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Last Crown  作者: 香山 結月
第3章 雪明かりと蠟梅
299/507

60-6

 ノエ、と呼ぶ声がした。


 一部始終を見ていたシンヤの声は小さかったが、梅には届いた。微笑んで見せた梅が歩き出す。日本刀を鞘に戻したシンヤも、優しい笑みを浮かべて足を踏み出した。


 周りが見ていてもお構いなしで見つめ合い、向かい合ったシンヤは両手を広げて見せる。


 その途端に梅の顔に影が落ち、思いっきりシンヤの向う脛を蹴った。蹲ったシンヤを見下ろし、怖い笑顔を浮かべて言う。


「ねえ、五年間で何人の女を誘惑した?」

「…何の話かな?」

「白を切るのも、いい加減にしなさいよ!こっちはすでに情報を掴んでいるの!たった五年も待てない男だったなんて、本当に信じられない!」

「待て、ノエ!浮気はしてない!」

「この嘘つき!」

「誤解だ!」


 騒ぐ二人の声はよく響き、梅はシンヤの襟元を掴んで揺らした。聞く耳を持たない梅に、逃げられないシンヤの情けない弁解が始まる。


 本気で怒っている梅を見ると、ナギトよりも本命はシンヤに会いに来ることだった気がした。気が抜けてしまう光景を目の当たりにして、亜莉香は話し出す。


「浮気がばれた旦那さんが、奥さんに謝る図のようですね」

「阿保らしい。それより、あれはどこに行った?」


 あれ、と言ったピヴワヌは、レイがいたはずの場所を振り返った。

 ほんの少し目を離しただけで、大量の赤い血を残してレイの姿が消えた。慌てて見渡しても、どこにもいない。サクマを看病するチアキの位置は変わらず、ナギトの傍には誰もいなかった。シンヤと梅の近くにトシヤがいて、困惑して立ち尽くしていた。


 無意識にトシヤを見つめ、目が合った。

 慌てた亜莉香は目を逸らし、直後に霧が立ち込めた。瞬く間にトシヤの姿だけじゃなく、この場にいたはずの人達の姿を隠す。傍にいたピヴワヌ以外が見えなくと、音を立てずに隣に現れたのはヒナだった。

 驚きつつも、亜莉香は冷静さを取り戻して訊ねる。


「この霧は、ヒナさんが?」

「そうよ。ちょっとした睡眠薬を混ぜてあるの。結界の中にいた二人は別として、他は数日眠り続けるはずよ。追いかけられても困るでしょ」


 肩に兎の姿のフルーヴを乗せて言い、感情の読み取れない表情で梅とシンヤがいた方角に視線を向ける。


「長居するつもりはなかった。もう少ししたら、警備隊が駆け付ける。私の出る幕はない。レイを迎え撃つために、一刻も早く体勢を整えに行くわ」

「どこに行くのですか?」


 思わず訊ねた亜莉香に、ヒナは即答する。


「リーヴル家の巫女のいる所」

「え?」

「あれだけの傷をレイが負えば、アンリを狙うより闇の深い場所で力を取り戻すのが先。ここから近くて深い闇のある土地は、リーヴル家の土地よ。あの土地は巫女の力に引かれて、今も闇を引き寄せる。レイが向かうとしたら、あの場所しかないの」


 だから、と一息ついたヒナが亜莉香を見つめた。


「貴女はどうする?」

「私は…」


 問いかけられて、両手を握りしめる。ピヴワヌが亜莉香の様子を伺い、追い打ちをかけるようにヒナは言う。


「レイが居れば、あの地で何かが起こるかもしれない。ここに残ることで、灯から居場所を取り戻す術を見つけるかもしれない」


 可能性ばかりの話に、結論をすぐに出したくなかった。

 それなのに時間はないと、言われなくても分かってしまう。ヒナの眼差しは真剣そのもので、亜莉香の答えを待っている。


「選びなさい。選ぶのは、貴女よ」


 どちらも選べたら良かったのに、それは無理だと突き付けられる。

 リーヴル家と言われて思い出す人たちがいて、出会った優しい人達との思い出が蘇る。アンリが助かれば、叶詠の見た未来が消えれば、灯から居場所を取り戻すつもりだった。灯を死なせずに魔力を取り戻す方法を探して、全てが元通りになればいいと願っていた。


 心の中では、答えは出ている。

 それを口にすれば、望んでいた未来が遠ざかる気がして怖かった。


「どちらを選んでも、儂は責めたりしないぞ」


 不意に優しい声がして、ピヴワヌは亜莉香の手を握る。


「選んだ選択の末に何かが失われるとしても、儂はいる。いなくなったりしない。儂の心は、常にお主と共にある」


 温かな言葉に胸が熱くなり、亜莉香は小さく頷いた。

 心配するフルーヴに微笑んで、自分自身に言い聞かせるように気持ちを口にする。


「私は――ヒナさんと一緒に行きます」

「そう」

「私の居場所を奪われたとしても、それで大切な人達が傷つかないのなら。居場所を奪われたままでも構いません。もし巫女であるイオちゃんやヨルさん達に危険が迫っているなら、助けに行きたい。力になりたい。例え私が居場所を取り戻したとしても、大切だと思う人達がいない未来は絶対に嫌だから」


