59-3 Side由志有
誰もいないはずの家の中で、物が落ちる音がした。
聞き間違いかと、玄関で立ち止まったユシアは耳を澄ませる。重たい本が本棚から落ちたような、勢いよく散らばる音もして、夕食の材料を抱えたまま立ち尽くす。
「ユシア?」
隣にいたキサギに名前を呼ばれて、我に返った。
「どうかした?」
靴を脱ごうとしない顔を覗き込まれて、思いっきり首を横に振る。
キサギには聞こえなかったのか。また、何かが落ちる音がした。規則的ではなくて、何かを引きずる音は、重たい棚を引きずる音に似ている。
不思議なことに、怖くはない。それ以上に気になるのが、音の出処だった。
「キサギには…何も聞こえていないの?」
「うん?」
顔を見ずに問いかけると、何の話か通じなかった。説明する気持ちは浮かばず靴を脱ぎ、玄関に荷物を置いて、ふらりと音のした方に踏み出す。
茶の間でも、台所でもない。
階段やルイやルカの部屋を越えて、一階の奥。
見えない力に引き寄せられるように辿り着いたのは、一度も中に入ったことのない書庫だった。そもそも、部屋の中は本当に書庫なのか。子供の頃から書庫と言われ続けてきたが、確認したことはない。
小さい頃に開けようと何度も試みたが開かず、早々に諦めてしまった。一緒に住んでいる誰も開けたことがない書庫の扉は重々しく、様々な花が彫ってある装飾は美しい。
金古美の持ち手に、そっと手を伸ばした。
幼い頃は回すことすら出来なかったのに、ゆっくりと回る。
止まった瞬間、カチャ、と鍵が置く音がした。部屋の中から、聞こえていた音は続く。前に押せば扉が開き、同時に部屋の中に明かりが灯った。
部屋の中は、書庫と言うより書斎だ。
壁を埋め尽くす本棚があり、入りきらない本が無造作に詰め込まれている。縦ではなく横向きで本棚の隙間に置かれた本もあれば、部屋の中心の小さな丸椅子に積み重なった辞書のような本もある。
古い本の匂いは独特だけど、嫌いじゃない。
書斎を眺めて足を止め、匂いを嗅いで深呼吸を繰り返す。ユシアと同じように玄関に荷物を置いてきたキサギは、後ろから顔を覗かせて部屋を見渡した。
「この部屋、初めて入った」
「私も」
「そうなの?」
小さく頷けば、今度は書斎の下からはっきりと音が聞こえた。
ついでに人の声もして、聞き慣れた声が混じっていることに気付く。床下からの音や声はキサギにも聞こえたようだ。顔を合わせると部屋に足を踏み入れて、敷いてあったカーペットの上を進んだ。
中心にあった丸椅子の下から、聞こえる。
キサギが本を退かそうとしたので、ユシアも手伝って床に置き直した。
数冊の本は全て重い。表紙には何も書いてない本ばかりで、とても分厚くて古い本ばかり。全て退かしてから丸椅子も動かすと、ふわふわで柔らかい深紅のカーペットの中に、小さく光る何かを見つけた。
腰を下ろして、ユシアはその何かを拾う。
見たことのない、とても綺麗な金の鍵。
手のひらの中に収まる、古びた鍵は見た目よりも重い。ずっしりとした重みがあって、錆びているように見える。無駄な飾りのない鍵を着物の裾で擦れば錆は消えて、美しい金色が部屋の明かりを反射した。
鍵に目を奪われる前に、キサギに肩を叩かれる。慌てて鍵を握りしめて、丸椅子をどかした。カーペットに耳を近づけると、聞き間違えることのない声が聞こえた。
「あれ?結構、固いや」
「トウゴ?」
「ユシア?」
床越しに名前を呼び合った。
意外な人物の名前を呼んで、ユシアの心に、勝手に家を出て行った家族に対しての怒りが芽生えた。何故床の下から声がするのかなんて、どうでもいい。捕まえて怒鳴りたくて、拳を握りしめれば、呑気なトウゴが話しかける。
