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Last Crown  作者: 香山 結月
序章 薄明かりと少女
30/507

07-1 甘雨明光

 ぽつり、ぽつりと雨が降り始めた頃、亜莉香は急いで路地裏を駆けていた。


 水張月、と呼ばれる季節は、水が張る、と言われるだけあって、雨の日が多い。雨が降って地面に水が張るから、とルカに教えてもらったのは、月の初めのこと。

 ついでにユシアが買ってくれた傘を壊したのは、つい先程のこと。

 走りながら後ろを振り返り、追いかけて来る黒い何かを確認して、亜莉香は脇目もふらずに全速力で走る。買い物をするために出掛けたのに、いつの間にか知らない道にいる。立ち止まれば黒い何かに掴まるのが怖くて、立ち止まれない。

 手に持っているのは、壊れてしまった傘だけ。

 必要だから、とユシアが買ってくれた傘は、濃い深紅に小さなウサギの絵が描かれた傘で、シンプルなデザインがお気に入りだった。持っていたはずの風呂敷は知らないうちに失くしてしまったが、傘だけは壊れても手離せない。

 トシヤがいなくても何度か一人で通った裏路地で、まさか黒い何かに襲われるなんて想像もしていなかった。気が付いたら持っていた傘を振り回し、近くの建物の壁にぶつけて壊して、逃げ出しているのが現状。

 夕方より早い時間なのに、雨のせいで曇り空が広がり、辺りは薄暗い。


「どうしようっ――!」


 どこに向かえばいいのか分からないまま、亜莉香は走り続ける。

 見つけた、と何度も繰り返していたはずの声は、少し距離を置くと聞こえなくなった。

 それは喜ぶべきことだけれど、一定の距離で追いかけて来るので、人が多い場所に向かって周りを巻き込むことは避けたい。だからと言って武器を持っていない状況で、逃げ切る方法は思い浮かばない。

 不思議なほど人と会うことがない路地裏は、静まり返っていた。

 亜莉香の足音と息切れの音だけが、やけに大きく耳に届く。

 真っ直ぐに前だけを向いて走っていた亜莉香は、周りを見る余裕などなかった。


「―待って!」


 微かに聞こえた幼い少女の声に、亜莉香の足が止まる。

 驚いて辺りを見渡すと、通り過ぎたはずの細い路地から少女が飛び出した。

 驚く亜莉香の元へ、黒地に鮮やかな白い紫陽花の描かれた着物を頭から被った、背の低い少女がぶつかりそうな勢いで駆け寄る。

 一瞬だけ、少女の黒い瞳に、亜莉香の姿が映った。

 少女は亜莉香の姿を確認するなり、亜莉香の手首を掴む。


「こっちです」

「…え?」

「追われていたのは貴女ですよね?警備隊への報告は兄を通して後で行います。まずは逃げないと」


 少女は早口で言い終わると、迷うことなく駆け出す。

 走り出した少女に先導され、戸惑う亜莉香は走りながら訊ねる。


「貴女は、誰ですか?」

「私のことより、逃げるのが先決です。今日は雨だから、私は魔法が上手く使えなくて、足止めすら出来ないのですから!」


 必死に走る少女は幼く、被っている着物の下に、くす玉と扇と色鮮やかな花が散りばめられた、白と赤の市松模様の着物を身に付けていた。深い紫の袴には小さなウサギが描かれ、お洒落な足袋に下駄を合わせている。

