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Last Crown  作者: 香山 結月
第3章 雪明かりと蠟梅
301/507

61-2

 ヒナが答える前に、ピヴワヌと狼の耳が真っ直ぐに立った。

 亜莉香の肩の上で立ち上がったのはピヴワヌで、狼は立ち止まって視線を巡らせた。ヒナまで真剣な表情で遠くを見つめて、亜莉香だけが何が起こったか分からない。


「あの…一体何が――」

「捕まって」


 短い一言と同時に、方向転換した狼が駆け出した。

 返事をする前に、亜莉香はヒナに思いっきり抱きつく。何事かと頭が真っ白になって、ピヴワヌの真剣な声が頭に響いた。


【誰かがルグトリスに追いかけられている】

「え?」

【舌を噛むぞ。今は黙って、早く口を閉じろ】


 言われた通りに口を閉じると、急に身体が浮いた感覚を覚えた。

 夜の明るさに慣れたせいで、どこにいたのか把握するのに時間はかからない。林を抜けた途端に崖に出て、狼は飛び降りる。


 狼が落下すれば、必然的に亜莉香もヒナも落ちた。

 小さな悲鳴を上げたのは亜莉香だけで、身を低くしたヒナの背中に顔を押し付けた。軽い衝動があり、着地したか確認しようと目を開ける。

 狼は押し倒したルグトリスの真上にいて、鋭い爪が喉に食い込んでいる。

 満足そうに唸った狼に亜莉香は言葉を失い、平然としたヒナが言う。


「そろそろ離して」

「ごめんなさい!」

「謝るならさっさと下りて、そこにいる子に声でもかけて来なさいよ。誰とでも仲良くなるの、貴女なら得意でしょう」


 そこの子、と言って、ヒナが真横を見た。

 木の根元で身体を丸めていた少女と目が合う。

 蒲公英のような黄色の瞳は怯えていた。薄い紅色の髪を下ろして、地面についている。襟元が深紅の着物の上に、寒さを凌ぐための黄色の福寿草が大きく描かれた深い紫を纏い、胸元で一つの簪を両手で握りしめていた。


