61-5 Side牡丹
風呂場に行くふりをして、すぐに戻ったピヴワヌは主の傍にしゃがんだ。
腕を枕にして、先程までピヴワヌが座っていた場所に顔を向けている。眠っている顔は悲しそうで、瞳から溢れた涙を拭う。
「泣いてばかりだな」
囁いても声は届かなかった。
ここ数日で、泣き顔を嫌と言う程に見た。悲しみや苦しみを感じる度に、ピヴワヌの心も痛む。せめて傍にいようと寝顔を眺め、頭を優しく撫でた。
目の前にいるのは、灯とは全く違う少女だ。
ピヴワヌは灯が泣く姿を見たことがない。
いつだって明るく笑うのが、灯と言う名の少女だった。決して弱音を吐かず、弱気になった姿を見たこともない。大きな魔力を身体に宿して自由に魔法を扱い、精霊達に振り回されることなく関わった。
今思えば、ピヴワヌに対しても一線を引いていたのかもしれない。
だからいつも、何も言わずに姿を消したのかもしれない。
必ず戻って来ると分かっていた。それでも別れの挨拶をして、ピヴワヌに向き合って欲しかった。気持ちを通じ合わせて、灯に頼られる存在になりたかった。
過去の願望に頭を振り、追い出す。
今の主を想って、か弱い主を瞳に映した。
「亜莉香」
主の幼少期の記憶を垣間見た時に知った名前を、小さく呼んでみた。
返事はない。ピグワヌがどれだけ名前を呼んでも、本当に呼んで欲しい相手に呼ばれなくては意味がない。必ずまた、主の心の底からの笑顔を見たい。その笑みがピグワヌに向けられたものでなくても、笑っていてくれれば十分だ。
不意に雪を踏みつけた音がして、顔を上げた。
縁側の外にヨルの気配を感じる。足音を立てずに移動して、二重のガラス戸の鍵を開けた。片手を上げて見せたヨルを見るなり、人差し指を口に当て声を潜める。
「あまり声を上げるな。主を起こしたくない」
「寝ているのか?」
「まあな。丁度いい。布団に運ぶのを手伝え」
部屋に上がったヨルの手を借り、当分は起きない主を隣の寝室に運んだ。
ピヴワヌが抱きかかえても、用意してあった布団に寝かせても、小さく唸っただけで眠り続ける。そっと襖を閉じてから、ピヴワヌはヨルに向き直った。
「それで、お主の事情は聞きたいが、アリカは寝ておる。起きてからでいいな」
「俺は構わないけど、座っていいか?まだ本調子じゃないからさ」
構わんと言って、お互いに和室のこたつに座った。
こたつの上には何もない。向かい合わせで座り、お互いに黙ると部屋の中が静かになった。ピグワヌは肩まで毛布をかけ、ヨルが遠慮がちに口を開く。
「アリカ、大丈夫か?」
「大丈夫とは言えんが、今のところは平気だ。寝ていれば体力は戻る」
「ピヴワヌは?」
「儂の心配など要らん。人間とは違うからな」
素っ気なかったのに、ヨルは気にせず微笑んだ。子供を見守る眼差しに、言い過ぎたと反省して、ピヴワヌは急いで言う。
「まあ、儂よりアリカを心配してくれ。ヨル、お前は大丈夫なのか?」
「俺?」
「狭間で倒れていただろうが」
ほんの少し前のことをすっかり忘れている表情に、呆れて言った。ようやく思い出したように相槌を打ったヨルが、眉間に皺を寄せて話し出す。
「倒れていたのは、腹が空いて動けなかっただけだ。時々狭間から手だけ出して食べ物を探したけど、この時期に手に入れるのは難しいな」
「野生動物なら冬眠している季節だ」
「だよな。どうにか魚を捕まえたり、食える葉っぱで空腹を紛らわしたりしても、満腹までは食えなかった。春だったら狩りをして、猪でも食べられたのにさ」
窓の外に目を向けたヨルは、どこに行っても生き延びそうな話しぶりだ。
実際にどれくらい狭間にいたのかは分からないが、狭間でも林や森の中でも野生動物並の生命力の高さを示す予感がした。人間にしては珍しい適応力で馴染み、鋭い直感で、獲物を狙う姿は容易に想像出来る。
時折精霊に近い気配を感じて、主とは違う意味で興味が尽きない。性格や行動だけではなく生まれ持った魔力が気になり、この機会に問いかける。
「いつから、狭間を自由に行き来していた?」
「物心ついた頃だな。迷子になったルイやルカを探しに行くのに便利で、当時は適当に歩いている感覚しかなかったけど」
隠していたわけではないようで、あっさりとヨルは続ける。
「俺みたいな存在は、影渡りと呼ばれるんだろ?イオに言われるまで知らなかったけど、影渡りは巫女より珍しいから、俺からは誰にも言うなと念を押された。両親にも兄にも、自分で言いふらす真似はしていない。ルイだけは、イオから聞いていたみたいだな」
「確かに今は珍しいが、昔は影渡りの方が多かった」
「そうなのか?」
「時代が流れるにつれて、いつの間にか減ったのだ。巫女の血は途絶えず在り続けたが、影渡りは個人の力だ。親から子へ受け継がれるわけじゃない。いつか消えてしまう者達だとしても、それは仕方のないことだ」
ピヴワヌが一息つくと、小さく扉を叩く音がした。
ヨルに開けに行くように顎で示すと、入口で大きなお盆を受け取って戻って来た。もう一つ同じお盆を持ったフミエが後に続き、ピヴワヌを見るなり柔らかい笑みを零す。