 真っ直ぐに前だけを見て走る少女に導かれるままに、亜莉香は走り続ける。

 何度か路地を曲がり、細い路地を駆け抜け、その先に賑わう人々の姿が見えた。少女が迷うことなく向かい、人々の中に紛れ込む。

 躊躇する暇はなく、亜莉香も人混みに紛れ込む。

 人混みに紛れ込みながら、ほんの一瞬だけ振り返った。

 裏路地の中に黒い何かが立ち止まっている。

 追いつこうとはせず、じっと立ち尽くしていた黒い何か。雨が本降りになって、雨水が滴る姿があった。その姿がすぐに見えなくなり、少女は人混みの中を迷うことなく進む。

 雨音が徐々に大きくなりながら、亜莉香は雨の中を駆け抜けた。






 人混みをかき分け進み、また路地裏に戻る。

 降り出した雨が止む気配はなく、土砂降りになる前に、辿り着いたのは人の少ない路地裏の、建物の屋根の下。雨宿りのため立ち止まると、少女はようやく亜莉香の手を離した。


「ここまで来れば、もう大丈夫だと思います」

「ありがとう、ございました」


 息を整えながら、亜莉香は言った。深呼吸を繰り返す亜莉香の横で、少女は息を吐き、着物が頭から落ちないように、結んでいた紐をしっかりと結び直す。

 被っている着物のおかげで、少女はあまり濡れていない。

 亜莉香と違って息切れをしている様子はなく、平然とした様子で空を見上げる。


「雨、止みそうにありませんね」


 独り言のように呟いた少女の声は、あまりにも小さかった。

 黙ってその場からから動かない少女の隣で、亜莉香は乱れた髪を整え、持っていた傘を建物に立て掛ける。濡れた着物に視線を向けると、袖や裾がびしょ濡れだ。早く帰って着替えたいところだけれど、今いる場所が分からない。傘は壊れた状態で、濡れて帰ることは仕方がない、と割り切るしかなかった。

 あの、と亜莉香は口を開く。


「私は亜莉香と言います。貴女の名前を聞いてもいいですか?」

「…アンリ、と言います」


 ちらっと亜莉香の方を向き、視線を合わせたのは一瞬。

 あまり話そうとしない少女、アンリに、亜莉香は申し訳ない気持ちで尋ねる。


「アンリちゃんですね。あの…ここは、ガランスのどこらへんか分かりますか?」


 質問を繰り返した亜莉香に、アンリが声を上げた。身体の向きを亜莉香の方に向け、勢いよく頭を下げる。


「すみません!勝手に連れて来てしまって」

「いえ、驚いたけど助かりましたから。助けて下さった、のでしょう?」


 アンリの行動に驚きつつ、亜莉香は優しく言った。顔を上げたアンリは微かに頷いた。


「ただ逃げただけですが。雨が降ってなければ、魔法で私が倒せたのです。でも、今日は出掛けしていたら雨が降り出して、逃げることしか出来ませんでした」

「でも、アンリちゃんがいてくれたおかげで、私は助かりました」


 ありがとうございました、と目線を合わせて言った。

 着物に隠されていた髪は長く、肩の高さで片方にまとめている。木製の簪で大きな輪を作り、まとめている髪は黄色を帯びた鮮やかな朱色。可愛らしい顔つきで、よく見ればコウタと年が変わらない。

 十歳前後にしか見えないアンリは、亜莉香と目が合うと驚いた顔をした。

 にこにこと笑いかける亜莉香に、アンリは瞬きを繰り返す。


「私の顔を見て、何も言わないのですね」

「えっと…それはつまり、どういうことでしょうか?」

「いえ。私が分からないのなら、そっちの方が」


 嬉しいです、と笑みを零し、アンリは被っていた着物を少しずらした。お互い顔がよく見えるようになって、アンリは近くにあった箱を指差す。


「雨が止むまで、そこに座って。私とお話してくれますか?」


 亜莉香が頷くと、アンリは箱の上に座った。

 建物の屋根の下で、座るのには丁度いい高さの箱が数個置いてある。アンリの傍の箱に亜莉香も腰を下ろすと、アンリが静かに話し出す。


「私はこの街で生まれ育った者です。アリカさんは、この街の人ではないのですか?」

「この街にやって来たのが二カ月程前です。住み始めたばかりではないのですが、この辺りのことは詳しくなくて」

「なるほど。ここは中央通りの近くの裏路地です。中央通りは、どこなのか分かりますか?」


 質問をされ、少し考えてから亜莉香は答える。


「確か、領主や貴族の住まう北側と庶民の南側の境界線、が中央通りでしたよね?」

「はい。アリカさんはどこに住んでいるのでしょう?」

「南側の東市場の方です」

「それなら、帰りは私が中央通りから中央市場までご案内します。私も、そちらの方に用事があったので。それとも、警備隊を見つけて。案内をさせましょうか?南側に詳しい警備隊が、市場まで行けば捕まえられると思いますが?」

