67-3
全速力で駆けた亜莉香の息は切れ、広い空洞に到着して座り込んだ。
レイがやって来ると分かって、無我夢中で走った。
振り返らなかったが、後ろから追いかけて来る人影はない。安堵の息を吐き、空洞の中を見れば何も変わっていなかった。壁には均等に配置され赤々と燃える焔があり、地面には薄っすらと土や砂が積もる。
広々とした空間は静かで、音がない。
ちらほらいる精霊達が微かに笑い出し、ふわりと宙を舞った。
「…準備、終わっていますか?」
「当たり前じゃない。よく目を凝らして見なさいよ」
座ることはしなかったヒナに言われて、素直に目を凝らす。
よく見れば、空洞の中心の地面が他より暗く見えた。精霊の光よりも弱い文字が宙に浮き、揺れ動く光の文字は角度によって見え隠れして、どちらかと言えば黒を纏う。
今いる距離からでは、読み解くことは難しい。
「どのくらいの大きさで、描きましたか?」
「前回のように巻き込まれたくないから小さくしたわ。一人が入れば、十分でしょう?」
確かに、と呟き、袴の埃を払いながら亜莉香は立ち上がる。
踏み出した足は軽く、空洞の中心まで進んだ。一歩後ろにヒナがついて来るが、精霊達は中心を避けるように傍から離れていった。
腰を下ろして、描かれた記号の一部を撫でる。
見えていた文字の光の強さが増して、よく読めた。今すぐに魔法が発動させられる状態で、文字は羅列となって瞳に映る。
「どう?」
じっと動かずに文字を目で追っていた亜莉香に、立ったままのヒナが訊ねた。
「読み解けるわね?」
「はい。大丈夫だと思います」
答えながら手を離す。
文字は消えない。振り返って、ヒナを見上げた亜莉香は言う。
「ただ、近くにいる方が読み解きやすいです。あまり離れると、よく読めなくて」
「どこが限界?」
「そうですね」
話をしながら腰を上げ、一歩ずつ確認する。二メートルを超えた時点で怪しくなり、三メートル程度では文字は分かるが、羅列ではなくなった。
「ここ、でしょうか?」
「じゃあ、その場から動かないで」
中心から動かないヒナは扇を右手に持ち、その扇の色が白から水色に変わった。真剣な表情で扇の先を亜莉香のいる付近に向け、手首だけを動かして、扇を下から上へと振るう。
一瞬で何もない地面から氷の柱が現れ、亜莉香を囲った。
まるで鳥籠のような中に閉じ込められて、心なしか周りの温度が下がった。
「ヒナさん…寒いです」
「それくらい我慢しなさいよ。何もない状態よりましでしょ」
素っ気なく言い腕を組んだヒナが、魔法を解いてくれる気配はない。気のせいではなく本気で寒さを感じて、両手で腕を擦った。見かねた精霊が駆け付けて温めてくれなければ、魔法を発動しても口が回らなかったかもしれない。
精霊の力を借りて自力で結界を作ることも考えたが、折角の魔法に何も言えない。両手を温めつつ、亜莉香は首を傾げた。
「あれ?普通の結界なら、ヒナさんも使えましたよね?」
「その力は貴女が本人に返したでしょ。便利だったのに」
後半が紛れもない本音で、ため息をつかれた。
謝罪をしなければいけない雰囲気があったが、よく考えなくても亜莉香は間違っていない。本来の形に戻っただけのことで、そもそもの話が気になった。
「ずっとイオちゃんの魔力を持っていたのですよね?」
いつからなのかは分からない。それを聞いても、今更どうしようもない話だ。ただ事実を確認したかった言葉に、ヒナはレイがやって来る方角を眺めて呟いた。
「そうね」
立った一言が響き、声が続く。
「そうするように命じられたら、私は従うしかないのよ」
「そんな――」
「貴女のように、幾つもの選択肢から一つを選べるわけじゃない。私の道はいつだって一本道よ。他の道を選べない。今回のように貴女が干渉しなければ、巫女の魔力は戻らなかったでしょうね。そして巫女が取り戻した力を使いこなせるかは、私には関係のないこと」
亜莉香を遮ったヒナが、振り返らずに言い切った。
すっと顔を上げ、扇を開く。背を向けて、真っ白な髪を揺らしながら前に進む。その足取りは力強く、迷いがなかった。
「その中にいる限りは護ってあげるわ。せいぜい大人しくしていなさい」
優しい言葉をかけられ、反射的に外に手を伸ばそうとした。
触れた氷がとても冷たい。名前を呼んで引き止めようとしたのに、呼べなかった。
精霊達がヒナの傍に駆け寄り、何かを囁く。精霊達の光が当たった髪は微かに輝いているようで、真っ白に別の色が混ざる。赤、青、黄色、緑に橙の光に守られて、沢山の精霊達に囲まれているはずなのに、とても寂しそうな後ろ姿だ。
もう一度、今度こそ名前を呼ぼうとした瞬間に、空洞に足音が響いた。
「みーつけた!」
不気味な笑い声と共に、薄暗い通路から現れた少女が笑う。
被っていた黒い着物に腕を通して、その下には明るい紫の着物と鮮やかな黄色の袴を穿いていた。普段はまとめていた山吹色の髪が腰より長くて、乱れて汚れている。身体のあちこちから血を流す姿は痛々しく、地面に落ちた血の跡を見て、亜莉香は唇を噛みしめた。
ノノの顔なのに、怪しい笑みは間違いなく別人だ。
それを裏付けるかのように、亜莉香を背にしたヒナが言う。
「レイ」