「お食事をお持ちしました。アリカさんは浴室ですか?」
「隣の部屋で寝ている。誰も風呂に入らないなら、温度調節の水を止めるべきか?」
「どちらでも構いませんよ。気になるなら止めて来ますね」
こたつの上に食事を置くと、フミエは急いで浴室へ向かった。
ヨルは持っていたお盆を自分の前に置き、こたつの中に戻る。ピグワヌの目の前に置かれたお盆の上には、夜食にしては多い品数が並んでいた。
香ばしい味噌の匂いは焼きおにぎり。色々な種類の刺身は一皿でまとめられ、綺麗に盛り付けられていた。出汁に浸った蟹入りの茶碗蒸しがあり、ほくほくの南瓜の煮物があり、林檎酒の入った真っ白な徳利とお猪口。
ピヴワヌのお盆には、五つの饅頭もあった。
じっと見つめていたピヴワヌに、両手を合わせて食べようとしていたヨルが問う。
「食べないのか?」
「アリカの分を取っておくか悩んでいる」
「アリカさんの分でしたら、またお持ちしますよ」
お湯を止めたフミエが部屋に戻って来るなり言い、ピヴワヌの傍に腰を下ろした。お盆の上の徳利を手に取り、お猪口に並々と注ぐ。お猪口を右手に持ったヨルにも注ぐと、姿勢を正して軽く頭を下げた。
「本日は精霊様のお力を貸して頂き、誠にありがとうございました。今日はこれしかご用意出来なくて、後日改めてお礼を致します」
「礼ならこれで十分だ」
一言を素っ気なく返し、熱い林檎酒を口に運んだ。
敬われていると感じるのは久しぶりで、少し照れくさい。最近は精霊と名乗る機会もなく、精霊だと知っている人間の中で、ピヴワヌを敬う存在はいないに等しい。数人は内心敬っているのかもしれないが、とても分かりにくかった。人間のように生活するのも悪くはなくて、日々を楽しんでいたのだと今更知る。
ほっと息を吐き、慣れてしまった習慣で手を合わせてから箸を手に取った。ヨルやフミエを見ず、ピヴワヌはどの刺身を食べるか選びながら言う。
「儂の方が、実際は礼を言いたい立場だ」
「フミエに、か?」
「いや、お主ら二人だ」
鮪を選び、口に運んだ。
「我が主の名前を呼んでくれた。名を呼ばれたことで主の心は救われ、張り詰めていた気持ちの糸が切れた。そのおかげで今は眠っているし、あれでは朝まで起きん。偶然の巡り合わせが時折恐ろしいが、見えない力に引き寄せられて、お主らに会えたのは幸運だった」
しみじみと言い終え、言葉を失っている二人を見た。きっと何も分かっていない。瞬きを繰り返すフミエは両手を膝に乗せたまま無言で、必死に考えたヨルは食べる手を止める。
「名前を呼ばれただけで心が救われるって、どんな状況だよ」
「一から説明するのが面倒だから、端的に言うぞ。ガランスでアリカの居場所が奪われた。
精霊と一部例外を除いて、誰もアリカを覚えておらん。アリカの代わりに違う人間が平然と生活していて、儂は未来永劫アリカの味方で傍を離れるつもりはないが、他の連中は赤の他人のように接する。急に存在を忘れられたら、お主らだって堪えるであろう?」
疑問形ながら同意は求めず、喉を潤すために林檎酒を飲む。
雪見障子の外の景色に目を向けて、ここにはいない顔を思い浮かべた。
「お主ら二人がアリカを覚えていたと言うことは、おそらくガランスの中にいた人間だけが忘れているのだろうな。明日になったらセレストにいる連中と連絡を取りたい。儂とアリカは別件でこの地を訪れ、決着をつけねばならぬ相手がいるのだ。その件について、相談できるなら話がしたいのが儂の考えだ」
言いたいことを言って、ピヴワヌは茶碗蒸しを手に取った。
温かな容器を左手で持ち、小さめのスプーンで一口ずつ食べる。口に入れる前から、とろける柔らかさの茶碗蒸しは身体だけでなく、心まで温めてくれた。
精霊であるから食事をする必要もないとも言えるが、習慣はすぐにやめられない。冷める前に食べ上げようと思えば、ヨルの小さな声がして顔を上げる。
「ルイやルカは、一緒に来ていないんだな?」
「そう言ったであろう?」
「トシヤも、本当にアリカを忘れたのか?」
信じられないのか。信じたくないのか判断しかねる表情をされ、息を吐く。名前を聞くだけで嫌な気分になるのは、その名前だけで主の心が乱れると分かっているせいだ。
主を傷つける存在は嫌いだ。
顔を合わせた時、トシヤの胸倉を掴んで怒鳴りたかったくらいだ。
例え本人の意思に関係なく忘れているとしても、ここ数日の過去は消えない。変えられない。取り戻したい時間に戻れるはずはなくて、静かな怒りは焔のように心に灯った。
急に芽生えた怒りを抑えきれない。
食べ物に罪はないが、手にしていた茶碗蒸しを強く握る。普段はひそめている気配を漂わせ、周りを威圧した。青白い顔になったフミエが怯え、肩を震わせる。何も悪くはないヨルに怒りの矛先を向けるのは間違いと分かった上で、睨みつけた。
「ここにいないのが現実だ」
言い放った声は冷たく、返事はなかった。