「おい、ユシア。多分お前がいると重くて扉が動かせない。ちょっと動いてくれない?」
「なんですって!」
ムカついたが、キサギに宥められて場所を空けた。
壁際に寄ると、丸椅子が置いてあった床の一部が抜けた。消えた床の隙間から、安堵を浮かべたトウゴが顔を出す。
「やっと、外に出られた」
「大丈夫ですか?」
「大丈夫、大丈夫。精霊達の案内に従って、ちょっと蜘蛛の巣に引っかかって、面倒な魔法を打ち消して、迷路のような道を抜け出しただけだから」
あはは、と言ったトウゴの顔がうまく笑えてない。
急に現れて部屋の中に入ろうとするトウゴを見て、キサギは驚きつつも手を貸しに行く。怒りは消えていないがユシアも傍に行き、胡坐をかいたトウゴを見下ろした。
何か、いつもと違う気がする。
トウゴの着物が黒じゃなくて、袴も履いている。格好だけじゃない。いつもより張り詰めた空気を醸し出して、部屋を見渡すと、目の前の何もない空間を見つめた。
何かを呟いた後、隣に膝をついていたキサギにお礼を言う。
頬を膨らませて睨み続ければ、トウゴが顔を上げた。へらへらと笑うトウゴと目が合い、その顔は昔から変わらないことに気付く。どれだけ怒鳴りつけても、へこたれなくて笑うのだ。ユシアの機嫌を直そうと馬鹿なことをして、酷い時はトシヤを巻き込んで、怒られて物をぶつけられても笑う。
非常識な現れ方をしても笑うトウゴに、ユシアは声を低くして問う。
「それで、今までどこにいたの?」
「いやー、色々な所?それより、ここってどこ?ユシアの父親の家?」
質問を返されて、口角を引きつらせた。ユシアの聞きたかったことは、何も教えてくれない。怒鳴りつけようかと思ったが、その前にキサギが口を挟んだ。
「ここは、皆さんの家ですよ?」
「そうなの?俺、この部屋なんて知らないけど?」
「一階の奥の、えっと…――」
「鍵の掛かっていた書庫よ」
何とか怒りを鎮めて、行き詰ったキサギに変わってユシアが言った。
ずっと怒っているのは馬鹿らしい。今は話を聞くのが先だ。書庫ではなく書斎の方が正しい気もしたが、ヤタはいつも書庫と呼んでいた。書庫、と首を傾げて繰り返したトウゴは、部屋を見渡して納得したような顔になる。
「唯一入れなかった、あの部屋か。ここは書斎の方がしっくりするな。繋がっている下の部屋の方が、ヤタさんの言っていた書庫っぽい」
「下にも部屋があるのですか?」
「あるよ。ここより広い部屋で、俺はその奥の通路から辿り着いたわけ。永遠と歩かされるかと思ったけど、案外早く着いたな」
「どこから歩いて来たのよ」
ぼそっと言って、ユシアは近くにある丸椅子を引き寄せた。トウゴは床に座っているし、キサギはその傍で片膝をついたままだ。床に座るのは嫌で腰を下ろすと、ユシアが座るのを待ってから、両手を後ろに置いて背中を伸ばしたトウゴは話し出した。
「あのさ、俺がどこで、何をしていたかは詳しく言えない。それは許して欲しい」
「まだ許さない」
「そのうち、許してくれよ。それより先に言わないといけないことがあって、俺、さっきまでは領主の家にいた」
「「え?」」
驚いたユシアとキサギの声は同時で、トウゴは気にせず話を続ける。
「領主の家から隠し通路を通って、俺はアンリ様と一緒に下の書庫に辿り着いた。領主の娘であるアンリ様、分かるよな?それと、お付きが三人一緒だ。この家を見に来たから、一晩泊めさせて欲しい。無理なことを言っているのは分かるけど、今夜だけは領主の家に帰すわけにはいかなくて、適当に話を合わせて協力してくれると助かる」
