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Last Crown  作者: 香山 結月
序章 薄明かりと少女
35/507

08-1

 ケイに通された部屋は、中庭に面した和室だった。

 縁側があり、綺麗に整えられた中庭には大きな楓の木と小さな池。中庭に面している襖だけが開いていて、他の三面は全て違う模様が描かれた障子の襖。襖で仕切られているので隣の部屋で音がすれば分かるはずだが、今のところ音はない。


 部屋の中を見渡しても何もないので、正座をしていた亜莉香は隣を見た。

 人目を気にしなくてよくなり、アンリは被っていた着物を外している。肩に着物を羽織り直して、緊張した表情でじっと畳を見つめる姿は話しかけられる様子ではない。

 アンリを連れて帰る、と言ったコウタの父親は廊下にいて、部屋には入らない。

 ぼんやりと亜莉香が楓の木を眺めていると、ケイはお盆を持って戻って来た。亜莉香とアンリの前に腰を下ろし、お盆に乗せていたお茶と和菓子を差し出す。


「待たせたね、丁度帰って来た娘夫婦と孫は出掛けていて、明日帰って来るんだ。こんなものしか出せないが、よかったら食べておくれ」

「ありがとうございます」


 素直に礼を言った亜莉香の隣で、アンリはおそるおそる顔を上げた。

 アンリと目が合ったケイは、肩の力を抜いて優しく言う。


「そんなに緊張しなくても。何もしないよ。ケイト・ポルトに会いたかったんだろう。何の用があって探していたんだい?」

「それは、本人に――」

「だから、用件を聞いているんだよ」


 震えそうなアンリの声を遮って、ケイは言った。

 驚くアンリとは違い、亜莉香は落ち着いた様子でケイに微笑んだ。


「ケイさんが、アンリちゃんが探していたケイト・ポルトさんでしたか?」

「そうだよ。アリカちゃんは驚かないね」

「前に和裁士だった話は聞いていましたので。恥ずかしながら、同一人物だと結び付けられませんでしたが…言われてみれば、納得しました」


 亜莉香の話を聞きながら、ケイは湯のみに手を伸ばしてお茶を飲む。


「昔の話だよ。もうその名前は捨てたから、家名を剥奪された時に名前を変えたのさ。それから一度もその名前を名乗ることなく、気が付けば長い時間が流れていた」

「家名を、剥奪…?」

「貴族として家名を、一族全員が取り上げられてしまうのです。貴族ではないから屋敷も財産も、領主に返します。一度取り上げられたら、よっぽどのことがない限りは貴族に戻ることを許されません」


 亜莉香の疑問に、アンリが言いにくそうに答えた。

 ケイは深く頷いて、説明に付け加える。


「家名を剥奪されれば、住んでいた場所を離れるしかないのさ。街を出てもよかったけどね。結局住み慣れた街を離れることが出来なくて、自由気ままに街で暮らすことにした」


 淡々と言ったケイに、亜莉香は思わず尋ねる。


「ケイさんの、ご家族は?」

「家名を剥奪された時は、いなかったよ。両親は昔に他界していたし、兄妹もいなかった。助けてくれる人もいなかったから、一族と言っても実際のポルト家の人間は私一人。貴族だった時に、私はそこにいるアンリ様の母親に仕えていたのさ」


 聞いているんだろう、とケイがアンリに言った。

 はい、とアンリは小さく項垂れる。


「ケイト・ポルトは、母に仕えていた和裁士の一人である、と聞いていました。誰よりも早く、誰より綺麗に着物を縫う女性。同じ着物を仕立てさせても、ケイト・ポルト程の実力者はいなかった、と」

「それは大袈裟だね。当時は私くらいの実力がごろごろいたよ。私はその中の一人。他の和裁士と違ったのは、アンリ様の母親と仲が良かったことぐらいだね。まあ、それが他の連中には気に入らなかったのだろうけど」


 遠い昔を思い出して、ケイは中庭に視線を向けた。


「ある日、事故に遭った」

「事故、ですか?」


 拳を膝の上に作り、身動き一つないアンリの代わりに、亜莉香は言った。ああ、と肯定したケイが、淡々と言う。


「事故に遭い、大怪我をして、何日か意識を失って。目を覚ましたら、いつの間にか財産がなくなり、知らない罪をかぶせられ、悪い噂を流されていた。振り返れば怒涛の日々で、あっという間に家名を剥奪されて、貴族じゃなくなった」