名前を呼ばれた少女、レイが瞳を輝かせて手を叩いた。
「ヒナが私を置いて行くなんて思わなかった。もう逃がさないから」
「それはこっちの台詞よ。この土地に闇を引きつけて、随分とおかしな状況にしてくれて。全て貴女の仕業ね」
怒りを込めたヒナは、ゆっくりと扇を向けた。
その扇の色が、赤や青に移り変わる。定まらない扇の色に目を奪われ、亜莉香のことなど眼中にないレイは、わざと頬を膨らませて仁王立ちになった。
「私はちょっと、皆の背中を押しただけだもん」
「嘘つき」
「嘘じゃないよ。あの人達が悩んでいたから助言をしただけ――壊しちゃえば、てね」
心外だと言わんばかりに、囁くような言葉が続いた。たった一言が、レイの本心だったのだと亜莉香は悟る。家族を、守るべき土地を、何もかもを壊そうとした結果と、狂わされた人々の顔を思い出す。
目の前の氷を叩き割りたい衝動に駆られたが、行動を起こす前にヒナが口を開いた。
「何もかも壊すのに、その身体は必要ないでしょ」
はっきりと言えば、レイは首を傾げた。
「そう?」
「そうよ。貴女の力があれば、彼女達など簡単に操れた。誰かの身体を借りずとも、何だってしていた。それなのに他人の身体を奪うなんて――本物の身体を、どうしたの?」
笑っていたレイの顔が引きつって、ヒナの影が動いた。
その影から浮かび上がった人影は、女性だとは分かった。薙刀を持ち、真っ黒な闇を纏って、肌も顔も何もかも黒い一人のルグトリス。背丈がヒナとあまり変わらず、隣に並ぶように立つと、薙刀を構えてレイに剣先を向ける。
表情が消えたレイは懐から小刀を取り出して、思いっきり手のひらを斬った。
真っ赤な血が飛び散った分だけ、ルグトリスが現れる。レイを囲み、守るように現れたルグトリスの武器は様々で、性別も体型もばらばらだ。
「私の身体は…ここにある」
低く声でレイが言い、瞳の闇が深まった。
「私は何も奪われていない。私の邪魔をする男なんて知らない。私は主様の願いを叶えて、褒めてもらう。私は――私は!私は!!」
段々と叫ぶように言い、荒い呼吸を繰り返すと、頭を掻きむしった。
あまりに強すぎて、爪の間に血が付く。痛みを見せず、顔を上げたレイの瞳は狂気に満ち、氷越しでも亜莉香の背筋が凍りそうなくらい怖さを感じた。
「記憶の混乱と感情の激しい起伏」
呟いたヒナは肩を落として、残念そうに言う。
「早めに身体を返して貰いましょうか」
「言っている意味が分からないの。でも戦うなら、一対一なんて面白くないよね?」
狂っているレイの問いに、ヒナは答えなかった。
代わりに扇の色が濃い茶色に定まり、扇の先端をレイに向けた。微笑んで、とても静かな声が空洞に響く。
「私達は最初から、相容れない存在だったわね」
「当たり前だよ。私はヒナが大嫌い」
「それは嬉しいわ。私は貴女も――貴女が主様と呼ぶ男も大嫌い」
一歩踏み出したように見せたヒナが、手前にあった小石を蹴った。
小石は弾んで、レイの足元まで転がる。その小石を眺めていた瞳は弧を描き、口角を上げたかと思えば、両腕で震える身体を抱きしめた。
「あはは!あっはは!ようやく、ようやく本音が聞けた!」
笑い声と共に影が広まって、空洞が薄暗くなる。
「それが本音なら、もう遠慮する必要はないね。主様が何と言おうが戦って、殺し合おう!そして最後に――ヒナの命より大事な扇を壊してあげる!」
言い終わると、同時だった。
レイの姿が一瞬で消えて、ヒナの懐に迫って小刀を突き付ける。扇で防いだヒナが後退る隙を与えず、真横から女性のルグトリスが薙刀を回した。迫る剣先をレイは軽く避け、宙に浮いた身体は回転して、真後ろに下がる。
着地した途端に、レイの身体に向かって地面から鋭い槍のような攻撃が仕掛けられた。それすら難なく避けるレイは、人間離れした動きだ。攻撃の届かない場所まで下がり、舌で唇を舐めて言う。
「負けない。死なない。だってそれが、主様の命令だから」
体勢を立て直したレイの前に数多くのルグトリスが出て、その姿を隠した。
じりじりと迫って来るルグトリスの大群に、女性のルグトリスが前に出る。まるで一人で相手をすると言わんばかりの態度に、ヒナは素直に下がって囁いた。
「いいわ。貴女の実力、見せつけてあげなさい」
女性のルグトリスが微かに頷き、その薙刀が焔を纏う。
武器を手にするルグトリスは見たことがある。魔法を使うルグトリスも、何度か目にしたことがあるのに、武器に魔法を纏わせるルグトリスは初めて見た。
たった一人で佇む人影は、夢の中で何度も出会った少女を思い起こさせる。
亜莉香は知っていた。
右手に薙刀を持って、背中を向けて歩き出す後ろ姿。さらさらの長い髪は真っ直ぐで、歩くたびに揺れる。誰だか把握した途端、真っ黒にしか見えなかった姿が変わって見えた。
その女性は亜莉香を認識しない。
ただ敵を見つめ、笑みを浮かべる。
「灯さん…?」
目を見開いて亜莉香が呟けば、聞こえているはずがないのに口角が上がった。
灯にしか見えないルグトリスは身を低くして、勢いよく駆け出す。亜莉香の記憶を奪った灯とは全く違う。笑みを浮かべ、容赦なくルグトリスを倒して、軽々と薙刀を振り回す姿は楽しそうに遊ぶ子供のようだった。




