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Last Crown  作者: 香山 結月
第3章 雪明かりと蠟梅
294/507

60-1

 夜が近づいて、夕焼けの空が終わる。

 段々と濃紺を帯びていく夜空に、うっすらと星が輝き始めた。それはとても小さな光で、目を凝らさなくては見えない光。星同様に月も空に浮かび上がり、人の姿が見えなくなる暗さまで、もう少し時間がかかる。


 描いた円の外に出て、ヒナの隣に並んだ。

 深呼吸を繰り返して、胸元の小刀を取り出す。鞘から抜けば、銀の刃に自分の顔が映った。鞘は左手、右手は小刀の柄を強く握りしめて、ひとまずは肩の力と一緒に下ろす。


 トシヤやシンヤ達のいる方角から目を背け、緊張した面立ちで軽く唇を結んだ。

 油断しないように意識すればするほど、心臓が五月蠅くなる。


 どこからともなく現れた少女は、燃え盛る建物を背景に妖しく笑った。

 いつだって血の匂いを纏って、表情も髪も着物も、数日前に会った姿と変わらない。近寄りがたくて、精霊達を遠ざける。着物の半分は赤く染まり、小さな両手は血まみれだ。右手には血が滴らせる小枝を持ち、闇を宿す黄色の瞳に亜莉香を映す。


「やっと見つけた」


 囁くように呟いたレイに、傍に居るピヴワヌの毛は逆立ち、頭の上に移動していたフルーヴが震えた。感情の読み取れないヒナを見て、うふふ、と零したレイが言う。


「楽しいことをしているなら、もっと早く来れば良かった」

「随分と遅かったものね」

「だって、途中で私を捕まえようとする奴らがいたの。ちょっと遊んであげたけど…もう死んじゃったかな」


 可愛らしく首を傾げて、後半は独り言のように言った。

 血濡れた小枝を持ったまま、両手を後ろに回して遠くを見つめる。

 レイの視線の先は、亜莉香達が許可証を見せた門のある方角。数時間前に門で出会った人達の顔を思い出せば、恐怖を覚えて痛いくらい手を握った。


 門を守っていた人達の、名前は知らない。

 何度か挨拶を交わした程度で、喋ったのは数回だけ。ばらばらの年齢で、ナギトやサクマと同じ警備隊の格好をしていた。許可証を見せた時は怪しまれて、簡単に殺される人達とは思えないのに、鮮やかな赤い血が地面に滴り現実を突きつける。


 安否を確かめに行きたくても、レイを放置する選択肢を選べない。

 近くにいた精霊が目の前を通し過ぎ、ここにいて、と声をかけられた。亜莉香が小さく頷くと、一部の精霊が場を離れて、レイを遠ざけて門の方に消えた。

 もう助けられないかもしれない。

 間に合わないかもしれなくても、亜莉香はフルーヴの名前を小さく呼んだ。


「フルーヴも行って」

「でも――」

【行って来い。アリカの傍には儂がいる】


 ピヴワヌにも言われたフルーヴは、少し考えてから亜莉香の頭から下りた。小さな兎が亜莉香を見上げて、迷っている青い河の瞳と視線が絡む。

 ほんの一瞬だけ、意思が繋がった。

 何も言わずにフルーヴが宙で跳ねて、その姿が消える。


 温かなピヴワヌに肌を寄せて、亜莉香は成り行きを見守った。ヒナが一歩前に出て、亜莉香を守るように立ち、素っ気なく話しかける。


「また、殺したのね」

「主様に怒られるから、ちゃんと生かすつもりだったもん。相手が先に手を出したから、やり返しただけ。私が先じゃない」

「そう」

「それに、ちゃんと中に入れて下さいって、お願いもしたよ?それなのに話を聞かなくて、私を捕まえようとしたの。人が集まって来たから、途中で闇に逃げたけどね。そのせいで遠回りになって、来るのが遅くなっちゃった」


