68-1 面影銀雪 Side...
リーヴル家から遠く離れた山の中に、一匹の狼はいた。
崖の縁から見つめるのは、突如現れた真っ黒な球体。リーヴル家の屋敷の一部である池と、その中心に小さな建物を巻き込んで、一瞬で何もかも消し去った。跡に残ったのは半円の形にえぐられた地面であり、夜風に揺れる黒い着物が遠目に見えた。
それから女性が一人、深紅の髪を靡かせながら高らかに笑う。
「やったわ!私はやり遂げた!これで私は、先々代に勝ったのよ!」
地面が大きく揺れた。
揺れはすぐに収まったが、近くにいた人々は何が起こったのか分からない。既に混乱していた人々の表情は焦り、困惑している。球体があった場所から少し離れた場所に大勢の人が集まって、近くの温泉街からも次々と人はやって来る。
必死に指揮を執る人間はいた。
それは一人の男性で、若いながらも的確な指示を出す。崩れた屋敷の一部から怪我人を助け出すのを第一に、混乱の収まらない場で声を張り上げる。
数人が球体のあった場所へ向かう前に、どこからともなく白い兎は現れた。
幼い少女と少年一人を乗せ、真っ黒な夜空を切り裂く。男性の声を無視して兎は駆け出した兎は、瞬く間に、女性の後ろに到着した。男性が他の人間と共に向かう前に、兎の背に乗っていた幼い少女が口を開いた。
「…先代」
「あっはは!終わった!これで何もかも終わった!!」
幼い少女の声など聞こえず、女性は笑い続ける。
先に兎の背から下りた少年が手を貸し、少女を抱えて歩み寄る。今にも噛みつきそうな兎を抑えて、少年は女性に声をかける。
「先代。貴女を拘束します」
はっきりと述べた少年の声で、女性はようやく笑うのをやめた。
ゆっくりと振り返って、金褐色の瞳に少年少女を映す。
「何故?」
「これほどのことをして、自覚はないと?」
丁寧な言葉遣いを心がけつつも、少年の怒りはあからさまだった。何を言っているのか分からないと言わんばかりに、女性は微笑む。
「ヨル。それ以上、何も言わなくていいわ」
「分かった。イオ」
お互いの名前を呼び、イオと呼ばれた少女が右手を前に向けた。
音もなく結界が女性を包む。その結界を女性が退けようとするが、結界の光が強まった。イオは無表情で右手を握りしめ、余裕の笑みを浮かべてみせる。
「無駄よ。絶対に貴女を逃がしはしない」
「そう…それでも構わないわ。私はやり遂げた。もう何も要らない。やっと全てが終わって、私は解放されたのよ」
ふらっと揺れた女性は、力を失くして座り込んだ。
空を見上げて、誰にでもなく語り出す。
「贄と共に、この土地の闇は消えた。災いも悲しみも、苦しみも憎しみも全て闇に二人と共に闇に落ちた。贄となって闇に落ちた二人が帰って来られるはずがない。あの二人は永遠に闇を彷徨い続けるのよ」
今度は力なく、女性は腹を抱えて笑い出す。
白い兎が跳び出した。結界を無視して女性の上に乗り、その腹を片足が押さえつける。
「アリカを、どこにやったと言った?」
「――っぁ!」
「どこにやった!」
巨大な兎の瞳は怒りに燃えていた。
ヨルと呼ばれた少年が口を開く前に、イオは祈るように小さく言う。
「やめて下さい。ピヴワヌ様」
ほんの少しだけ、逆立った毛先が反応した。
「その方を殺す価値などありません――アリカさんの為にも、やめて下さい」
ピヴワヌの力は弱まらず、むしろ強まって女性の悲鳴が響いた。悲鳴が消えた途端、ピヴワヌは女性の上から退いた。死んではいない。苦しそうに息を吸う。
巨大な兎は一瞬で、小さくなってヨルの肩に飛び乗った。
「助かった」
顔を隠して俯く白い兎は震え、ヨルは空いていた手で兎の毛並みを優しく撫でた。
ヨルの名前を呼び、イオは地面に下りた。幼い少女は五歳前後にしか見えなくても、足取りは真っ直ぐに女性の傍に歩み寄る。
指揮をしていた男性が数人の人を連れて、遅れてやって来た。えぐれた地面に入る手前で、イオやヨルと似ている男性は他の人達を足止めさせる。
一歩進むたびに、イオを包む光があった。
イオの傍には精霊達が駆け寄り、桁違いの魔力を肌で感じた人々は黙る。
「これが…イオの本来の力なのか?」
「そうだろうな。これが巫女としての、在るべき力だ」
口を開けたのは、見守るヨルと背を向けたままのピヴワヌだった。
「貴女が死んでも私は構わない」
イオの声はよく響き、その瞳は光を宿して続ける。
「この場で死んでも、どうでもいい。何の感情も抱かない。けど――死んで終わりになんてさせない。貴女の犯した罪を、一生背負いなさい」
両手を握りしめたイオに見下ろされ、女性は僅かに怯んだ。
イオが片手を上げると、遅れてやって来た男性が女性の元に駆け寄った。結界は消えて、迷うことなく女性の手首を縛りあげる。
連行されていく女性をイオは見送ることなく、代わりに動かない人影に近づいた。夜空に溶け込む黒い着物を被せられ、着物の裾は淡い白と桃色。紺色の小さな小花は可愛らしく、精霊達が護っている少女を見る。
傍に腰を下ろして、涙の痕が残る寝顔を眺めた。
「おかえりなさい、ノノ」
ノノと呼ばれた少女は動かない。微かに胸は上下していたが、身体は傷だらけで痛々しかった。泣きそうな顔をしたイオは、小さな手でノノの手を握りしめた。
「また会えて、良かった」
小さな呟きを最後に、狼は耳を澄ませて声を拾うのをやめた。
リーヴル家の敷地の中は、依然として騒がしい。夜は明けないが、人が増えて、光が増えて明るくなっていく。魔法の焔、灯籠の明かり、雪が光を照らし返す光。沢山の光が増えていくが、探している光は見つからない。
誰にも気付かれることなく、その場を離れた狼の後ろ姿は森の中に消えた。




