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庭の中に隠されていた入口を探した時、それは呆気なく見つかった。
カリンから場所を聞いていたおかげだ。大きな枇杷の木の根の横に引き戸があって、地下へと続く階段が隠されていた。大人一人が入れる幅で、どこまでも続きそうな暗闇が待ち受ける隠し通路。
灯籠を片手に道を照らしながら、アンリ達一行は隠し通路の中に消えた。
他の誰にも見つからないように入口を雪で隠して、亜莉香は息を吐く。
「これで、ひとまずは安心でしょうか」
「そう信じるしかあるまい。あれでもトウゴは役に立つ。アンリのことは他の奴らに任せて、儂らは次の問題を片付けるぞ」
隣にいたピグワヌが言い、小さく頷いた。
一緒に見送ったのはピヴワヌだけで、フルーヴとヒナの姿はない。敵を誘い出す場所の確認をしてくると言い残して、途中で消えてしまった。カリンは戦いに参加しないが、場を提供してくれる。今頃は領主の住まいがある東の離れから、急いで人を遠ざけているはずだ。
雪で冷たくなった両手に、息を吹きかけて温める。
段々と夕方が近づいて来た。
夜になれば気温は下がって、雪が降り積もるかもしれない。この時期の天気は変わりやすくて、いつ吹雪に襲われてもおかしくない。その前にレイとの決着をつけて、夢で見た光景が起こりえない状況にする。
シンヤの所在が掴めないのが不安材料ではあるが、為すべきことに変わりはない。
空を見上げていた亜莉香を見て、ピヴワヌは口を開いた。
「しくじるなよ」
「分かっています」
短い会話はすぐに終わり、雪を踏みしめる音がして後ろを振り返った。
黒い着物を羽織っているが、顔を隠していないヒナが戻って来た。その肩には兎の姿のフルーヴを乗せて、亜莉香を見るなり微かに笑みを零す。
「用意は出来たようね」
「はい」
「大方の人間は既にいない。場所を移動しながら話しましょう」
踵を返したヒナに続いて、亜莉香よりも先にピヴワヌが歩き出した。
誰もいないなら顔を隠す必要は無くて、亜莉香は羽織っていた黒の着物の袖に腕を通す。裾の長い着物が雪に触れながら、もう一度だけ空を見上げて結界を確認した。
カリンが強度を上げた結界の中では、何が起ころうと誰にも分からない。
結界の出入りは自由だが、例え結界の中で建物や草木が燃えようと、大きな音がしようと気付かれない。結界の外に音が漏れることはなく、外からは何が起こっているのか分からないように作り変えると言われた。
人がいなければ、亜莉香もピヴワヌも存分に動ける。
心配事が一つ減った。
カリンが味方なら、お尋ね者になる心配をしなくて済む。本人には言わなかったが、トウゴがお尋ね者になるのは二度目なので、何が何でも回避する予定だった。
何度考えても、亜莉香の奪われた魔力を取り戻すことは後回し。
ここ数日、灯は何も起こさない。その身体が生きる屍だとしても、ただ平穏に過ごしていると精霊達が教えてくれた。闇の力を持つ灯に勝てる勝算がなければ、灯を相手にしている間、アンリにもしものことが起こる可能性の方が怖い。
考えるのを、避けていた。
どうやって魔力を取り戻せばいいのか。亜莉香が魔力を取り戻せば、幸せだったいつもの日々に帰って、皆の記憶が戻る。それは嬉しいのに、その代わりに灯は感情を失い、その身体は生きる屍として動く。
灯に対しての行動が、どうしても思い浮かばない。
矛盾している。選ばないといけないのに、選べない。
灯から魔力を奪うのを、躊躇している気持ちが消えない。
今思えば、そのせいで灯に向き合えないで、アンリを助けることを優先したのかもしれない。現状で味方が少ないのは苦しいが、ヒナと協力するからと言い聞かせて、灯から目を背けてしまった。
