返事をしなかった亜莉香を気にせず、腕を組んだ灯は歩き出す。その場を行ったり来たりした。脳内では何かを作り始めているのかもしれないが、亜莉香には言いたいことが全く分からない。

 問い質すより早く、灯の足が止まった。

 だからね、と思わせぶりな言い方をして言う。


「貴女だけの魔道具を作る気はない?」

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