70 夢現
「ただいま」
誰もいない家なのに、当たり前のように、言葉が口から零れた。
玄関先で、ふと疑問を覚える。帰ったところで両親は家にいない。電気の付いてなかった家には誰もいないのに、誰かがいる気がして挨拶をしてしまった。
おかえり、と出迎えてくれる人はいない。
珍しく変なことをしたと思いながら、亜莉香は玄関の鍵を閉めて靴を脱いだ。
雪が降り始めたせいで、家の中も肌寒い。急いで手前の部屋に入り、ストーブを点ける。部屋が温まる前だけど白のマフラーを外して、高校一年の時からお世話になっている紺のダッフルコートを脱いだ。
コートをハンガーに掛けようとして、部屋を見渡す。
いつもより広く感じる部屋だ。
この部屋は十畳程の洋室で、繋がっているリビングダイニングとの間に仕切りはない。亜莉香の自室は二階にあるが、両親がいなくなってからは一階で生活している。洋室にある大きなソファで寝るには困らなくて、自分の物は最低限の物しかない。
テーブルの上の大学受験の問題集に目を向け、あっという間の高校生活を振り返った。
あと四ヶ月もしないうちに卒業だ。実感はない。友人と呼べる人を作ることなく、ただ目立たぬように、ひっそりと存在する影のように過ごした。心に残った思い出もなく、時間だけが過ぎた日々だった。
見慣れた生活感の乏しい部屋に、寂しさを感じる。
鞄を床に置き、急ぎ足で部屋を出て洗面所に向かった。
鏡に映るのは、間違いなく自分の顔。黒い瞳が少し隠れるように切り揃えている前髪に、色白の肌。楽しくもない表情を浮かべ、二重の瞳の奥は深い闇。
とてもつまらなそうな自分自身に、ため息を零した。
こんな顔は好きじゃない。膝より下の黒チェックのプリーツスカートも、白いブラウスも灰色のブレザーも。黒いタイツを穿いて、傍から見れば女子高生にしか見えない制服姿も好きじゃない。似合ってない。
背中近くまで伸びた髪が揺れて、あれ、と疑問を覚えた。
髪を後ろで一つにまとめていたつもりだったが、髪飾りはなかった。どんな髪飾りか思い出そうとして、無難な黒のゴムだったに違いないと結論が出る。大したものではない。そのはずなのに髪飾りの存在が気になってしまう。
何かが、違って見えた。
最初は髪を下ろしているせいかと思った。でも、違う。失くした髪飾りが原因ではない。もっと大事で、忘れてはいけない何かが足りない。
「…簪」
呟いた声は擦れて、何故その言葉が零れたのか分からなかった。
どんな簪が足りないのか。色や形、模様も一切思い浮かばないのに、簪の存在を強く意識した。その途端、制服姿にも違和感を抱く。簪の似合う服装ではない。着物や袴などの和装なら似合うとしても、制服で簪を挿して学校に行くことなんて有り得ない。
心臓の音が大きくなって、ゆっくりと鏡に視線を戻した。
鏡の中に泣きそうな顔がある。
それが自分の顔だと認めたくなかった。悲しいことなんてないはずなのに、涙が溢れて頬を伝う。そっと右手を頬に当てれば、次から次へと涙が零れて床に落ちた。
「なんで…?」
自問した答えなど出ない。
家に帰って来てから、何もかも変だ。
普段はしないことをして、部屋の中で寂しさを感じる。心の中で何かを探して、誰かを想って涙を流す。身体が崩れ落ちる前にしゃがんで、涙を思いっきり拭った。
その途端、拭ったのは制服ではなかったと気付く。
上品な白が目に映る。白の着物の袖で涙を拭い、深紅の袴を穿いていた。勢いよく立ち上がった顔は青ざめ、掠れた声が出た。
「違う」
否定すれば、瞳に光が宿った。
見下ろす姿は亜莉香じゃない。
「私は灯さんじゃない。私は亜莉香…私は、私は――」
段々と声に力がこもり、ぎゅっと瞳を閉じる。
亜莉香の名前を呼ぶ声が、頭の奥で聞こえる。
過ごした日々を、出会った人を。どんな風に笑って、泣いて、悲しんで。どこに帰るべき家があり、どんな風に日々を生きていたのか。
全てを思い出せば、身体は勝手に立ち上がり家を飛び出した。
向かうべきは、帰るべき道の在る場所。
靴を履かずに飛び出したのに、いつの間にかレースアップのブーツを履いていた。意識したわけではないのに、着物と袴の色が変わった。白の着物は黒になり、深紅の袴は濃紺になる。着物の袖や袴の裾に、色鮮やかな花々が咲き乱れる。真っ赤な牡丹や深い青の瑠璃唐草、緑の薔薇や黄色の小花。桃色の桜も紫の菖蒲も咲いて、着物を華やかに彩る。
着物に咲く花々は花明かりのように、仄かに明るく亜莉香を包んだ。
無我夢中で走る亜莉香に、道行く人は誰も視線を向けなかった。
まるで見えていないとしても、ぶつからないように気を付ける。
外は暗い。夕方ではなく、夜になった。道端に雪の塊があって、地面に積もった雪はない。降り続く雪は亜莉香の肌に当たっては溶け、冷たさを感じて吐く息は白い。
「トシヤさん…ピヴワヌ――」
思い出した名前を呼んでも、誰も答えてはくれない。この世界には誰もいない。この場にいる理由なんて考える余裕はなく、住宅街から大通りに出た。
