61-1 白雪寒影
夜風は冷たく、月と星の明かりに照らされた道を進んだ。
白い雪の上を、黒い狼は風のように駆ける。
落とされないようにヒナの細い腰に腕を回していた亜莉香は目を瞑り、途中で意識を失った。次に目を覚ました時、疲労による全身のだるさは少しだけ軽減した。うつらうつらとした意識の中で、変わりゆく景色を見る余裕はない。
ぼんやりとする亜莉香の頭の中に、優しいピヴワヌの声が響いた。
【起きたか?】
【どれくらい寝ていましたか?】
【一時間も寝ておらん。だが、もうすぐ着くはずだ。お主が寝ている間に随分進んだ。目が覚めたなら起きていた方がいい。着いた後の行動を考えないといけないからな】
肩にいたピヴワヌに目を向けて、小さく頷いた。
僅かに動いた亜莉香にヒナは気付いたはずだが、何も言わない。ぎゅっとしがみついていても文句を言わなくて、領主の家を出た後から静かだった。
ヒナの身体は温かくて落ち着く。
目が覚めてくると、領主の住まいに置いてきた面々を思い出した。
結界の中にいたチアキとサクマだけは、睡眠薬混じりの霧を吸い込まずに済んだ。その霧がなくても、サクマは絶対に安静で当分動けないはずだ。唯一起きていたとも言えるチアキは呆然としていたが、数日眠り続けた後に必ず目を覚ますことを伝えた。
精霊経由で、領主であるカリンも一部始終を知ることになる。
嘘偽りのない真実を知った後の対応は、全てカリンに任せることになった。気を付けなさい、と精霊越しに伝言を受け取り、亜莉香は安心して眠っている面々を託した。
一帯に結界を張り、精霊達の見張りも置いてきた。咄嗟に小さな梅を抱きしめたシンヤも、泣いた跡が残っていたナギトも、寝顔を目に焼き付けたトシヤも、数日で目を覚ます。その前にレイのことを片付けて、安心してガランスに戻りたい。次に会う時は、必ず灯から居場所を取り戻した後にしようと決意した。
頬を撫でていた風が弱くなって、狼はひっそりと足を止めた。
顔を上げた亜莉香の瞳に、温泉街の入口が映る。
入口の両側には、ぽつんとした街灯が二つ。明るい昼間に見た時は気付けない明かりは、和紙を透かして仄かに辺りを照らす。人の気配はなく、誰もいない。動物や虫などもいない入口に目立った物はない。
そのまま入口から入るのかと思いきや、狼は亜莉香やヒナを乗せたまま歩き出した。今までの速さとは違う。ゆっくりと、きょろきょろと顔を動かして入口の近くにある林の中を探るような様子に、亜莉香は首を傾げた。
「中に入らないのですか?」
「巫女に悟られたくないの。少しでも結界の薄い場所から侵入するわ」
淡々と答えたヒナの言葉で、暗闇で目を凝らしてみた。宙には何も見えないが、所々の地面に小さな光の点を見つける。その点と点を繋げば線となり、境界線を知った。
暫く歩くと点と点の間隔の広い場所があり、狼は軽々と飛び越えた。
入口から遠ざかった。境界線を越えた先は何もない林で、覆い茂る木々に雪が積もっている。誰も通ってない雪の上を進みながら、ふとした疑問をピヴワヌが口に出す。
「どこに向かっているのだ?」
「さあ?どこでしょうか?」
「私だって知らないわよ」
訊ねる前にヒナに言われ、その後の言葉が続かなかった。
道案内をしているのは狼で、その意思を知るのは不可能だ。精霊ならまだしも、動物の声は聞こえない。魔法でもあればと思えば、亜莉香は再び口を開いた。
「ヒナさんは、動物の声を聞く魔法を使えはしないのですか?」
「何でも魔法に頼らないで」
「つまり使えないのだろう」
