66-5
顔の前で広げている深い赤の扇を見つめて、亜莉香は言葉を読み解く。
「【魔力を奪われたる者よ】…違いますね。この言葉じゃなくて、えっと――」
「あの、大丈夫ですか?」
目の前で正座しているイオに心配されて、顔を上げそうになった。
扇に描かれている金で縁取られた牡丹の花が僅かに輝き、黄金色の文字が浮かぶ。その文字を読み取りたいのに、文字になりそうでならない状態が続く。
最初より光が文字に見えなくなって、挫けそうになりそうだ。
「多分、大丈夫です」
「無理しなくても、いいですよ?」
「もう少しだけ、もう少しだけ付き合って下さい」
繰り返したのは自分自身に対してで、困った顔したイオに頼んだ。
何を行うか説明しても、信じきれていないように感じる。魔力を奪われた記憶が無いのだから仕方がないが、亜莉香は魔力を戻せないと認めたくない。
意地になって文字を見つめ続けると、先代巫女を端に運んだヨルが傍に戻って来た。
「よく分からないけど、苦戦しているな」
図星を言われて、出来ると思い込んでいた気持ちが揺らぐ。
亜莉香の心の揺らぎと一緒に、文字の光も弱くなる。これはまずいと思いつつ、切れかけていた集中力のせいにして、深く息を吐いた。
「その通りでは、あるのですよね」
「肩の力が入り過ぎているんじゃないか?」
軽く言われた言葉に頷き、深呼吸を繰り返して、全ての文字を瞼の裏から追い出す。目を開けば、今度は扇ではなく祭壇を遠くから眺めた。
祭壇の近くにいたルカとルイの近くの階段に、人の姿をしたピヴワヌが座っている。
苛立ちを抑えながらも必死に、亜莉香が敵ではないことを説明する。足と腕を組んだピヴワヌが今にも立ち上がりそうで、物凄く眉間に皺が寄っているなと思えば、目が合いそうになって慌てて背けた。
腕を組んでいたのは、もう一人。
精霊と共に動かないノノを見張っているヒナは、表情を消していた。先代巫女の力を封印するように助言して、ずっと手放さないと思っていた扇を呆気なく亜莉香に渡して。何を考えているのか、さっぱり分からない。
ぼんやりと、ヒナを見つめて目が離せなくなった。
亜莉香とイオの間にヨルが腰を落として、意識を戻して扇を見る。
「ヨルさん…ルカさんやルイさんの所へ行かないのですか?」
「俺が何を言っても、あいつらは何も信じないだろ」
「そんなことはないよ。ルイが一番信頼しているのは、本当はヨルだもん」
亜莉香とヨルだけの場なので、イオは堅苦しい態度をやめた。
心なしか嬉しそうに、笑みを浮かべてヨルに言う。
「私やルイと違って、ヨルは真っ直ぐなの。迷いがないの。いつだって信じられる人だと皆が認めているから、そんなヨルが羨ましくて、ルイは突っかかっているだけだよ」
「俺だって悩みぐらいある」
「それも知っている」
うふふ、と笑ったイオに、少し居心地の悪さを感じたヨルが言葉に詰まった。
仲の良い兄妹の姿を見せられて、亜莉香まで幸せな気持ちになる。イオの言った通り、ヨルは少し不思議だ。嘘をつかないとか、隠し事がないとか、それだけじゃない。
何か大事なことを思い出しそうで、あの、と声をかけた。
「どうして…ヨルさんは許せたのですか?」
きょとんとした顔になったヨルと目が合った。
「両親を傷つけられても、裏切られそうになっても。キヨさんを許して向き合えたのは、どうしてですか?」
難しい質問をした自覚はあった。それでも目を逸らさずに、繰り返した答えを待つ。物凄く考えたヨルは首を捻り、そうだなあ、と話し出した。
「先々代様の前で、誓ったからかな」
曖昧に言いつつ、優しい笑みを浮かべる。
「アリカは知らないだろうけど、俺達の祖母みたいな存在の人がいてさ。迷った時にどうすればいいのか。正しさは何か。色んなことを教えてくれた。子供の頃の話だけど、そんな俺の道標のような人の前で誓ったことがある」
一息ついた、ヨルの表情がとても柔らかかった。
「俺は家族を裏切らないし、どんなことが起ころうと憎まない」
宣言したヨルは眩しくて、亜莉香の心の中でくすぶっていた感情が消えた。
護り続ける誓いは、強い想いだ。
誰にも奪えない。奪わせない。
忘れかけていた大事なことを思い出し、扇で顔を隠した。得意げに話すヨルの話が続いても、半分は聞き流してしまった。
「まあ。憎みはしないが、本人に文句ぐらいは言う。やり返されたら、しっかりやり返してもいたわけで――て、話を聞いているのか?」
「はい…私も、イオちゃんやルイさんの気持ちが分かった気がします」
「何の話だよ」
どうしようもなくなったヨルが言い、亜莉香は肩を震わせて小さく笑った。
顔を上げなくても分かる。きっと目の前ではヨルとイオが驚き、おかしくなったと思っているに違いない。壊れたと思われても仕方がない。