 あーあ、とため息をついて、レイが地面に積もった雪を蹴った。

 罪悪感の欠片もない。自分は正しいことをしたのだと信じて、これっぽっちも疑わない。視線と口角を上げると、指差すように小枝をヒナに向けた。


「まあ、何でもいいや。今日はヒナを逃がさないからね」

「いつも逃げてはいないけど」


 面倒くさそうに言ったヒナは、扇を片手に腕を組んだ。


「貴女こそ私を追いかけている暇があったら、早く本来の役目を果たしたら?こんな所で油を売るより、よっぽど重要じゃない?」

「本来の役目?」


 きょとんとした顔は、一部始終に耳を傾けていた亜莉香同様に何も分かっていなかった。話の通じない相手に、ヒナは瞳を伏せてから、さりげなく話題を変える。


「忘れたのなら何も言わないわ。逃がさないと言って、何をするつもり?」

「何をして欲しい?」


 無言を返せば、レイがにやにやと笑う。小枝をくるくると回して、愉快に話し出す。


「楽しいことに混ぜて貰おうかな、と思っているの。悪意も殺意も満ちていて、素敵な場所だもの。いっぱい遊んで、その後にヒナの扇を頂戴」

「渡すはずがないでしょう」

「なら奪うだけ」


 場違いな甲高い笑い声は耳障りで、亜莉香は耳を塞ぎたくなった。

 瞳の隅で闇が深まり、どうしても気になって闇を感じた方へ視線を向ける。


 そこはレイがいる場所より右側の、トシヤやシンヤ達がいる場所。

 ヒナを狙っていたナギトの相手は、引き続き魔法の雪だるま。段々と自棄になるナギトに対して、二体の雪だるまは敵意を出しても攻撃を仕掛けはしない。受け流して、時に攻撃を受け止める。トシヤやシンヤ達が何も出来ないまま、いつの間にか現れた可愛らしい顔の雪だるまは両手を広げて、見張りながら足止めをしていた。

 感じた闇の気配が失われ、異変を見つけられない。


 よく見ようとすれば、遠くにいるトシヤと目が合った。

 日本刀を鞘から抜き、シンヤの傍で困惑しつつも、雪だるまの些細な動向を探る。サクマとチアキはシンヤを守ることに決めたようで、お互い武器を構えて守るべき主の傍に居た。


 ずっと見つめているわけにはいかない。

 名残惜しくもレイを見据えた亜莉香に、ヒナは背中越しに言う。


「これからが本番よ」

「分かっています」


 無駄な会話は必要ない。

 先に動くのは誰か。

 ゆっくりとヒナが扇を構えて見せれば、レイは無造作に手にしていた小枝を放り投げた。宙を舞った小枝が、亜莉香とヒナの前に落ちる。真っ白な雪に、誰かの返り血が染み込んだ赤は目立って、レイは胸元から小刀を取り出した。


 雷を纏った小刀を右手で掲げれば、背後の影が揺れる。

 ゆらゆらと、いくつもの影が揺れて起き上がる。真っ黒なルグトリスを従えて、レイは動かず、そのうちの数人が一気に距離を詰めた。


 迫った三人に対して、ヒナは扇を広げて迎え撃った。

右手で勢いよく扇を振るい、圧倒的な風が放たれた。その風はルグトリスの身体を軽々と吹き飛ばし、レイの横を通り過ぎて建物に激突させる。

 ピヴワヌが手を出す暇はなかった。

 平然として姿勢を正して、緑色に変えた扇を白に戻す。


「これくらいで、私がやられるわけがないじゃない」

「知っているよ。どれだけルグトリスを仕掛けたところで、私達の間で意味はない。でも、ヒナの弱点は別にあるでしょう?」


 含みのある言い方に、亜莉香は眉をひそめた。

 その真意を見極める前に、近くで派手な音がした。

 瞬く間に一人の影がヒナに襲いかかり、不意を突かれたヒナが咄嗟に扇で頭を守る。右手だけでは耐え切れずに両手で受け止め、襲いかかった人物を認識したのは亜莉香やピヴワヌと同時だ。

 どうして、と身構えた亜莉香の声が零れた。


「ナギトさん?」


 名前を言葉にしても、呼ばれは本人の反応はなかった。

 ヒナを殺そうとしているのは、先程まで魔法の雪だるま苦戦していたナギトだ。人が変わったように闇を纏い、瞳に闇を宿した。表情を失くして、力任せに日本刀を振り下ろす。


「ナギ――」

「話しかけても無駄!」


 叱るようにヒナが叫び、足に力を込めて日本刀を薙ぎ払った。

 距離を置き、レイの前に立ち塞がったナギトが剣先をヒナに向ける。


 ヒナとナギトの立ち位置は、叶詠が見せた未来と似ていた。

 辺りの降り積もった雪は土や泥で汚れて、その下の草木は踏み潰された。燃え盛る建物が崩れ、火の粉が舞う。お互いに叫び合ってはない。まだ誰も怪我を負ってはいない。それでも武器を片手に向かい合う二つの影が目の前の光景で、サクマとチアキがいた場所に亜莉香とピヴワヌがいる。


 叶詠が見せてくれた未来に重なって、亜莉香の身体が微かに震えた。

 大切な人達を守りたいと思っていたとしても、その代わりに別の誰かが傷つく未来は望んでない。このままでは駄目だと、ヒナを引き止めようと呼びかける。


「ヒナさん、駄目です。このまま戦えば、きっと誰かが傷つく。それは――」

「それでいいじゃない」


 段々と小さくなった声を遮って、はっきりと言われた。

 淡く深紅の光を放った扇を構えて、ヒナの瞳に闘志が宿る。


「いい機会だから教えてあげる。先読みの見た未来回避の最善策は、訪れる未来に沿って、ほんの少しの変化を起こすこと――」


 喋っている途中でナギトが動き出し、踏み出したヒナは日本刀を受け止めた。

 確実に扇に食い込ませて、日本刀の動きを封じた。


「誰もが傷つかない道なんてない。味方同士で戦う見苦しい未来が消えたなら、後は最善を探しなさい。私が手加減をしているうちにね」


 時間が惜しいと言わんばかりに早口で言い、ヒナが足で雪を蹴り上げた。ナギトの視界を遮り、手首を回して剣先を変える。片手を放したナギトの拳を紙一重で避け、舌打ちしながら身を翻して片手をついた。