 ぽつり、ぽつりと雨が降り出す音がして、葉が揺れる。

 ケイが口を閉ざしたので、亜莉香が静かに口を開く。


「そう、だったのですね」

「今思えば、運があった方さ。殺されはしなかった。貴族でなくなっても、着物を見極める目は持っていたから、この店の先代に拾われた。店を任されるようになって、夫が出来て、子供も授かった」


 今だって、とケイは亜莉香に微笑む。


「忙しくて、幸せな日々さ。それこそアンリ様が現れるまで、ケイト・ポルトの名を忘れていたくらい。家名を剥奪されたことは、悪いことではなかった」


 言い終えると視線を下げ、誰も手を付けていなかった和菓子に手を伸ばした。

 寒天で作られた、四角い和菓子。青と透明の二色の和菓子を一口サイズに切り分け、ゆっくりと味わってから、ケイはアンリに言う。


「話が逸れていたね。それで、用件は?」

「見て、頂きたいものがあります」


 アンリは深く息を吐いてから、袖の中から小さな兎のぬいぐるみを取り出した。

 ケイが以前、亜莉香に託した匂い袋と同じ柄だった。

 白地に牡丹の花が描かれ、花それぞれが金の縁取り。上品な布で作られた兎のぬいぐるみは手足の一部が破け、中の綿が飛び出している。耳は今にも取れそうで、付けてあったはずの片目がなく、首に巻いてあるシンプルな赤の二重のリボンはボロボロ。

 そっとアンリが差し出したぬいぐるみを、ケイは慈しみ、懐かしそうな表情で受け取る。


「随分、懐かしいものを持っているね」

「母の宝物です。ずっと、大切にしていたものなのに、私が壊してしまいました。その時に、貴女の話を聞きました。話を聞いて、今でも母は貴女に会いたいのだと気付き、私は居ても立っても居られなくて、貴女を探していました」

「それで、私にどうしろと?」

「これを、直して頂けませんか?」


 じっとケイを見つめ、アンリは言葉を続ける。


「母は、貴女を忘れてなどいません。家名を剥奪した件だって、母は今でも悔いています。今更家名を戻すことは出来ませんが、直して頂ければそれ相応の礼もします」


 ぬいぐるみを見つめていたケイは、顔を上げた。

 申し訳なさそうな顔で、首を横に振る。


「それは無理だ」

「どうして――」

「事故の後遺症が、ずっと続いているからさ」


 アンリの言葉を遮って、ケイはぬいぐるみをアンリの前にそっと置いた。


「私はもう針を捨てた。縫うことは出来ない」

「何故です?母から事故の件も聞きましたが、その時の大怪我は足だったと伺っています」

「あの事故以来、針は持たないことにしたのさ。母親が知っているケイト・ポルトはもういない。アンリ様の目の前にいるのはただのケイ。私には…もう直せないよ」


 重々しく、ケイは言った。

 納得できないアンリはぬいぐるみを見て、今にも泣き出しそうな声で言う。


「それでも、私はケイト・ポルトにお願いしたいのです。片目がなくなり、壊れかけたこの子を、母は直そうとはしません。私に直せるなら直したいけど、私では元通りに出来ません。作った本人と、この子を受け取った母にしか、この子を直せないから――」


 この子、と呼んで、両手で包み込んだぬいぐるみを持ち、アンリは抱き寄せた。必死にアンリが訴える度に、ケイから表情が消えていく。深々と、ケイは頭を下げた。


「本当に、申し訳ないと思います。ですが、今の私には何も出来ません」


 祈るようなケイの態度に、アンリは唇を噛みしめる。


「どうか、お引き取り下さい。アンリ――アンリ・フラム・ミロワール様」


 無言の空間となり、静寂が支配した。

 暫くすると、アンリは静かに立ち上がる。泣きそうで、悔しそうな顔で縁側に向かって進み、コウタの父親を連れて部屋からいなくなった。

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