63-4
揺らぐ景色の中に、小さな黒に近い赤紫色の光が残る。
一段と小さくなった光は辺りを照らすことなく、闇に紛れてしまいそうだった。目を凝らさなければ見落とす光は宙に浮いたまま、揺らいだ景色は形を変えていく。
小さな小窓から、夜の空が見えた。
雲に覆われた空の隙間で星々が輝き、月明かりは届かない。蝋燭が灯る薄暗い和室の中に人影は一つで、その横顔は見覚えのある顔だった。
ハキ・フラム・リーヴルと言う名の女性は物思いにふける表情で、足を崩して座っていた。重々しい着物姿のまま肘をついていると、障子の外から声がする。
「先代様、お茶をお持ちしました」
「入っていいわ」
力なく女性は答え、お盆にお茶を乗せた少女が部屋に入る。
目を合わせない女性に緊張しながら、お茶と持って来た和菓子を置いた。粗相のないように緊張しつつ、顔を上げれば女性と目が合った。
微笑まれた少女は頬を赤くして、恭しく頭を下げてから部屋を出た。
急ぎ足で遠ざかる音が消え、女性は湯呑に手を伸ばす。
「――呼んではいない客もいるようね」
ぞっとするような低い声で言い、女性の影が揺れた。
部屋の中を囲む結界が展開され、同時に耳障りな笑い声が響く。女性は何も気にせずにお茶で喉を潤して、背後の影が起き上がり、少女の姿に変わった。
黒の着物を纏った少女の、真っ白い髪が揺れる。
亜莉香と同じ年齢に見えて、隣のヒナが息を呑んだ。
「本物の…レイ?」
とても小さく呟いたヒナが驚き、一歩下がって口元を押さえた。
こんな所にいたの、と独り言を零す。
亜莉香が急いで視線を戻せば、髪色は違っても顔はレイと似ていた。黒い光を宿す大きな黄色の瞳も、怪しげな笑みもレイに見えるけど、亜莉香には別の誰かの面影が見えた。
その誰かが思い出せないまま、レイと思われる少女が言う。
「こんばんは。私が突然来ても、驚かないのね?」
「何しに来たのかしら。今回は呼んでいないわ」
女性が興味を示さずに言えば、クスクスと笑ったレイは女性の前に回った。
勢いよく座ったかと思えば、寝転がって自由に動く。目に付いたのはお盆の上にあった和菓子で、それは菜の花を想わせた。黄色のそぼろ餡に少しだけ緑が混ざり、丁寧に作られた和菓子に手を伸ばして遊ぶ。
ちぎれた一部を口に放り込み、舌を出して顔を顰めた。
「あら甘い。私の好みじゃない」
「それなら捨てなさい。そして用事がないなら、さっさと出て行って。他の人間が私を嗅ぎ回っているの。見つかるのは迷惑なのよ」
「私は迷惑をかけてないでしょう?寧ろ、この土地の闇が深まるように、積極的に協力しているじゃない。それでね、お願いがあるの。貴女の持ち物を頂戴」
「…何をするつもり?」
疑わし気に女性が言えば、レイは無理やり残りの和菓子を口に入れた。よく噛まずに飲み込んで、口に付いた餡子を舐めてから軽く答える。
「ルグトリスを生み出す媒体、今度は貴女の物で作ろうと思って。思い入れのある物であるほど、絶対に強力な物が出来上がると主様が言ったの。それなら急いで取りに来なきゃと思って、私はやって来たわけ」
嬉しそうに言ったレイに、女性は嫌そうな顔をした。
それは一瞬で、すぐに近くの引き出しを探って何かを投げた。寝たままのレイが受け取ったのは、小さくて丸い形の櫛。小さな紫苑の花が彫られ、まじまじと眺めながら問う。
「これ、思い入れのあるもの?」
「思い入れのあったもの。それを受け取ったら、さっさと消えて」
再び物思いにふける表情を浮かべた女性が、今度は窓に目を向けた。
外を眺められる、唯一の窓。和室の中は閉ざされた鳥籠のようにも見える。
誰かを待っているように悲しそうで、再程と雰囲気が違った。突っかかるような態度はなく、とても静かだ。口を閉ざした唇の色が悪く、顔の色は青白くも見える。
とても寂しそうだとも、思った。
不意にレイは勢いよく起き上がり、女性に迫って瞳を覗き込んだ。
「ねえ、何を考えているの?」
「…何も」
「だって貴女みたいな顔する子が、主様の近くにいるの。何を考えているか分からない、変な子。貴女も出会ったことがあると思うの。ほら、珍しい白い髪の子」
微かに女性の口角が引きつり、レイが満足そうに身を引いた。
白い髪で思い浮かぶ人物は隣にいて、亜莉香は顔を向けそうになった。ヒナは何も言わない。レイが思ったことは亜莉香も思ったことで、何も言わないまま目の前の二人を見る。
思い出したくもないと言わんばかりに、女性はレイを睨みつけて冷たく言った。
「あの子には、一度しか会っていないわ」
「そうなの?でもあっちは、この土地の誰かを気にしているみたい。貴女ではないのかな?いつか聞いてみなくちゃ。その前に、もっと闇の力を蓄えないといけないけど」
とても楽しそうに着物を払って立ち上がり、レイは女性の後ろに回った。
僅かに黒い光が女性を包み、その光はレイと影で繋がる。ほんの少し震えた女性の肩に手を置きに、唇を近づけて囁いた。
「忘れないで、私達は一心同体よ」
言い終わると同時に、レイの姿は影に消えた。
ゆっくりと女性が振り返った背後には、誰もない。まるで最初からいなかったように、部屋は静まり返る。息を吐き、女性の視線は中途半端に開いた引き出しで止まった。
手にしていた湯呑に気付いて、そっとお盆に戻す。
それから引き出しを閉めようとして、無くなった櫛のあった場所を眺めた。ただただ見つめ続けて、奥から一枚の布を取り出す。
その布に包まれていたのは、写真のように見えた。
遠目からでは分からない写真に微笑んだ女性は、今にも消えそうだった。
か弱くて、とても小さく見えた姿。とても大事そうに写真を額に寄せてから、布に包み直す。誰にも知られないように、触れられないように。見てはいけない光景のような気がして、亜莉香は目を逸らしそうになった。
その前に引き出しに布を戻して、女性が顔を上げた。
その顔は美しく、迷いのない巫女の顔だった。