「いえ、中央市場まで行けば、大丈夫だと思います」


 答えつつ、アンリの言葉を考える。

 警備隊、と関わりがあるような口ぶりと、その警備隊に案内させる、との言葉。丁寧な言葉遣いで、身なりが高価な物に見えなくもない。

 以前、北側には貴族がいる、と聞いた。

 もしかしたらアンリも貴族の一人かもしれない、と思ったが、アンリのことを知らない、と言った時の嬉しそうな顔を思い出すと、貴族がどうか確認するのは気が引ける。

 気付かなかったことにして、ふと思い出したことを問う。


「アンリちゃんは、私を追いかけていた黒い何かのことご存知ですか?」

「ルグトリス、のことですか?」

「あ、そう呼ぶのですね」


 初めてその名を聞いて、ルグトリスと心の中で繰り返す。

 名前を告げてから、アンリは腕を組んで考える素振りを見せた。


「うーん、詳しく説明を出来なくもないのですが、警備隊でもないアリカさんに、どこまで話していいのか分からなくて。名前ぐらいは大丈夫だと思うのですが、それ以上はちょっと、私が言える立場ではないです」

「無理に聞きたいとは思っていませんし、名前が分かるだけ十分です」

「そうですか?もしまた見つけたら、一目散に逃げて下さいね。でも、そう何回も遭遇するような存在ではない、と思いますが」

「はい…」


 アンリが心配そうな瞳で亜莉香を見つめたので、咄嗟に頷いた。

 頷きつつも、何度も遭遇するような存在ではない、と言う言葉が引っ掛かった。すでに何回も遭遇している、とは言えない。

 黙った亜莉香に、アンリが話題を変えようと口を開く。


「今度は私が質問をしてもいいですか?」

「いいですよ。何でしょうか?」

「アリカさんは、和裁士のケイト・ポルトと言う名前を聞いたことがありませんか?」

「ケイト・ポルト?」


 疑問形で返した名前に、アンリは肩を落として言う。


「やっぱり、聞いたことがありませんでしたか。私の探し人で、その人を探して中央市場まで足を伸ばしたのですが…誰もその人の所在を知らないみたいで」

「有名な人ですか?」


 亜莉香の質問に、うーん、とアンリは唸り声を出した。


「一部で有名だった人、と言う噂です。私も会ったことがなくて、その人は女性で、ケイト・ポルトと言う名前だったこと。姿を消してから、どこにいるのか分からないことを、私は母上から聞きました」

「どうしてその人は姿を消したのでしょうか?」

「分かりません。でも、どうしても会わなければいけない理由があるのです」


 亜莉香の方を見ず、何もない空間をアンリはじっと見つめていた。

 真剣で、真面目なアンリに、亜莉香は言う。


「私は聞いたことのなかった名前でしたが、私の知り合いの方に聞いてみましょうか?」

「え?」


 亜莉香の申し出に、アンリはきょとんとした顔をした。

 年相応、訳が分からない、と言わんばかりの表情に微笑む。


「人探しなら、人数が多い方がいいと思いまして。性別と名前だけで、見つけ出す自信はあまりないのですが、それでもよろしいでしょうか?」

「でも、あの…アリカさんには関係のないことで――」

「それでも話を聞きました。今日は助けてもらいました。その恩を返したいです」


 返せる恩から少しずつ、と小さな声で言った言葉は、視線を下げて考え始めたアンリには届いていない。

 小雨になった雨を確認して、亜莉香は顔を上げた。

 話しているうちに、雨雲が少しずつ減っている。空を見上げた亜莉香と同じように、アンリも顔を上げた。亜莉香はふわりと笑って話し出す。


「私、この街に来てから、色んな人に助けてもらいました。助けてもらっているばかりで、申し訳ないとは思うのですが、私が困っていると皆さん手を差し伸べてくれます。最近は私でも出来ることが少しずつ増えてきて…私も誰かを助けられる人になりたい、と思っています」


