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Last Crown  作者: 香山 結月
序章 薄明かりと少女
29/507

06-4

 ユシアが怒り狂った一件から、三日後。

 ルカとルイの話していた内容は、始終頭の片隅にあった。詳しく聞きたかったが、亜莉香に話すつもりなら、きっと夜遅くに二人で話さないだろうし、直接話してくれるはずだ。


 翌日には、亜莉香さんの魔力はなさそうだね、とルイに言われた。

 それを言われたら、それ以上聞けない。


 天気は晴天で、雲一つない澄んだ青空。朝からパン屋の手伝いをしていた亜莉香は、客がいなくなったタイミングを見計らって、空高くにある太陽を見上げる。


「あっという間」


 近くに誰もいなかったので、小さな声で呟いた。

 考え事の答えは出なくても、時間は過ぎる。

 いつの間にか、朝には並んでいた沢山のパンが残り少ない。亜莉香が手伝っていたのは、並んでいるパンを袋に入れて客に手渡すだけの簡単な作業。頼まれたのは昨日で、簡単だから、と言われて、パン屋に着くなり流されるままに手伝って数時間が経過した。

 パンがなくなれば、手伝いは終わる。

 今朝は朝ご飯の片付けだけをして家を出たので、掃除はしていない。手伝いが終わったら買い物をして、家に帰ってから掃除と夕飯を作らないといけない。

 そろそろ、ルカとルイの話を考えるは止めよう。決意すると、露店の後ろの店の扉が開いた。


「お疲れ様、アリカちゃん。急に悪かった」

「いえ、大丈夫です」


 パン屋を営む男性、ワタルの言葉に亜莉香は微笑んで答えた。

 少しずつ片付けを始めていたワタルの後ろから、ひょっこり顔を覗かせたのは小柄な女性。何度か顔を見合わせたことのある女性に、亜莉香は軽く頭を下げる。


「こんにちは、モモエさん。お世話になっています」

「急にごめんなさいね。手伝ってもらって。あとは片付けだから、これから一緒にお昼を食べない?ご馳走するわ」


 亜莉香の傍にやって来た女性はワタルの妻で妊娠中のモモエ。熊のようなワタルと並ぶと小さくて、腰まで伸びた明るい橙色の髪に木製のシンプルな簪を挿している。

 出産予定まであと一か月で、モモエは大きなお腹を支えていた。

 魅力的な申し出だと思いながらも、亜莉香は首を振って答える。


「いえ、家の掃除と買い物があるので。お昼をご馳走になるわけには」

「いいじゃない。ついでに、夕飯のおかずを一品でも作ってくれたら嬉しいな」

「うちの奥さんは料理が下手だもんなー」


 露店の片付けをしながら、自然と口から零れたワタルの言葉に、モモエの表情が凍った。

 余計な一言、にワタルは気付いていない。亜莉香はこの後の光景が予想出来て、そっとモモエから離れた。モモエはワタルの真後ろまでゆっくりと歩き、その背中に手を伸ばす。

 そっと触れた手に気が付いて、ワタルが後ろを振り返る。

 目が合ったモモエは口角を揚げ、笑顔を作りながらも冷ややかな視線を向けて言う。


「それなら、一生パンでも食えや」


 小さい声ながら棘のある言葉。

 ワタルの顔は一瞬で、しまった、と言わんばかりの顔になる。慌てて弁解するよりも早く、モモエはワタルの胸倉を掴み、下から睨みつけた。


「こちとら頑張って飯を作っているんだよ。まずい飯が食いたくないなら、いつもの軽口で他の女に飯作って貰えや。止めねーよ」

「おいおい、そんなに怒るなよ。俺は事実を言っただけで――」

「事実でも、言わなくてことはあるんだよ。人が気にしていることを、毎度毎度口にして、その口縫い付けられたいか!!」


 段々と口が悪くなっていくモモエの声が、パンを売るはずの店先で響いた。

 トシヤと一緒にパン屋を訪れた時に何度か目にしている夫婦喧嘩に、亜莉香が口を出す暇はない。一歩的にモモエの罵倒が酷くなっていき、途中からワタルまで怒って繰り広げられる夫婦喧嘩。