今なら、イオの魔力を戻せると思えた。
不意に地面が揺れて、笑っている場合ではなくなる。
祭壇の方から何かを感じ振り返れば、闇を纏ったノノが立ち上がる所だった。ヒナは片手に小刀を持ち、咄嗟にピヴワヌは背にルカとルイを隠した。精霊達は避難するように空洞を飛び回り、一部はそのまま出入口から逃げ出した。
扇の持ち主であるヒナに返さないといけないのに、亜莉香は反射的に叫ぶ。
「もう少しだけ時間を下さい!」
手にした扇に熱を感じて、強く握った。
小刀を構えたヒナと目が合う。その口元に笑みが浮かぶ。それ以上言わなくても、ヒナには伝わった。状況に応じて二人を守るように約束したピヴワヌと視線を交わせば、ルカとルイのことは任せてもいいのだと信じられる。
近くにいたヨルを見るなり、亜莉香は口を開いた。
「ヨルさんはヒナさんの援護をお願いします」
「本当に、いいんだな?」
力強く頷けば、ヨルはすぐに立ち上がって駆け出した。
ヨルと同じように、ノノの傍に行きたいイオを引き止める。力になりたいと物語る瞳を見つめて、その両手を扇と共に掴んだ。
「大事なことを思い出しました」
「アリカさん…?」
話をしながらも、扇は淡く赤い光を帯びる。
「数日前に決意したばかりなのに、私はすぐに忘れてしまいそうになるのです。私がこの場にいるのは、描いた未来を取り戻したいから。私はイオちゃんの魔力を戻したいのではなく、イオちゃんが笑っている未来を取り戻したいのです」
混ざっていた黄金の光が、浮かび上がって文字を作る。
今度ははっきり読み取れて、言葉を紡ぎ出せば止まらないと悟った。初めて魔力を戻すのは少し緊張して、笑みを浮かべて問いかける。
「もう一度、聞きますね。このまま続行したら、イオちゃんは自分の魔力を取り戻すと同時に、嫌な記憶も思い出すと思います。それでも、よろしいですか?」
これは二度目の質問だ。魔力を戻すと説明した時も尋ねたが、その時のイオはぎこちなく頷いただけだった。
ノノの声で、高笑いする声が響いた。
声はノノだけど、ノノじゃない。先代巫女の意識を奪った時にヒナが魔法を使ったから、その魔力に誘われて現れた少女の名前を呑み込んだ。
あまり時間はなくて、戦いが始まる予感がした。
真剣な眼差しの亜莉香に、唇を結んだイオが首を縦に振る。
「お願いします。私は巫女として、この地を護りたいのです」
深い緑色の瞳から、イオの決意は伝わった。
亜莉香が軽く瞳を伏せても、黄金色の文字が視界にちらつく。読み解けと、待っている文字の羅列と一緒に精霊達が傍に浮かび、小さな声で早くと急かした。
「【――我、汝の記憶を呼び起こす者】」
扇の赤い光が濃くなって、輝く黄金の文字が読みやすくなる。
「【汝の魔力を返すと誓う】」
ほんの少し借りただけ。その気持ちを言葉に添えて、気を引き締めて顔を上げた。
段々と力を込めた声に、扇の光がイオを包み込んでいた。触れている両手から震えが伝わり、小さな身体を丸めた表情は青ざめた。繰り返す息が乱れて、とても苦しそうだ。
「深呼吸をして」
大丈夫だと、心を込めて囁いた。
扇をイオの両手で握らせて、亜莉香は優しく抱きしめる。すっぱりと収まった身体を包み込んでいた光が、亜莉香も一緒に覆った。その光は温かく、居心地の良い光だ。
再び、地面が揺れた。
ピヴワヌやヨルが叫ぶ声が、まるで鏡越しのように聞こえる。レイの高笑いは止まらない。ヒナが応戦して時間を稼ぎ、ルカやルイの声はしなくとも巻き込まれているはずだ。
そんな状況なのに心は落ち着き、亜莉香は為すべきことを為す。
「拒絶しないで、怖がらないで。この魔力は最初からイオちゃんの力で、受け止めれば皆を救う力に変わるから。絶対に、大丈夫だから」
根拠のない自信があった。
ぎゅっと抱きしめた腕の中で頷いたのを確認して、途中だった言葉を紡ぐ。
「【汝の名の元忘却し、封じた記憶。汝の名の元集いし、預かりし力。交わる二つを在るべき場所へ――】」
最後の言葉を口にすれば、魔力はイオの元に戻るのだろう。
封じられたイオの記憶が気になった。おそらくヒナと出会った記憶があるはずで、どんな経緯で魔力を奪われたのか。奪った本人は口が裂けても、亜莉香には教えてくれないと確信して、抱きしめていたイオから身を引いた。
徐々に顔に赤みが増して、瞳に光が宿って見える。
先々代の巫女の力を宿し、本来の魔力を取り戻したイオは強い。それは誰に言われなくても分かっていたことで、そんなイオがいるからこそ、迷わず願った未来を選べる。
吸った息を少し止め、亜莉香は静かに言葉を放った。
「【我は導き、全てを正す】」