素っ気ないヒナに対して、馬鹿にしたようにピヴワヌは言った。それを出来ないのは亜莉香もピヴワヌも同じはず。それなのにヒナなら出来るのではないか、なんて亜莉香も考えてしまっていた。
大きな舌打ちをして、前を向いたままのヒナが言う。
「私は万能じゃない。動物の声も植物の声も聞こえない。貴女と違って治癒魔法も使えない。この答えで満足かしら?」
「でも、植物や雪だるまを操ったり、以前は風や水の魔法を使ったりしましたよね?チアキさんとサクマさんを守った結界も、ヒナさんの魔法だと思いました。私より戦い慣れていて、色んな魔法が使えて凄いですよね」
「それには誰も同意しないからな」
ヒナの嫌味に気付かなかった亜莉香に、ピヴワヌは呆れて言った。ふわふわの毛並みを亜莉香に寄せると、声を落とす。
「儂は絶対に、目の前の小娘に気を許す気はない」
「私なんかを信じるのは、頭のネジが飛んだ存在だけね」
「我が主を侮辱するな。たった数年しか生きていない小娘が」
ピヴワヌの身体が燃えるように熱くなって、瞳に強い光を宿した。
遠巻きにだが、亜莉香がヒナを信じていると肯定した言葉は嘘じゃない。自分でも分からないうちに信用しているから、今だって一緒に狼の背に乗っている。
ピヴワヌの気を紛らわせるために話題を変えようと、亜莉香はヒナの名前を呼んだ。
「今のうちにお尋ねしますが、私が発動するはずだった魔法は、円を描けば誰にでも発動出来るものだったのですか?確か、ヒナさんは発動出来ないのでしたよね?何か条件がありましたか?」
「私は貴方に読み解けと言ったのよ」
「そう、でしたね」
矢継ぎ早に言った質問に対して、答えはすぐに返って来た。
ほんの数時間前の説明を必死に思い出す亜莉香に、ヒナは丁寧に説明する。
「レイの心の一部と偽りの身体を封印するための魔法は、一部でも欠けたら失敗する。あの魔法の使い方は合っていた。円の中にいる存在をふるいにかけ、闇に落としもするし心を壊しもする。今のレイなら、どちらも当て嵌まってくれたはずなのよ。心が壊れて身体も闇に落ちれば、自由に身動き出来ない。封印した、とも言えたのよ。だから私は、さっさと円の外に出るように言ったでしょう」
少し怒ったヒナから、質問の答えは貰っていない。ピヴワヌまで怒り出しそうな雰囲気になる。気まずさを感じた亜莉香は確認を込めて、質問を一つに絞ることにした。
「誰でも、発動できるわけじゃないのですね」
「そうよ。力ある者にしか、魔法は読み解けない。貴女はことごとく私の邪魔をして、精霊を従えるから認めていたけど――まさか、レイが読み解けるとは思わなかった」
後半は独り言のように小さくなり、悔しそうだった。
円を描いたところで巻き込まれて、同じことを繰り返すのは避けたい。黒い手に捕まれた時は痛かったし、怖かった。あのまま魔法が発動していたらと考え込んだ亜莉香に、ヒナはそっと付け足す。
「貴女が円を描かずに発動できるなら、それが一番なのよ」
「そんなことが可能なのですか?」
「少なくとも二十年前は、たった一人の人間があの魔法を発動した。周りも巻き込んでいたけど、瞬時に描いた円は魔法の光だった」
二十年前、とレイも言っていた。
二十年の月日が心に引っかかり、黙っていたピヴワヌが噛みつく勢いで問う。
「二十年前に、何があった?」
「何も」
「何もないわけあるまい。二十年近く前に灯が消えた。儂の前から姿を消した。あの時に消えたのは緋の護人だけじゃない。瑞の護人も、凬の護人も行方を眩ませた」
段々と熱がこもったピヴワヌの燃えるようなルビーの瞳が、真っ白な髪を捕らえる。
「お前は何者だ」