 トシヤがいれば止められるかもしれないが、亜莉香には無理だ。

 邪魔にならないように、露店の隅に移動する。ワタルが途中まで重ねていた空の籠に手を伸ばし、片付けを始めた。午前中には入れ替わりパンを買いに来る客の対応で忙しかったが、残りも少ないとやって来る客はほぼいない。ワタルとモモエが露店にいるので、籠を店の中に運び込む。


 亜莉香が一人で出来る限りの手伝いをしている間に、夫婦喧嘩が終わることはなかった。






 パン屋の片付けを終えると、亜莉香は逃げるようにその場を後にした。

 お昼に誘われ、夕飯のおかずを作って欲しい、とまで言われていたが、夫婦喧嘩の結果、夕飯は二人で食べに行くことになったようだ。子供が生まれるまでは手伝いに来る、と約束を交わし、買い物をする前に急いで別の店に向かう。


 向かった先は以前ユシアとトシヤと共に訪れた、ガラス張りの古い老舗の建物。

 店の前まで迷わず進み、ガラス戸の中を覗き込む。

 お昼が過ぎた時刻で、店の中は相変わらず色鮮やかな着物が並んでいる。華やかな女性客の相手をしている店員は忙しそうで、唯一客の相手をしていないのは入口の近くの窓際、畳の上に座って店の中を見渡していた、店主のケイだけだ。

 ケイは穏やかな瞳で、客と店員を眺めていた。

 目の前の机の上にある帳簿に目を戻そうとして、店に入ってもいいか、迷っていた亜莉香の視線に気が付いた。


 目が合って微笑んだケイは、右手を軽く動かして亜莉香を呼ぶ。

 人違いではないか周りを見渡して、亜莉香はケイの方をもう一度見た。

 かけていた小さめの眼鏡を外し、早く、とケイが口を動かした。おそるおそる引き戸を開け、亜莉香は店の中に足を踏み入れる。


「こんにちは、今は忙しくないですか?」

「いらっしゃい、大丈夫だよ。今日はどうしたんだい?」

「ちょっと、お聞きしたいことが…」


 ガラス戸を閉めると、座るように促された。履いていた靴を脱いで、地面より少し高い畳のスペースの、ケイの目の前に座った。

 二度目の訪問。

 それも一人でやって来るのには勇気が必要で、緊張で肩が強張る。

 ケイは亜莉香を見て笑みを浮かべ、店員の一人を呼んだ。小さな声で何か言い、店員の一人がいなくなってから、それで、と話し出す。


「何を聞きたいんだい?」

「はい…その、着物のことに関してお尋ねしたくて。着物が欲しいのですが、おいくらなのか。正直すぐには買えなくて、値段を聞くことしか出来ないのですが。それでも聞いておかないと、いくら必要なのか分からなくて」


 言いたいことを上手く伝えられている自信がなく、亜莉香の視線は下がった。

 ケイは少し考えて、質問を返す。


「着物の値段は様々だけど、希望はあるのかい?花柄や和柄?」

「あ、私のじゃなくて…」


 大事なことを言い忘れているのに気が付き、亜莉香は詳しい説明をしなくては、と口を開いた。そのタイミングで、店員の一人が亜莉香とケイの前にお茶と和菓子を差し出す。

 差し出された丸い形の湯呑は薄い水色で、紫陽花模様が描かれている。湯呑に入った温かい煎茶と、真っ白な小皿の上に置かれた、大福が一つずつ。

 ケイが湯呑に手を伸ばし、煎茶を口に含んだ。

 緊張が未だ解けず、落ち着こう、と亜莉香も湯呑を手に取った。両手で包み込むように湯呑を持ち、一口だけ煎茶を飲んでから、深く息を吐いた。


 肩の力を抜いて、亜莉香は煎茶に映った自分自身の顔を眺める。

 つい先日起こった一件を思い出しながら、ゆっくりと言葉を伝える。


「先日、私のせいでトシヤさんの着物を汚してしまって。トシヤさんは気にしなくてもいい、と仰って下さったのですが。弁償したくて、どれくらいのお金が必要か、今日はケイさんに聞きに来たのです」

