69-3 残響淡雪 Side...
フルーヴは、えらい子である。
約束したことを、ちゃんと守る。
まずはトウゴの傍で日々を過ごす。次に待っている人達が帰って来るまで、皆を守るために目を光らせる。魔法の訓練だって忘れていないし、むやみに人に姿を見せないように気を付けて行動する。
それでも時々、一人で素早く街を駆ける。
人に見られても、兎の姿であれば逃げやすい。人の姿で走るより早いし、何より精霊である。集中すれば瞬時に、別の場所に移動することだって出来る。
幾つもの屋根を飛び越えて、高い塀も飛び越えた。
うふふん、と草木に隠れる。
本日の目的は、領主の家に侵入だ。
皆がどこまでの人達を言っているのか分からないが、フルーヴが出会った人達の様子を探りに来た。例えば一回しか会ったことのない人でも、話したことがない人でも、元気でいるか。自分の目で見るために、確かめに行くのだ。
どきどきしながら、見回りの人がいなくなった隙に駆け出した。
草木の間を抜け、建物の壁沿いを進む。途中で知らない人の袴の中に隠れて、建物の中に入れば、探していた人の気配を感じて外に出た。
一定距離を置き、廊下には置物がある。その棚の下に隠れて、深く息を吐いた。小さなフルーヴでなければ、隠れられない高さだ。
這いつくばって息を殺す。何人もの足を見送った。目的の部屋は目の前にあるのに、重たそうな木製の扉に隙間はない。中がどうなっているのか分からなくて、少し迷った後、若い女性が大きな犬を連れて部屋の前で立ち止まった。
犬は少し怖かったが、勇気を出して女性の着物に滑り込んだ。
吠えられるかと思ったのに、犬には知らん顔をされた。
女性と犬と一緒に、フルーヴも部屋の中に入る。
部屋に入るなり、女性はため息交じりに言った。
「シンヤ様。アンリ様が探していましたよ」
シンヤとアンリ。聞いたことがある名前に、急いで着物から出る。
女性の背後に立ち、辺りを見渡す。女性が歩き出す前に、隠れる場所を探さなければいけない。目の前にあるのは部屋の扉だけで、右を見れば壁である。左に箪笥を見つけ、その上部が引違戸になっていた。僅かに隙間もあって、迷わず箪笥のなかに隠れる。
中は暗くて狭かったが、我慢するしかない。
居心地は悪いけど、隙間から部屋の中がよく見えた。
箪笥の向かいにベッドがあり、草の葉の色の髪の男性が起き上がって本を読んでいた。そのベッドの隣に丸椅子を引き寄せていたのが、シンヤと呼ばれた朱色の髪の男性だ。シンヤの特徴は、他の精霊から聞いたことがあるから間違いない。
少し驚いた顔のシンヤの手にも本があるが、部屋の中には沢山の本がある。
ベッドの上にも数冊、窓から日差しが差し込む机の上にも数十冊。床にこそ本はないが、沢山難しい本が置いてある。フルーヴは全く読めない。
扉の前にいた女性の名前を、シンヤはチアキと小さく呼んだ。
「チアキは今日…休みではなかったか?」
「休みでしたよ。ですから実家に帰り、サクマの家にも寄って来ました。ご両親も心配していて、何より茶々が寂しそうだから連れて来たのです」
茶々と呼ばれたのが犬の名前で、もう一人いた男性がサクマ。
ワン、と一回吠えたのはチアキに名前を呼ばれたからだ。尻尾を振りながら大人しく次の指示を待ちつつ、その濃い茶色の瞳は主人に会えた喜びに満ち溢れている。
首輪を付けた犬は、フルーヴの何倍も大きかった。茶々と言う名前の通り、全体的に茶色の毛並。尻尾がふさふさで、手足もフルーヴより長い。
対抗心を燃やすフルーヴの心情など、誰にも通じない。
手にしていた本を閉じたサクマに近づいて、チアキが低い声で言う。
「ちょっと様子を見に来て見れば、サクマは安静にと言われているのを忘れたのですか?シンヤ様と一緒に探し物をしないで、横になって休んでいて下さい」
「でもほら、暇だから」