過去を悔やみはしないが、心に棘が引っ掛かったような気持ちは消えない。
ぐるぐると考え込みたくなくて、雪のように真っ白で揺れる髪を瞳に映す。前を向いた亜莉香は、隣のピヴワヌに話しかけた。
「ヒナさんは、トウゴさんを戦いから遠ざけようとしましたね」
「何の話だ?」
「隠し通路のその先へ。誰がアンリちゃんを安全な場所まで連れて行くか話し合った時に、迷わずトウゴさんの名前を出しました」
前を歩くヒナには聞こえないように事実を述べると、反論はなかった。
足音だけが響いて、静かに言葉を続ける。
「トウゴさんが途中で引き返すと言っても、アンリちゃんの傍に居るように言いました。隠し通路の先がどこへ繋がっているか分からなくても、その先が安全な場所だと知っているから。保護を優先するように言って、その間に全てを終わらせたいのですよね?」
「さあな。だがトウゴは、前より格段に強くなっているぞ」
腕を頭の後ろに回しながら、ピヴワヌが素っ気なくも言った。
「守られるような奴じゃない。守って欲しいとも思ってはいない。それを知っているくせに、お主もトウゴを遠ざけたのだろう?」
「それが…正しい気がしたので」
上手く言えない気持ちを持て余して、亜莉香は一呼吸を置いた。
「トウゴさんを足手まといなんて思っていません。寧ろ一緒に戦ってくれたら心強いと思います。それでもトウゴさんが傷ついたら――悲しむ人が沢山いるのです」
自然と口から出た言葉は、本心だった。
何が言いたかったのか。ようやく分かった気がする。
亜莉香とトウゴの立場が違う。大切な人達に囲まれる資格を持つ存在がトウゴであり、どれだけ傷ついても他人事になってしまうのが亜莉香だ。
同じ立場だったら、別の方法を提案したかもしれない。一緒に戦おうと言えたか、遠ざけずにいられたかもしれない。可能性ばかりを考えても、どうしようもないと分かっている。仕方がないことだと受け止めたはずだ。
自己満足と言われようが、トウゴの身の安全を確保したかった。
絶対に悲しませたくない人達がいるから、それ以外の選択肢はない。後悔はしないと決めた亜莉香を横目に、そうか、とピヴワヌは小さく相槌を打つ。
「だが遠く離れていても、心は傷つくことがある。深く刻み付けられた傷もあれば、一生消えぬ傷もある」
「そうかもしれませんね」
「心の傷は、誰にも見えはしないからな」
悲しみの混じった言葉は、亜莉香の胸に染み込んだ。
「確かに心の傷は見えないけど、癒された後に前へ進むための傷も、傷ついたからこそ経験になる傷だってあるはずです。傷は痛いけど、それなら悪くないとは思いませんか?」
「考え方の話じゃない」
ぼそっと呟いたピヴワヌは、深いため息をついた。
「見えないのは、心の傷だけじゃないからな」
「優しさや温かさも、ですね」
「それだけじゃないだろ。悲しみも苦しみも含まれる。話を戻すが、悲しむ人の数に多いも少ないも関係ない。誰だって大切な人が傷つけば、心が痛んで苦しいものだ。誰だって傷つきたくないし、大切な人に傷ついて欲しくなどない」
断言したピヴワヌが口を閉ざして、亜莉香は唇を結んだ。
大切な人と言いわれて、思い浮かぶ人達がいる。個人の名前を出さなくても、瞼を閉じれば名前を呼んでくれた人達の笑顔を思い出す。これ以上感傷に浸らないように、楽しかった日々を心に隠した。
遠く離れたからこそ、心の中に描いた大切な人達を守りたいと強く願う。
「いつか――」
話し出したはいいが、その後の言葉がうまく続かなかった。ピグヴワヌの視線を感じつつ、大切な人達に囲まれて笑い合う日を夢見て、微笑んだ亜莉香は言葉を紡ぐ。
「いつか大切な人達と、お茶会をしましょうね」