 氷よ、とヒナは呟く。

 幾つもの鋭い氷柱が地面から現れ、その一つがナギトの肩を掠めた。

 ナギトは小さな怪我を物ともしない。両手で日本刀を持ち直して、真横一直線に払えば氷柱が砕けて欠片が舞った。


 二人の戦いに、亜莉香は割り込めない。

 最善とは何か。どれだけ考えても、思い浮かばない。急に人が変わったナギトの原因すら分からなくて、悔しくて見ていることしか出来ない。

 周りの注意を怠れば、真後ろからルグトリスが迫った。

 気付いた時には頭上に包丁が迫り、瞬きした瞬間に、視界から消える。


「…あれ?」

【ボケっとするな】


 優しく注意したピヴワヌは亜莉香の横に立ち、大きな欠伸をした。安堵した亜莉香を包み込み、近づこうとするルグトリスを威嚇する。


【雑魚を相手にする必要はない。目の前の戦いを止めたいなら、糸を探せ】

「糸ですか?」

【目の前の男を操っている糸だ。小娘が囮になっている間に糸を断ち切れば、戦況を変えられる。心に宿している闇を払わない限り、糸を断ち切っても簡単に操られるが】


 それでも、と言いながら、ピグワヌは二人を見て目を凝らした。

 操られている糸と聞いて、急いで亜莉香は視線を巡らせる。


 ぐるりと見渡しても、糸はない。

 焦りが表情に現れると、不意に視界が暗くなった。ふわふわの毛並みが瞳を押さえて、優しい声が降り注ぐ。


【落ち着け】

「でも――」

【焦るな。操られているだけで、小娘は手加減をして戦っている。誰かの光が心に届きさえすれば、すぐに闇は払える。大丈夫だ】


 大丈夫と繰り返すと、そっと毛並みが離れた。

 視界は明るくなって、亜莉香はゆっくりと瞼を開く。


「ピヴワヌ、ありがとうございます」

【礼は要らん。まずは糸を見つけるぞ。おそらくは深く、暗い、闇の糸だ】


 有難い助言を心に置き、落ち着いて辺りを見渡した。

 深く、暗い、闇の色。


 近くで建物が燃え尽きようとして明るくても、辺りは薄暗くなり見つけにくい。様々な影に紛れた糸なら見つけるのは困難で、全ての音も匂いも無視して、頭を真っ白にして光景を見つめる。


 ナギトはヒナを殺そうとして、レイはそれを見て楽しそうに笑う。

 トシヤやシンヤ達の相手は、ルグトリスに変わっていた。残っていた一体の雪だるまが最前で戦う。ルグトリスは絶えず隙を伺い、亜莉香も狙われれば、近付く前にピグワヌが魔法を放った。いざとなれば戦うつもりで小刀を握りしめて、ふっと息を吐く。


 ルグトリスに襲われる心配はしない。

 探すべき糸は、たった一つ。


 集中して糸を探して、深い闇にばかりに目を向けた。違う、頭の中で誰かが言い、月を見上げると声がよく聞こえた。


 誰かじゃない。亜莉香に似ている灯の声だけど、記憶を奪った灯とは雰囲気の違う優しい声。以前も聞いたことがある。まるで背後にいるような錯覚を覚えて、身体が動かなくなって耳を澄ませる。


『光の近くを探して』


 光、と小さく繰り返した。


『闇と光は裏表。光ある場所に闇は生まれ、闇あるからこそ光は眩い』


 すっと遠のき、声は消えた。

 心に残った道標に従い、今度は光を探してみる。夜空に輝く星や月、色とりどりの精霊。燃える建物の火の粉、雪で反射した光。


 ナギトと戦っているヒナの真っ白な髪も、光に見えた。

 ヒナだけじゃない。精霊であるピヴワヌは勿論、トシヤもシンヤも、サクマやチアキも魔法の雪だるま達も光。夜になっても光は溢れて、どんな戦いが起ころうと、この場は荒らされようと明るく美しい。


 穏やかな気持ちで探せば、シンヤの袖で光る何かを見つけた。

 その何かは袖の中に隠されて見えないが、瞬きをすれば、一筋の糸が真っ直ぐにナギトの心臓へ繋がって見える。蜘蛛の糸のように細く、動く精霊の光を反射する糸は、途切れ途切れにしか見えない。


 ナギトとシンヤの間に、探していた糸がある。

 シンヤの影を辿れば、幾つもの交わった影の先にレイがいた。

 相手にされなくても、戦っているナギトに近づくのは危険だ。誰もいない中間地点を見極めれば、変わらずに存在している小さな建物が近い。


 向かうべき場所を決めると同時に駆け出して、迫ったルグトリスの間を無我夢中で抜けた。敵は横を駆けるピヴワヌによって排除され、進むべき道に障害はない。


 瞬く間に糸に迫った亜莉香は、手にしていた小刀を力いっぱい振り下ろした。

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