「トシヤが気にしなくてもいい、と言ったわけだし、アリカちゃんも気にしなくてもいいんじゃないかい?」


 優しく言ったケイの言葉に、亜莉香は顔を上げた。

 首を横に振って、ずっと考えていたことを口にする。


「十分、お世話になっている身です。返せるものは返したいです。本当はユシアさんにも最初の頃に色々と買って頂いた金額分を返さないといけないので、トシヤさんの着物を買うのは時間がかかると思うのですが。はっきりとした目標を作って自分を動かさないと、だらだらとお世話になりっぱなしになりそうで、それは申し訳なくて」


 言葉を口にすると、申し訳ない気持ちが膨れ上がっていく。ユシアやトシヤだけじゃなく、ルカやルイ、トウゴや市場で出会う人が優しくしてくれる。その恩返しがしたいのに、何も出来ないことが悔しい。

 悔しさを隠して、そう言えば、と亜莉香は頼まれていた伝言を思い出す。


「私、今日から一か月程度は午前中の少しの間だけ、パン屋さんのお手伝いをすることになりました。モモエさんの出産予定が、一カ月後だそうです。モモエさんからの伝言で、生まれたらお子さんの着物を買いに行く、とのことでした」

「なら明日パン屋に行ったら、いつでも歓迎する、と伝えておくれ」


 分かりました、と亜莉香は言った。ふと、ケイが何かを思い付いた顔になる。


「着物の値段を教えるのは簡単だが、アリカちゃんは裁縫が得意かい?」

「裁縫、ですか?出来ないことはないと思います。よく雑巾やエプロンは自分で縫っていましたので」

「それなら、一つお願いをしてもいいかい。簡単な縫物で、お願いしたいのがある」


 はい、と頷けば、ケイは立ち上がって奥の部屋に消えた。

 すぐに戻って来たケイが持って来たのは、色褪せて古びた手のひらに収まる匂い袋。縫い目はばらばらで、ほつれている箇所もある。

 そっと匂い袋を机の上に置き、ケイが言う。


「昔、着物の切れ端で知り合いの女の子が作ってくれたんだけどね。もう何年も経って色褪せて、最近は持つだけで壊れそうで…この匂い袋を、時間がある時にゆっくりと直してくれないかい?」

「私が、ですか?」


 ケイの言葉に驚いて、ケイと匂い袋を見比べる。

 ぼろぼろの匂い袋は、元は綺麗な布で作ってあったに違いない。白地に牡丹の花が描かれ、花それぞれが金の縁取りをしてある、上品で豪華な着物の端切れで作られた匂い袋を、亜莉香が手に取ると、ケイは苦笑する。


「下手くそな匂い袋だと思うだろう。昔は匂いしていたけど、もう匂いはしない。何の匂いだったかも忘れてしまったけど。大事なものでね。和裁をしている専門の人間に頼むようなものじゃないが、出来ることなら直したい」

「この匂い袋を、私が直してもよろしいのですか?」

「私は無理だからね。昔ならまだしも、今はもう目が悪くなって…悪いが、裏の文字も何とか出来るかい?」


 裏、と言われて、亜莉香は匂い袋を裏返す。

 お守り、という小さな文字が、黄ばんでしまった白い糸で縫ってあった。歪で、子供が一生懸命縫った文字を、亜莉香は見つめる。


「どうだい?無理ならいいよ」

「…いえ」


 顔を上げた亜莉香の口角が、無意識に上がった。これくらいなら、亜莉香でも出来るお返しの一つ。お世話になっているケイの頼まれごとに、断る理由などない。


「どこまで直せるか分かりませんが、頑張って直します」

「そんなに快く引き受けてくれるとは思わなかったよ」


 あまりにも力強く言った亜莉香に、ケイは笑みを零した。笑われてしまい、だって、と少し顔が赤くなった。


「役に立てるのは、嬉しいです。私でも出来ることなら、やってみたいです。直したらすぐに持って来ますね」

「急がなくていいよ。直ったら持って来てくれれば、それでいい。次に来た時には、男物の着物を何枚か用意して、どんな着物がどれくらいの値段が説明しよう。今日はもう少し、お茶を飲んで私の世間話に付き合ってくれると嬉しいねえ」

「…そう言えば、最初はその話で来たのでしたね」


 すっかりと忘れていたことを口にして、亜莉香は冷めてしまった湯呑に手を伸ばす。

 しみじみと言った亜莉香の言葉に、ケイは微笑んだ。手を付けていなかった大福にケイが手を伸ばしたので、亜莉香も大福を口に運んだ。

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