「フミエさん?」

「アリカさん?」


 お互いに幻を見ているような表情を浮かべて、名前を呼んだ。

 ピヴワヌに促されて、亜莉香は急いで狼から下りる。ヒナと狼に背を向け駆け寄る姿に、安堵したフミエは肩の力を抜き、僅かに微笑んで見せた。


「夢では、ありませんよね?」

「それは私の台詞です」


 腰を落として、涙を浮かべたフミエの肩に手を伸ばす。何度か優しく叩くと、フミエの頬に涙が伝った。慌てて顔を伏せたフミエが、涙を拭いながら言う。


「ご、ごめんなさい。アリカさんに会えたら安心して」


 名前を呼ばれたのは、聞き間違いではなかった。目を見開いた亜莉香は息が止まりそうになり、五月蠅い心臓を片手で押さえた。


「私を…ご存知なのですか?」

「勿論、です」


 泣いていたせいで、たどたどしくフミエは言った。


「大切な友人を、忘れるわけがないですよ」


 涙を止めたフミエが顔を上げ、微かに微笑む。その瞳に泣きそうな亜莉香が映った。フミエが泣き止んだと言うのに、今度は亜莉香が泣きそうだ。


 誰も覚えていないと思っていたのに、覚えてくれた人がいた。


 どうしてフミエが覚えていてくれたのか、分からない。それでも嬉しさが込み上げて、何も言えなくなって頭を下げた。


 優しい手が亜莉香の頭を撫でて、ピヴワヌが大丈夫かと問いかける。心の中で返事を返し、笑みを浮かべてフミエに顔を向けた。


「変なことを聞いて、すみませんでした。ちょっと色々あって、動転してしまいました」


 一息ついて、何か言われる前に問いかける。


「フミエさん、怪我をしてはいませんか?」

「怪我はしていません。アリカさんこそ、その…大丈夫ですか?」

「大丈夫です。フミエさんのおかげで、もう大丈夫だと言えるようになりました。ご迷惑でなければ、場所を移動して話しませんか?ここにいては冷えてしまいます」


 戸惑っていたフミエに言い、先に立ち上がった亜莉香は手を差し伸べた。

 遠慮がちに手は重なったが、とても冷たい。長時間外にいたのかもしれないと思えば、無意識に握った手に力を込めた。


 近くを漂っていた赤い精霊が舞い降りて、仄かな光を放った。

 ふんわりとフミエを包み込んだ光はすぐに収まり、そっと手を離す。


【随分と精霊の力を引き出すのが上手くなったな】

【そう言われると、少しだけ自信が持てます】


 まだまだ未熟ですが、と小さく付け足した。

 褒めたピヴワヌも心なしか喜んでいるようで、力を貸してくれた精霊が空に舞い上がった。お礼を言えば他の精霊も近寄って、楽しそうに亜莉香に声をかける。今のところ特に頼むことがなく、ピヴワヌが散らす様子は微笑ましい。


 魔法をかけられたフミエの身体は温まったはずで、ついでに着物が乾くように願った。自分の身に起こった変化に、フミエは不思議そうな顔になる。


「あの…アリカさんが魔法を使ったのですか?」

「はい。怪我はしていないようでしたが、身体が冷えていましたので。上手くいったと思うのですが、余計なお世話だったでしょうか?」

「そんなことはありません!私は魔法を上手く使えないので助かりました」


 恥ずかしそうに顔を赤くして、フミエは言った。

 そう言えば聞いたことがなかったなと思いながら、亜莉香は問う。


「フミエさんは、火の魔法を使うのですか?」

「一応、ですが。小さな焔を灯すことしか出来ません。母や姉は私と違って幻影を作り出せるのですが、私には魔法の才能がなくて。火の魔法ですら、中途半端で役に立たないのです」


 幻影、と口の中で呟いた。

 魔法の種類を考え始めた亜莉香に気付かず、フミエは僅かに視線を下げる。


「せめて魔法が上手に使えれば、リーヴル家の一人として戦えました。私は何も出来ないから、いつだって家に居ることしか出来ないのです」

「戦うのは、ルグトリスとですよね?」

「ええ」


 肯定したフミエは少し驚いて、亜莉香をまじまじと見た。


「ルカやルイ様から、お聞きになりましたか?」

「そんな感じです」


 実際は違うが、この場で一から説明するのをやめた。納得しているフミエに余計なことを言えず、言葉を続ける。


「場所を移動するのでしたよね?どこか安全な場所があれば、案内して頂けませんか?私ともう一人、一緒に来たのですが――」


 ヒナは何をしているのだろうと、途中で振り返ろうとした。

 亜莉香の着物の袖をフミエが掴み、言おうか言うまいか迷った眼差しを向ける。


「フミエさん?」

「本当なら巻き込むべきではないと、頭では分かっています。でももし魔法が使えるなら。ルカやルイ様からルグトリスの話を聞いているのなら、力を貸して欲しいのです」


 話し出したフミエは何かを決意して、重たい口を開いた。


「ヨル様を、見つけて下さいませんか?」

「え?」

「ここ数日、姿が見えないのです。他のリーヴル家の人が探しても、どこに行っても会えなくて。もしかしたら、どこかで動けなくなっているかもしれません。助けを待っているのかもしれません。それなのに他の方々に明日から捜索を打ち切ると言われて、私は居ても立っても居られなくて、夜中でも家を飛び出して」


 だから、と早口になったフミエの手は震えている。


「ヨル様を一緒に探してください」


 最後の一言は涙声。お願いします、と頭を下げた。

 予想外の話に、呆気に取られる。フミエの手を振り解くことが出来ず、ピヴワヌの視線を感じても言葉は出ない。次から次へと難題が押し寄せ、訳が分からなくなる。


 亜莉香の知らない所で、事態は既に動き出していた。

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