61-4
深夜ともなれば、温泉街に人はいない。
それでも誰にも見つからないように、建物や木々の影に隠れて移動した。フミエが住んでいる宿兼住まいは温泉街の中心近くで、他の建物に比べて正面が狭い。脇にあった裏口へ続く小さな戸を抜け、一人しか通れない道を亜莉香はフミエに案内されて歩く。
後ろには頭の後ろに手を回したピヴワヌがいて、緊張の欠片もなく呟いた。
「この時間だろうが、儂は食べるからな」
返事をしたら負けだと口を閉ざした亜莉香の代わりに、前を歩いていたフミエが言う。
「すぐにお部屋にご案内して、お菓子とお酒を用意しますね」
「すみません」
「いえ、アリカさんはお食事だけでよろしいですか?」
「十分です」
フミエの声は明るく、嬉しさが滲み出ていた。
宿の傍まではヨルも一緒に来て、先に宿に忍び込んでいる。人に見つかるとまずいと言われ、亜莉香とピヴワヌが部屋を確保次第、その部屋に向かうとも言われた。その時に一から説明してもらうことになり、亜莉香の事情も話すことになるだろう。
数時間前には、領主の家に居たとは思えない。
あっという間に時間は流れて、身体は疲れ切っていた。休んでいる暇はないはずなのに、ヒナが帰って来ない。休めるうちに休もうと、亜莉香は息を吐いた。
裏口に立ったフミエが、少しだけ緊張して扉を引いた。
静かに戸を引いたのに、家の中から足音が響く。
「「フミエ」ちゃん!」
戸の音に気付くなり、やって来たのは老夫婦。
どちらも白髪交じりの髪で、目つきの悪い男性は子供を怯えさせそうな顔つきだった。女性は見るからに優しそうで、亜莉香と背が近い。何となく年齢を想像させる二人は、即座にフミエに詰め寄った。
「どこに行っていた?」
「心配したのよ」
「怪我はしてないか?」
「怖い思いはしなかった?」
代わる代わる声をかけられて、怒られると勘違いしていたフミエが肩を小さくした。顔色を伺いながらも話し出そうとすれば、夫婦は同時に静かになる。
あの、と恐る恐るフミエは口を開いた。
「少し外に出ていて、頭が冷えて帰って来ました。心配をかけて、ごめんなさい。怪我はしていないし、怖い思いもしていません」
本当のことを言うわけにはいかず、嘘をついて少し俯いた。
黙ったフミエを見つめて、女性がフミエの手を取る。
「無事なら、それだけでいいのよ。おかえりなさい」
「ただいま。お爺様、お婆様」
「おかえり。だが急にいなくなるのは、今後はやめてくれ。帰って来ないかと、儂らを心配させないでくれ」
表情とは裏腹に、男性の叱り方があまりにも優しくて、フミエは素直に頷いた。
もう一度、心から謝って頭を下げる。それから後ろを振り返り、老夫婦が亜莉香とピグワヌを認識した。軽く頭を下げると、驚いた顔になる。
亜莉香は姿勢を正して、フミエが話し出す。
「私の友人のアリカさんと、お連れのピヴワヌ様。私が外にいたら話を聞いてくれて、泊まる場所がないと伺ったの。急だけど、泊まってもらってもいいですか?」
「それは勿論――」
「構わないが、ここら辺の子じゃないな?」
快く承諾した女性の言葉を、男性が引き継いだ。
誘導尋問されそうだと思いつつ、亜莉香は即答する。
「はい。普段はガランスの街に住んでいます。知り合いを追って温泉街に辿り着いて、探していた所でした。急なことで、宿を決める余裕がなかったのです」
「こんな時間まで、宿を決めなかったのかい?」
「この土地に長居するつもりはなかったので、最悪の場合は野宿でもいいかと」
余計なことは言わないように気を付けながら、にっこりと笑って言葉を切った。野宿の単語に老夫婦は驚きを隠せない。出来る限りの真実を話そうと、はっきり述べる。
