60-2
糸に触れた瞬間、ナギトの闇を垣間見た。
片想いの相手を守れなかった悲しみ。友人だと思っていた人達に隠し事をされる寂しさ。孤独で、誰かを恨むことでしか自分を保てなくて、ずっと誰にも言えずに苦しんで、一人で抱えていた深い闇。
脳裏に浮かんだのは、暗闇の中で途方に暮れた一人ぼっちの少年の姿。
ナギトの幻が消えると同時に、糸が切れて黒い光が集まった。凝縮された光が弾けて、暴風を引き起こす。吹き飛ばされそうになった亜莉香の身体は、ピヴワヌが受け止めて全身で守ってくれた。
辺りが静まり返って、肩の力を抜いた。
「断ち切れました?」
【よくやった】
たった一言の褒め言葉に、亜莉香は笑みを浮かべた。
握りしめていた小刀を見下ろせば、刃こぼれして使い物にならない状態。役に立たなくても、鞘に戻して胸元に戻す。他の武器も持って来れば良かったと思いつつ、体勢を整えて、宙で切った糸に目を向ける。
闇を払ったわけではないから、糸が完全に消えたわけじゃない。断ち切ったことで二本になった糸は風に揺れ、再び繋がる気配はなく漂う。
ひとまずヒナとナギトの様子が気になり、二人を振り返った。
糸が切れたナギトの身体がふらついた隙に、懐に入り込んだヒナは容赦なく風の魔法をお見舞いする。軽々と宙を飛んだ身体は雪の積もった地面に落ち、痛そうな鈍い音がした。
胸が上下に動いていているから、死んではない。
肩を揺らしていたヒナが扇で自分を仰ぎ、息を整えながら亜莉香に頷いて見せた。気を引き締めて、狂った笑みを浮かべるレイに向き直る。
「前座は終わった。次は貴女の番よ」
「まだ、動けるでしょう?」
ナギトに近づこうとしたレイに向かって、ヒナは扇を振るった。
突風は間を通り抜け、地面を切り裂く。近づくのをやめたレイが、小さくため息を零した。両手を腰に当てると、唇を尖らせてから言う。
「ヒナってば、なんで止めを刺さないの?そんなに生きている人間と戦うのが苦手なの?いつもルグトリスを使って命を奪って、自分の手では殺さないなんて変」
「勝手に言ってなさい」
相手にしないヒナの言葉に、レイは眉を寄せた。
「殺すのが怖い?命を奪うのが嫌?」
「違う」
「じゃあ、今すぐに殺して」
すっと小刀の先を亜莉香に向けて、レイは言う。
「そこの奴も要らない」
「意見が合わないわね。私にとって、彼女は必要なのよ。何より簡単に人を殺すと言うことが、主の意思に反していることにまだ気付かないの?」
貶されたレイの顔が赤くなったが、ヒナは言葉を重ねる。
「貴女は自分勝手よ。理由もなく命を奪い、主の言うことも聞かない。私はいつだって、主の意思を尊重して行動していた。私が自らの手を下す相手は、その価値があると判断した相手だけ。貴女に私を理解することなど出来ないし、理解して欲しいとも思わない」
でもね、と一呼吸を置いた声が低くなる。
「私のことも、殺したいなら殺して見なさいよ」
投げやりに言い放ち、怒りの混ざった声に変わった。
「今の私を殺したら、主は決して貴女を許さない。少なくとも貴女より、今の私には価値がある。それすら忘れたとは言わせない」
ぞっとした冷たさを感じて、亜莉香は両腕を抱きしめた。
無理やり笑みを作ってみせたレイよりも、表情の消えたヒナが恐ろしい。操られて闇を纏っていたトウゴとは比べものにならないくらい、深い闇を感じた。
ピヴワヌに背中を押されて、上がっていた肩を下ろして息を吐く。
下を向いたレイが肩を揺らして笑い出し、不気味な声が響いた。
「あはは、そっか。そうだよね。殺しちゃ駄目なら、私の目の前から消しちゃえばいい。今度は私が――二十年前と同じことをしてあげる」
虚ろな瞳がヒナを映して、小刀を自らの首筋に当てた。
そのまま勢いよく引いて、血飛沫が上がる。レイの着物が赤く染まって、白い雪の色も染めた。何とも幸せそうな表情を浮かべて、言葉を紡ぐ。
「【――時の狭間の扉に問う】」
地面に黒い光が走って、ヒナが描いた円に当たった。
闇の力が加わり、一回り大きな円へと変わる。それは一瞬にして範囲を広げた。レイ一人ではなく、亜莉香やヒナ、動けずにいたナギトも巻き込む。咄嗟に小さくなったピヴワヌは亜莉香の肩に飛び乗って、辺りを見渡して叫んだ。
「急いで打ち消せ!巻き込まれるぞ!」
「そんなこと言われても――」
「【時が満ちた汝の役目を問う】」
咳き込んだレイの言葉は止まらず、足を動かそうとすれば動かなかった。
何かに掴まれた足を見下ろせば、地面から這い出た黒い手が、亜莉香の足を掴んでいる。小さな悲鳴を上げると同時にピグワヌが焔をぶつけても、黒い手の力が強くなって奥歯を噛みしめた。
あまりの痛さに涙が滲み、ヒナに目を向ける。
同じく捕まっているヒナは片足だけだったが、動けないナギトに至っては、倒れているので着物や腕まで掴まれていた。動く気力もないナギトを助けに行きたいのに、自分のことすら手に負えない。
魔法を発動しようとするレイの足は動かず、逃げる素振りがなかった。
「【闇を宿して落ちるは誰か。心を壊して消えるは誰か】」
「アリカ!何か唱えろ!」
「出来るならやっています!」
身体が僅かに地面に沈み、恐怖で心が押し潰されそうになった。
レイの心の一部と偽りの身体を封印するために描いた魔法が、勝手に使われる。魔法を打ち消したいのに言葉は思い浮かばず、必死に頭を回転させ現状打破を考える。
「【今こそ正しき裁きの時、我らの道を示す時!】」
高らかな声が響き、魔法が発動してしまう。
やめて、と叫ぶ声が、喉まで出かかった。
ピヴワヌが飛び出す前に、春によく目にする葉の色の髪が亜莉香の横を通り過ぎた。地面を蹴ってレイに近づき、迷うことなく首を斬る。
声が、止まった。
地面の黒い光は弱まった。斬られた首が地面に転がり、身体は小刀を持ったまま動かない。
「…シンヤ様、これで本当に良かったのですか?」
振り返ったサクマの足は、地面に触れていなかった。