「そう言って、何時間も本を読み続けますよね?この前なんて治りかけで訓練に参加して、傷を悪化させたのを忘れたのですか?」
「それはその、もう大丈夫だと思ったからで――」
言い訳は弱々しく、睨まれて頭を下げた。
この場から逃げようと腰を上げたシンヤに、チアキは即座に視線を向ける。
「シンヤ様も、病人の部屋に遊びに来ないで下さい」
「いやいや、暇つぶしの本を届けに来ただけだ。すぐに仕事に戻る」
「来る度に本が増えて、一向に減っていません。こんなことになるなら、ナギトをセレストに送るのを止めるべきでしたね」
頬に片手を当てたチアキが深いため息をつき、シンヤが視線を泳がせた。
ナギトと言う名前を、フルーヴも知っていた。精霊達に聞いた話では、シンヤの傍によくいた男性の一人。気にかけていた人の一人でもあるので、水鏡を通して時々様子を伺い、その無事な姿を何度も見た。
よく見るのは本が沢山の建物に入る姿だったり、本を読んでいる姿だったり。
どうしてセレストにいるのかは、シンヤが得意げに話し出した。
「ナギトは自ら志願して、セレストに行ったのだ。我々が止めるべきではない」
「私が聞いた話では、シンヤ様がナギトに提案したと聞きました。まあ頭を冷やしたり、一人になる時間が必要だったりしたのは分かりますが」
チアキの語尾は強調され、シンヤは何もない外を見た。
「セレストはガランスより春が早くて、羨ましいことだな」
「話を逸らさないで下さい。ナギトがいないのは、この際仕方ありません。ですがシンヤ様はアンリ様から逃げ、面と向かって話をしていません。サクマではなく、アンリ様と話をしては如何ですか?」
「話すも何も、言うことはないのだが?」
肩を竦めて見せたシンヤに呆れ、チアキは茶々を繋いでいた紐を手放した。
行って良し、の一言で、元気のよい茶々はサクマに襲いかかる。サクマは咄嗟に本を避け、押し倒されないように抱きしめた。
抱えられない大きな犬を撫でながら、サクマは素直にお礼を言う。
「ありがとう、チアキ。連れて来てくれて」
「茶々の為なので。それに私は、シンヤ様を足止めする為にも来ましたから」
足止め、の単語で部屋の空気が変わった。
何かに感づいたシンヤが窓から逃げ出そうとして、チアキが茶々の名前を叫ぶ。名前を呼ばれた茶々は身体を捻り、サクマから離れたかと思えば、窓枠に片足をかけたシンヤの袴を噛んで離さない。
「茶々!」
「茶々は私の言うことを、よく聞きますので」
「サクマ!主のお前が指示を出せ!」
「俺や両親より、今ではチアキの命令の方が聞くみたいですよ」
喚くシンヤの意思は無視され、逃げ出せない。
逃げ出す次の手を考えるよりも早く、部屋の扉が開いた。ゆっくりとでも扉が開いた音に、部屋の中にいた者は視線を向ける。
「ア…アンリ?」
「あらあら、兄様。そこは窓で、出入口ではありませんよ?」
にっこりと笑った少女、アンリはシンヤと似ている。
「それに、ここは二階。領主の息子である兄様が、そんなところから出入りするのは如何なものかと。私は日々、悲しくて仕方がありません」
アンリの登場に、チアキは後ろに下がり、軽く頭を下げた。サクマは姿勢を正そうとして、この場の誰よりも年下のアンリがそれを手で制す。
「公の場ではありませんので、どうぞそのままで」
「ですが――」
「遅くなりましたが、兄様の友人への見舞いです」
微笑んだアンリが言えば、後ろから若い女性が入って来た。その手には風呂敷を一つ持ち、サクマの前で風呂敷を広げる。中から現れたのは、新鮮な果物と真っ赤な液体の入った瓶。
驚きつつ、サクマは遠慮がちに受け取った。
「こんな高級なものを?」
「石榴酒は母様からです。忙しくて顔を出せませんが、お大事にと」
アンリの母と言えば領主であり、サクマの顔が引きつった。