「探している知り合いに気付かれないように、私達は極力人と会わないようにしていました。偶然フミエさんと出会いましたが、出会わなければ、今夜は外で過ごしていたと思います。急にお邪魔してお願いする立場ではありませんが、私達がここにいることを口外しないでもらえますか?」
真剣に問えば、老夫婦は顔を見合わせた。
言葉を交わすことはなかったが、どちらも亜莉香に微笑む。
「勿論、お客様のことは誰にも話しませんよ。フミエちゃんのお友達ですもの、今からでも精一杯のおもてなしをしますね。お夜食はいかが?」
「それなら私が用意します。お婆様」
「あら、いいのよ。お爺さんが、ちゃんと用意するから。フミエちゃんは部屋に戻って、まずは着替えなさい。お友達とお話したかったら、お夜食を運んでからにしましょうね」
有無を言わせない女性に続いて、男性も言う。
「そうだぞ。婆さんに部屋への案内は任せて、フミエは着替えて来たらいい。夜遅くまで起きているのは感心せんが、少しくらいの夜更かしなら目を瞑ろう」
「でも――」
「いいから、いいから。ほら、早く上がりなさい。後ろの二人もね」
手を引かれたフミエが困った顔をして、亜莉香は心配いらないと頷いて見せた。
急ぎ足で奥に消えたフミエを見送り、男性も一礼して踵を返す。残ったのは女性一人で手をこまねき、亜莉香とピヴワヌは靴を脱いで上がった。
改めてフミエの住まいを眺めると、裏口が広い。裏口に到着するまでの道を考えれば意外に思えるほどの場所があり、数十の靴が置ける。廊下の幅も広い、と視線が止まった亜莉香に、女性は優しく教えてくれた。
「我が家の入口は湯畑に面しているけど、敷地の大半は奥の裏山なのよ。入口から宿や住まいは遠くなるけど、奥まで来て頂ければ、広い部屋で寛げますよ」
「そうだったのですね。何も知らずにお邪魔して、すみません」
「フミエちゃんのお友達なら、いつだって大歓迎です。見ての通り年老いた夫婦二人で営んでいましたが、フミエちゃんが来てから三人で切り盛りしています。客室は三つしかなくて、今日の客人は一組。部屋が空いている時で良かったわ」
にこにこと嬉しそうな女性に促されて、亜莉香とピグワヌは廊下を進む。
障子の部屋を幾つか抜けて、素朴な林檎が描かれた暖簾を越えると雰囲気が変わった。
ひっそりと静まり返った四角い渡り廊下があり、中心の中庭に一本の樹があった。雪を被った樹は立派で、大きな存在感を放つ。中庭だけでも十分な広さがあり、樹の幹は太くて高さもあった。
神秘的にも見える、美しい中庭だ。
足を止めた亜莉香に合わせて、立ち止まった女性も樹を見つめる。
「我が家のご神木で、秋になると見事な林檎を実らせます。お酒は大丈夫かしら?夜食と一緒に、林檎酒はどうかしら?」
「えっと…頂きたいです」
隣のピヴワヌが瞳を輝かせたので、思わず答えた。
それから案内してくれたのは、暖簾があった一面の隣の壁。他の二面の壁同様に、上部が丸い円形の扉が一つあり、女性が持っていた鍵を差し込んだ。
鍵の掛かっていた扉を開け、明かりが点く。
和紙を透かして明るく灯された部屋は、二間続きの和室。入口左手には扉があり、和室の右側には美しい格子枠のある襖で、まだ部屋があるようだった。真正面と左側にある広い縁側を仕切る障子は下の半分にガラスがはめ込まれた雪見障子で、その縁側と外を区切るのはガラス戸。二重構造の部屋は心なしか暖かく、外の仄かに明るい雪景色が見えた。
手前の和室に何もない代わりに、奥の和室はこたつがあり、可愛らしい赤と黄色の格子柄の毛布が挟まっている。
心落ち着く空間に肩の力を抜くと、女性が先に部屋に上がった。
「今すぐに部屋を暖めますね」
「それくらいでしたら、自分で」
「フミエちゃんのお友達でも、お客様ですもの。部屋の支度は私の仕事。こたつはすぐに温まるから、中に入って座っているといいわ。入口左手はお風呂とお手洗い。お風呂は温泉の源泉で熱いから、水を混ぜて温度を調節して頂戴。隣の部屋に布団を敷く前に、私がお風呂を用意した方が早いわね」