 嘘偽りのない心に、後悔はない。


 無理やりでも笑みを作れば、ヒナが僅かに悲しんだように見えた。それは目の錯覚とも思えるほど一瞬の出来事で、瞬きをしたら悲しみは消える。

 タイミングを見計らったように、狼はどこからともなく現れた。

 ふわりとヒナの横に舞い降りて、鼻をヒナの身体に寄せる。


「一緒に行くなら、彼に乗って行くことになるわ」


 彼、と呼んだ狼を見下ろして、ヒナは優しく頭を撫でた。


「今から出れば、早朝までには着く」

「私が乗っても、大丈夫ですか?」

「二人ぐらい、どうってことない」


 心なしか物腰の柔らかな言い方をしたヒナに、ピヴワヌは言った。


「アリカだけなら、儂が連れて行ける」

「精霊でも、慣れない姿は力を消耗するはずよ。まだ全てが終わったわけではないのに、無駄な力を使う必要はない」


 珍しく返事をしたヒナに、図星を言われたピヴワヌが黙った。黙りはしても舌を出して、一瞬で姿を兎に変えて、定位置である亜莉香の肩に収まる。

 そのまま黙ったままなのかと思いきや、すぐにフルーヴに話しかけた。


「フルーヴ、お前はトウゴの所に行け」

「なんで?」

「何でもだ。儂らは今すぐに、ここを去る。トウゴに何も言わずに置いていくのは忍びないから、代わりに状況を説明しておけ。分かる範囲で十分だ」


 言おうとしてくれたことを代弁され、亜莉香も言葉を重ねる。


「フルーヴ、お願いします。トウゴさんの傍に居て下さい。私達が帰って来るまでトウゴさんを、皆を守ってくれませんか?」

「分かったの」


 少し不満そうだったが、フルーヴは承諾した。ぴょんと地面に飛び降りると、トウゴの元に向かう前に、亜莉香とピヴワヌを交互に見つめる。


「二人共、すぐにかえって来る?」


 不安の混じった声に、肯定したのは同時だった。

 亜莉香は微笑み、ピヴワヌは早く行けと言わんばかりに手で払った。名残惜しそうなフルーヴが唸り、もう、と頬を膨らませて軽く飛ぶ。


 一瞬で、姿が消えていなくなった。

 亜莉香の勝手な我が儘で、追い払ってしまった。

 きっとトウゴは置いていかれて、後で文句を言うだろう。フルーヴだって一緒に行きたそうだったけど、連れていくのは気が引けた。トウゴもフルーヴも、闇に近づかせたくない。

 落ち込んで寂しくなると、一部始終を見ていたヒナが口を挟む。


「賢明な判断ね」

「そう…でしょうか?」

「ええ。闇が深い土地に、光である精霊を連れて行くべきじゃないわ。そこの神経図太い兎と違って、弱く脆い精霊は簡単に壊れちゃうから」

「その馬鹿にしたような口ぶりは、聞き捨てならん」


 とても不機嫌なピヴワヌを相手にせず、フッと笑みを零したヒナが狼に向き直った。その背に手を添えて、忘れていたと言わんばかりに軽く言う。


「もう一人挨拶していくなら、さっさと済ませて」


 ヒナには何でもお見通しで、不思議に思いながら亜莉香は歩き出した。


 少しずつ霧が晴れてゆき、足は真っ直ぐにトシヤの元に向かう。

 領主の住まいは燃え尽きた。辺りは踏み荒らされ、降り積もる雪は泥や土で汚された。戦いの跡が残った地面に横たわる姿は悪夢を呼び起こし、肩の上にいたピヴワヌに頭を軽く叩かれる。


「眠っているだけで、そのうち目を覚ます。余計なことは考えるな」

「分かっていますよ」


 少し動揺しただけで、以前のように取り乱しはしない。

 傍まで行き、倒れて眠るトシヤを見下ろした。眠っているのは、胸が上下に動いて息をしていることから分かる。普段より幼く見える寝顔を見るのは久しぶりだ。


「お主らの恋路の邪魔などせんから、勝手に言いたいことを言って来い」


 偉そうな声を聞くと安心して、何故だか泣きたくなった。

 ピヴワヌは空気を読んで、少し離れると背中を向けた。耳を塞ぎ、可愛らしい兎の後ろ姿に勇気を貰って、亜莉香はトシヤの傍に膝をつく。

 そっと手を伸ばして、落ち着いた茶色の髪を優しく撫でた。


「トシヤさん」


 名前を呼んでも、起きる気配はない。

 今から何を言っても、トシヤに届かない。亜莉香のことを思い出しはしないと分かっていても、きちんと挨拶をしたかった。

 誰にも聞こえないように、顔を寄せて亜莉香は小さく言う。


「簪を壊して、ごめんなさい」


 ちゃんと顔を見て謝りたかった。


「傍に居るって言ってくれたのに、私から離れてごめんなさい」


 勝手に悪夢と現実を重ねて、遠ざけていた。


「もっと傍に居たかった。色んな話をしたかった。これから先も隣で笑いたかった。もっと一緒に過ごして、名前を呼んで欲しかった」


 段々と早口になって、涙で視界がぼやけた。

 頬を伝った涙が、トシヤの額に落ちる。涙を拭い、唇を結んで鼻から息を吸い、口から深く吐いた。何度か深呼吸をして、でも、と笑いかける。


「トシヤさんと出逢えて、本当に良かったです」


 瞼を閉じれば思い出す幸せな日々があった。


「忘れられたのは悲しかったけど、出会った時から親切にしてくれて。何度も助けてくれて、守ってくれて、ありがとうございました。私にとってトシヤさんと過ごした日々は、光のように眩しくて、トシヤさんがいたからこそ、今の私があります」


 忘れたくても、忘れられない日々に想いを馳せる。


「私は絶対に、トシヤさんのことを忘れません。トシヤさんのことが大好きです。会えなくても、離れても、これから先に何があっても、この気持ちだけは変わりません」


 離れるのは辛いけど、別れの挨拶をしないと前に進めない。

 そっと唇をトシヤの額に寄せた。触れたのは一瞬で、この秘密は誰にも言わない。最後の一言は笑みを浮かべて、トシヤの寝顔を見つめて囁く。






「――さようなら」


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