若い女性と入れ替わるように、数人の男女が部屋に出入りする。最初に部屋に持ち込んだのは一人用のソファであり、真っ白なレースの装飾が施されていた。空いていた空間があったとは言え、部屋の中は狭くなる。
ソファの隣には、丸いテーブルも設置された。
それからティーポットと人数分の空のティーカップ、お茶菓子を乗せた、車輪の付いた台が部屋の隅に置き去りにされ、アンリ以外の人間は部屋から出る。
「チアキ、お茶をお願いします」
「はい」
返事をしたチアキがお茶の用意を始め、その間にシンヤは床に正座した。
「その…だな、別に逃げていたわけではなくて――」
「説明になっていません」
何とか見逃して貰おうと懇願する声を、アンリがばっさりと切った。
チアキがお茶を用意するまで、暫しの無言が訪れる。シンヤの弁明の声は続かず、アンリは優雅にソファに座り、両手を膝の上に合わせて待つ。
ティーカップを受け取ってから、ほんの少し首を傾げた。
「兄様、座っては如何ですか?」
「いや…」
「座って下さい」
命令とも言える強い口調に、頭の上がらないシンヤは従うしかなかった。ベッドの上ではサクマも正座し身構えて、茶々だけがチアキの後ろをついて歩く。
全員分のお茶菓子まで配られ、チアキが部屋の隅に移動した。
そのタイミングで、アンリが口を開く。
「甘さ控えめにしたティラミスです。食べながら話しましょう」
同意の声はなかったが、アンリはスプーンを手に取って一口食べた。一瞬だけ、その口元が緩む。ティラミスを食べるのはアンリだけで、他は手を付けない。
丸椅子に座り直したものの、誰よりも気まずいのはシンヤだ。机の上に置かれたティーカップを手に取り、落ち着きを取り戻してから話し出す。
「ここ一か月、忙しかったのではないか?」
「そうですね。誰かさんが捕まらなかったので、考えを変えて仕事に取り組みました。むやみに追いかけても時間の無駄だと思い、丸一日休むために必死でしたよ」
笑みを浮かべているが、アンリの瞳は全く笑っていない。
紅茶で喉を潤してから、シンヤは謝る。
「すまない」
「謝罪が欲しいわけではありません。私は兄様と話がしたいだけです。消えた友人の――アリカさんの話を、当事者である兄様から聞きたかったのです」
たった一人の名前が、その場の空気を重くした。
視線を下げたのはアンリ以外の三人で、それぞれ思うことがある様子。それはフルーヴも同じだけれど、うかつに声をかけられる状況ではない。何も言えずに成り行きを見守る。
ティーカップを膝の上に置くと、アンリは静かに訊ねた。
「私に隠し事なんてしないと、約束していましたよね?」
「約束した」
「それなのに何もかも黙っていたなんて酷いです。そうですよね、チアキ」
「はい。妹の件を黙っていた挙句、護人のことも説明して下さいませんでした」
チアキにも責められたシンヤは、痛いところをつかれて頭が下がる。
「いつか、言うつもりだった。これは嘘じゃない」
「今は何を聞いても嘘に聞こえますけど」
けど、と言った声は悲しそうだった。
「母様も、私に沢山の隠し事をしていました。私は何も知りませんでした。ただあの日、一人だけ安全な場所にいた、それだけが私に残った真実です」
フルーヴには分からないことを、アンリやシンヤは話す。
話が長く続きそうで部屋から出たいが、誰も動き気配がない。仕方がないので箪笥の中で身体を丸めて、少しだけ眠くなって欠伸をした。
「兄様が話してくださるまで、私はここを離れません」
「この部屋、サクマの自室なのだが?」
「長居しても大丈夫です。ソファもありますし、十分なお茶も用意済みです」
強気なアンリと困った声のシンヤが主に話して、サクマとチアキは声を出さない。犬である茶々まで大人しくしているので、フルーヴは重たくなった瞼を閉じた。