 だから、と言って亜莉香はアンリを見た。


「アンリちゃんのお手伝いをさせて下さいませんか?」


 駄目ですか、と続ければ、アンリは勢いよく首を横に振った。


「駄目じゃない…です」


 段々と声が小さくなったアンリは、袴をぎゅっと握りしめていた。視線を下げ、小さな肩を震わせる姿は泣き出しそうで、亜莉香は視線を外した。


「私は、この街では有名です。着物で顔を隠していても、分かる人には分かってしまうらしくて、人探しが難航していました。話を聞いてもらおうにも、私が誰だか分かってしまうと、もうその人にはお尋ねできなくて。一人で探していても、何も見つけられないから。今日は諦めて帰ろうと、思っていたのです」

「そうでしたか」


 頷いたアンリが、着物の袖で涙を拭う仕草をした。


「兄にも、諦めろと言われていました。どうせ無理だって。一人で見つけられないに決まっている、と言われても、諦めたくないのです。母上に喜んで欲しいから――」


 一人で必死に頑張ろうとしていたアンリの姿が、亜莉香の昔の姿と重なった。

 どうしても見つけたい人がして、一人で頑張って探した。探しても、探しても見つけられなくて、一人ぼっちで途方に暮れていると、助けてくれた唯一の友達がいた。

 優しく、困っていると手を差し伸べてくれた友達は、もう会えない。

 尊敬していた友達を久しぶりに思い出して、亜莉香は笑みを浮かべて空を見た。


「笑う門には福来る、らしいですよ」

「え?」

「親友の口癖です。彼曰く、笑っていれば何でも何とかなってしまうそうで、その口癖通りに、無理やりでも何とかしていた困った親友でしたが」


 瞼を閉じれば、親友の顔は鮮明に思い出せる。

 幼馴染で、いつでも爽やかな笑顔を浮かべていた。背の高さがコンプレックスで、保育園から高校まで一緒、勉強が嫌いのくせに、頭が悪いわけではない。制服のブレザーの下にはいつもパーカーを着て、校則違反を繰り返しては、先生を困らせて逃げ足が速かった。


 亜莉香にとって、光のような存在。

 手を差し伸べてくれたのは、いつも親友の方だ。立場が変わって、亜莉香は口を開く。


「私も昔、人探しをしたことがありまして。どうして見つけたい人がいて、一人で探しましたが、一人では見つけられませんでした。けどある日、親友が手を差し伸べてくれて、人探しを手伝ってくれたのです」

「探していた人は、見つかりましたか?」


 はい、と亜莉香は肯定した。


「それも、いとも簡単に。私は必死に探したのに、親友はどんな手を使ったのか、数時間で探していた人を見つけてしまって。私は喜びよりも、嫉妬しました」

「嫉妬ですか?」


 亜莉香を見上げたアンリが、驚きながら繰り返した言葉。嫉妬です、と亜莉香は言って、アンリに微笑んだ。


「自分は無力だと諭されて、親友はいかに有能か見せつけられた気がしたので。でも、それは私の勝手な気持ちですよね。親友は善意で助けてくれたのに、私は怒って泣いてしまい、そうしたら親友が言ったのです。笑う門には福来る、と」


 その言葉を、何度も言っていた。

 成長するにつれ、亜莉香が距離を取ったとしても。困っている時、悲しんでいる時は必ずと言っていいほど、その言葉を繰り返していた。


「アンリちゃんを見ていたら、親友のことを思い出しました。余計な話でしたね」

「そんなことはありません。アリカさんのお話を聞けて、嬉しかったです」


 アンリは素直に喜びを表した。ありがとうございます、と亜莉香は小さな声でお礼を言い、雨が上がった空を見上げる。

 曇り空だった空は、雲の切れ間から青い空が見えていた。雨宿りの必要はなく、簡単に見つかるかどうかも分からない。

 また雨が降り出す前に、と亜莉香は静かに立ち上がる。


「さて、どこから人探しを始めましょうか。アンリちゃんは、どこから探す予定でしたか?」

「私は中央市場の方から探す予定でした」

「では、行きましょう。時間が勿体ないですものね」


 大丈夫だと言わんばかりに亜莉香は言い、アンリに手を差し伸べた。

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