「急に…何を言っているの?」
「アンリ様には、俺が案内するまで下の書庫で待つように言ってある。トシヤとユシアが許可してくれるなら、下に戻って、ここまで連れて来るから」
「ちょっと待って!急に、そんなこと言われても」
頭が混乱して早口で言えば、トウゴは姿勢を正した。深々と頭を下げる姿に言葉を失う。
「頼む」
「でも――」
「今夜だけでいい。今夜泊めさせてくれたら、明日の朝には今までのことを説明する。俺だって、いつまでも家に帰れないのは辛い。ちゃんと話したい」
だから頼む、と言った。
頼まれたのはユシアで、キサギが様子を伺っている。どうすればいいのか、全く分からない。どんな理由があって、領主の娘であるアンリを連れて来たのか。どこで知り合ったのか。どうしてそんな話になったのか。
聞きたいことは山のようにあるのに、質問はしなかった。
息をゆっくりと吸って、深く吐いて言う。
「私だけで、決めていい話じゃないと思うの」
「…うん」
「けど、トシヤがいたら断りはしないと思う。知り合いだし、トウゴがそこまで必死になるのに、駄目だとは言わないと思うわ」
「そうだな」
お互いにトシヤのことは分かっているから、トウゴにもユシアの気持ちは伝わったはずだ。顔を上げたトウゴは微笑んで、肩の力を抜いた。
「ありがとう。トシヤには、俺からちゃんと話をするから」
「そうして、私は説明出来ないもの」
「だよな。悪いけどキサギ、夕飯を頼めないかな?適当でいいから」
「適当、ですか?」
無理なお願いに、キサギが困った顔をした。適当と言われても、夕食を出す相手は領主の娘。適当な物は出せない、と考えているキサギの心情は手に取るように分かる。
トウゴだけは全く理解していなくて、立ち上がりながら言った。
「キサギの得意料理でいいよ。食材を買いに行く必要があるなら手伝う。その前にトシヤに話がしたいけど、茶の間にいる?もう帰って来ているよな?」
「えっと…その」
当たり前のように尋ねられて、ユシアは何となく腰を上げた。
「あのね、ちょっと言いにくいのだけど」
ユシアが話し出せば、キサギも立ち上がった。全員が立ち上がった中で、両手を握りしめて、言いづらいと思いながら話し出す。
「私とトシヤは、今日もトウゴやピグワヌ様を探していたの。こんな風にトウゴが帰って来るなんて、全然想像してなくて」
「うん?」
「それで、そのね」
一文字一句を丁寧に。何も知らないトウゴに、はっきりと伝わるように続ける。
「今日の昼間、私達も領主の家に足を運んでいたの」
「へ?」
「トシヤが警備隊に捜索を頼もうと言い出して、シンヤ様に会いに行って。話が済んで私は先に帰ったけど、トシヤは今も警備隊の訓練に混ざっているはず。夕飯までには戻ると言っていたけど」
段々と小さくなって、首を傾げた。
「トシヤに会ってない?行き違い、になったのかな?」
瞬きを繰り返す間抜けな顔に問いかけると、口が開いては閉じた。
暫くトウゴは何も言わなくて、呆然としたまま言う。
「それじゃあ、トシヤは?」
「まだ帰って来てないの」
「まだ?」
「まだ」
「まだ帰ってない、と」
信じきれない言葉を繰り返したトウゴの表情が、現状を認めたくないと物語る。
どうしようかなー、と瞼を閉じて、空を仰ぐように上を向いた。
「巻き込まれても、俺のせいじゃないけど。今から連れ戻しに行っても遅いだろうな。余計なことして、ピヴワヌ様に蹴られなきゃいいけど」
聞こえた呟きの意味を知らず、ユシアもキサギも首を傾げた。