向かった先は神社だ。時刻的には誰もいない。真っ赤な鳥居を見つけた途端、一刻も早く帰りたい気持ちが強くなる。
鳥居を越える前に足を止め、必死に息を整えて前を見据える。
「吉高!」
不意に呼ばれて、踏み出そうとした足が止まった。
振り返れば、制服姿の青年と茶髪の少女がいた。青年の色素の薄い茶色のさらさらとした短髪は、街灯の僅かな光でも輝いて見える。整った顔をしている青年だと呑気に考え、その表情に溢れる驚きと喜びを読み取った。
対して少女の顔は信じられないものを見たと言いたげに、亜莉香を睨みつける。誰だったか暫し考え、この二人は知り合いだったのだと思い出す。
過去形で、知り合いだった人達。最後に会ったのは、透を迎えに来た時だ。あの時は声だけを聞いて、顔を合わせなかった。会いたくもない少女の声を聞いては恐怖を覚えたのに、今は何も感じない。
ただ表情を消して、亜莉香は数メートル離れた二人に向き合う。
「吉高…だよな?」
青年が遠慮がちに言った。
どんな風に話せばいいのか。そもそも亜莉香には話すことなどない。答えられないうちに、少女が踏み出そうとした青年の腕を掴んで引き止める。
「陸斗!」
甲高い叫び声を上げた少女を、陸斗は麗良と小さく呼んだ。
「…離してくれないか?」
「嫌!離したら、あの子の所に行くでしょ!そんなこと絶対にさせない!」
「急に何を言い出すんだ」
なりふり構わないと言わんばかりの形相で詰め寄る麗良に、陸斗が身を引く。
口論が始まり、麗良は一方的に責めるような口調で話し出した。その半分も亜莉香は聞き流し、動かず止まったままでいた。無視して駆け出せばいいはずなのに、何故か無意識に袴を強く握りしめ、二人を見つめる。
足が動かなかったのは、段々と二人の姿が別の誰かと被って見えたせいだ。見た目の年齢は今と変わらない。今の陸斗の髪より深い色の青年は落ち着いた色の袴姿で、明るい黄色の髪の少女は派手な着物姿。
目の前の二人のように言い争う人達を、亜莉香は知っていた。
それは灯の記憶の中の人達だ。髪の色が違うだけで、今更気付く。麗良はレイと呼ばれていた少女とよく似ていた。名前も、見た目も、行動理由すら同じように思えてしまう。
そして陸斗は、灯が最も会いたくなかった人。
名前は知らない。ただ目の前にすれば離れたいと、近付きたくもないと思う。話すことはないと下がろうとすれば、後ろで眩い光を感じた。
「――嘘」
振り返った亜莉香の瞳に、辺りを照らす明るい鳥居が映る。
眩い白い光を放ち、鳥居の赤が地面から白に移り変わる。鳥居の中に見えていた景色が、瞬きをする度に変わる。見慣れたガランスの市場や領主の屋敷、セレストの広大な湖や水路のある街並み。まだまだ知らない場所を映して、白一色の景色で止まった。
景色と言うより、まるで何も描かれていない白い紙。
「『何これ』」
麗良の声と、レイの声が重なって聞こえた。
呆然とする陸斗の腕を離さない麗良の声は、それ以上続かなかった。誰も答えられない。誰も何も知らない。それでも亜莉香の足は誘われるように、鳥居に向かって歩き出す。
「行くな!」
必死な陸斗の叫びが亜莉香に向けたものだと、瞬く間に理解する。
名前を呼ばれても、何度同じ言葉を繰り返されても、陸斗の言葉は頭から抜け落ちた。言うことがないのだから、返事はしない。陸斗の声に被さるように麗良も声を張り上げ、足止めをしてくれている間に、亜莉香は鳥居の目の前まで進む。
手前で足を止め、右手を前に出した。
触れたという感触はなかったが、白い光に包まれた。
冷たいというより、心なしか温かい。包んだ光は亜莉香を引き寄せるように背中を押し、在るべき場所へ、帰りたい場所へ帰れるはずだと安堵が生まれる。
帰ろう、と心の中で灯の声がした。
答える前に、私は私の心のままに、と続く。
その私が誰なのか聞きたい。その機会がやって来る日は今ではないが、遠くない気がした。その根拠はない。日に日に感じていた灯の存在を、今なら受け入れたいという勝手な願望も混ざっていたに違いない。
「『帰ろう』」
誰にでもなく呟いた声が、灯の声と重なった。
亜莉香は花が咲いたような笑みを零す。
帰りたいのは、灯と同じ気持ち。二人分の気持ちが重なり合って、白い光の輝きが増す。雲間から覗く月よりも、明るい光が放たれる。背中を押す目に見えない力も強くなって、何も考えずに踏み出す。
鳥居の間を抜けた先に、何が待ち受けているのか。
迷わず進む亜莉香の名前を、陸斗は背後で呼び続けていた。麗良の手を振り払い、伸ばした手が亜莉香の背中に伸びたことにも、麗良が陸斗の名前を呼びながら、後を追いかけていたことにも気付けない。
周りの音は遠のいてしまった。
鳥居を越えた一瞬で、視界が真っ白に染まる。
流れに身を任せた亜莉香の身体が光と一体になる。その身体は宝石の欠片のように砕けてしまう。きらきらと輝く欠片を陸斗は掴み、麗良は陸斗にしがみつき、
瞬く間に、その場にいた三人の姿が消えた――