いそいそと支度を整える女性の動きを止められない。
入口で立ち尽くした亜莉香の背中をピヴワヌが軽く叩き、女性に言われた通りこたつに入った。座っただけで、今までの疲れが押し寄せた。もう暫くは立ち上がれない。
頭をテーブルに乗せると、すぐに寝てしまいそうだ。
ヨルが来るまでは起きていようと、目を見開いた。
「…眠いなら、寝ても良いぞ?」
「いえ、起きています」
「弱々しいな」
ピヴワヌの指摘は正しい。起きていると言いながら、気を抜くと瞼が閉じそうだ。
うとうとし始めて、眠気覚ましのために、こたつの中で両手を動かす。つねれば痛くて、何とか眠気と戦っている間に、支度を整えた女性は静かに部屋から出て行った。
ピヴワヌと二人きりになると無言で、ますます寝そうになる。
気を紛らわせようと、亜莉香は口を開いた。
「今頃、トウゴさんやフルーヴは寝ているでしょうか?」
「そうだろうな。トウゴに何かあれば、フルーヴが知らせに来るだろう。何事もなく無事だからこそ、音沙汰なしだ」
「明日になったら水鏡で、少しでも話したいですね」
「もうすぐ日付が変わる。日が昇ったら、水鏡でも紙鳥でも連絡を取れ」
そうですね、と言って小さく欠伸を零した。
眠たいのは亜莉香だけで、ピヴワヌは平然とした顔をしていた。
「ピヴワヌは疲れていませんか?」
「お主とは違う。儂の心配より、自分の心配をしろ。魔法で身動きを封じられるは、人の怪我を治すは、今日一日で普段は使わない魔力を使っただろう?」
「後悔はしていませんけどね」
ふわふわと微笑みながら言った。
それでも、と言ったピヴワヌの右手が伸びる。亜莉香の額を中指で軽く弾き、呆れた表情をまじまじと見た。
「小娘と合流するまで、しっかり休め。いいな」
「分かっていますよ?」
「分かっているなら、少しだけでも横になって寝ろ。今のままでは、風呂の中で寝るか。夜食を食べながら寝る羽目になるぞ」
「一度寝たら、起きられる気がしないのです。せめてヨルさんが来るまでは、ちゃんと起きて話を聞かないと」
段々と起きていても話は聞けない気がした。
どう頑張っても眠たくて、頭がぼんやりする。
「儂が起こす。それでは駄目なのか?」
「駄目では…ないです」
「なら、今すぐに目を閉じろ」
命令形ながらも、頭を撫でる手は優しい。ぽんぽんと、呼吸に合わせて規則正しく叩き出されると、熟睡してしまいそうだ。耐え切れなくなって、腕を枕にテーブルに頭を乗せた。真っ赤なルビーの瞳に見つめられると安堵して、小さくお願いする。
「絶対に、起こしてくださいよ」
「分かっておる。儂は少し風呂場を見て来ることにしよう」
席を離れたピヴワヌに何も言えないまま、亜莉香は瞳を閉じた。
泊まる場所を提供してくれたフミエに、きちんとお礼を言っていない。フミエだけじゃなくてヨルも亜莉香のことを覚えていたのだから、イオも覚えているか確かめたい。それとも二人だけが覚えていたのか、覚えているとしたら何かきっかけがあるのか。
ヒナはいつ、帰って来るのだろう。
きっと戻って来ると、何故か信じていた。春まで停戦でいることを約束したせいか。積極的に協力しているのが、亜莉香だけだと胸を張って言えるせいか。何だかんだ言いつつも、目を見て話せるせいか。
お互いの望みを一つ叶える取引をして、まだ亜莉香の望みを決めていない。
考えることは沢山ある。考えなくてはいけないと思うのに、ふと思い出すのは大切な人達の顔だ。トウゴやフルーヴ、フミエやヨルのように名前を呼んでくれていた人達を想えば、いつだって涙が溢れそうになる。
誰よりもトシヤに会いたい。
名前を呼んで欲しいと願い、唇を結んだ。夢の中でもいいから、会って話がしたい。それすら叶わないと思いながら、亜莉香の意識は深く沈んだ。




