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Last Crown  作者: 香山 結月
第3章 雪明かりと蠟梅
287/507

58-3

 第一の関門の前に、問題なのはアンリをどうやって連れ出すか。


 問答無用で連れて行く、と宣言したのはヒナで、やり方は真正面から力ずく。姿を消して部屋の中に入り込み、意識を奪って連れて行く。近くに警備隊がいたところで捕まるへまはしないと言われても、亜莉香は思わず待ったをかけた。

 アンリが目を覚ました後に、混乱することは考えられていない。


 意識を奪われたと思ったら、全然知らなかった場所で目を覚ますのは普通じゃない。一人で放置するのも気が引けて、色々と配慮の足りない意見を却下した。

 トウゴは同意してくれたが、ピヴワヌはヒナと同じ顔をしていた。

 面倒くさいことは嫌だと、顔に書いてあった。


 結局とても不満そうなヒナに、門の前までアンリを連れて来る作戦を丸投げされた。夕刻までに連れて来なければ、最初の案を実行する。

 何が何でも有言実行しようとする、ヒナの気持ちは十分伝わった。


 それでも別の方法はないか必死に考えながら、亜莉香は部屋を出た。

 付いて来てくれたのはピヴワヌとトウゴで、ヒナを見張っていると楽しそうなフルーヴは置いてきた。ピグワヌが人の気配を探りながら、人目を避けて、建物の外から回って、アンリがいるはずの部屋の近くまで移動する。


 外の木々に隠れて、執務室で仕事をこなすアンリを見つけた。

 黄色を帯びた鮮やかな朱色の髪を真っ白なリボンで、思いっきり上で一つにまとめている。背を向けて座っているので、着物の柄は椅子で見えない。まだ十三も満たない年齢にもかかわらず、使用人と真面目な様子で話していて、話し声までは聞こえなかった。


「やはり、問答無用で連れて行く方が早くないか?」

「ピグワヌ様がヒナの意見に同意するなんて、凄く意外だね」

「違う。それ以外の方法が思い浮かばないだけだ。断じて、小娘の意見に同意したわけじゃない。儂が意見を言う前に、小娘が先に言ったのが悪い」


 亜莉香を挟んで小声で話す声は、嫌でも耳に届く。


「儂一人なら、あの部屋に容易に忍び込めるな」

「だからそれは、アリカちゃんに止められているでしょ?アンリちゃん一人じゃなくて、出来たら誰かを巻き込みたいねって。安全な場所に連れて行った後、世話をしてくれる人が欲しくない?」

「…世話する人、か」


 冗談交じりのトウゴの声を、亜莉香はそっと繰り返した。

 片手は隠れている木に触れ、瞳を伏せて、じっくり考える。アンリが信頼を寄せて、いざという時には守ってくれる人に傍に居て欲しい。

 咄嗟に思い浮かんだのはシンヤだが、アンリが世話を焼く姿を想像した。

 チアキやサクマ、ナギトの顔を思い浮かべれば、最悪の未来が瞼に浮かんだ。気持ちが沈む前に、首を横に思いっきり振って、暗い気持ちを吹き飛ばす。


「――よし」

「何か思い浮かんだか?」


 口から零れた小さな気合に、隣の木に寄りかかり、腕を組んでいたピヴワヌが反応した。目が合って、微笑んで素直に言う。


「いえ、全く」

「期待させるな」

「ですが、トウゴさんの言う通り。アンリちゃん一人よりは、誰かを巻き込みたいですね。お二人は誰か思い浮かびませんか?」


 ピヴワヌだけじゃなく、他人事のようにしゃがんでいたトウゴにも訊ねた。

 どちらも思い浮かばないのか、眉間に皺を寄せて考える。二人を見比べたところで、亜莉香の期待する答えは出そうにない。


 どうしようか空を見上げると、目の片隅に朱色の精霊が映った。

 ふらふらと亜莉香の頭上を飛び、下りようか立ち去ろうか迷っているように見える。反射的に右手を差し伸べると、精霊は気が付いて舞い降りた。


 とても温かな光を、右手に感じる。

 こちらへ、と優しい老婆のような声がした。


「え?」

「呼ばれたな。誰が呼んでいる?」


 驚いた亜莉香の代わりに、ピヴワヌが言った。

 精霊は同じ言葉を繰り返して、手から離れた。ふわふわと風に揺られながら、導く先はアンリがいる部屋とは反対の庭の奥。


 草木に雪が積もった庭は、真っ白な世界。

 日差しが当たる場所と、影では少しだけ色が違う。白の中に朱色は目立ち、精霊が待っている。早くなさい、と急かす声もして、亜莉香より先にピヴワヌが踏み出した。


「行くぞ」

「はい…えっと。どこに、でしょう?」

「儂が知るか。だが、精霊に悪い奴はおらん。悪戯好きはいるが」


 最後の台詞が気になったが、今は関係ないと思うことにする。

 慌てて立ち上がったトウゴが亜莉香の肩を叩き、一緒に早足で歩き出した。ピヴワヌの背中を追った。足跡のない雪を踏みながら先へ進む。


 誰に呼ばれているのか。

 どこに向かっているのか。


 真っ白な迷路のような道を歩きながら、亜莉香は精霊の光を追いかけた。






 人の気配がない。生き物の気配もなくて、遠く雪が落ちた音がした。

 真っ白な世界で朱色の精霊が導き、背が高い木々の間を抜ける。途中で方向感覚を失っても、亜莉香の前にはピグワヌがいて、後ろにはトウゴが付いて来てくれた。


 どんどん進んで、視界が開けた先は眩しい。

 一カ所だけ太陽の光が差し込み、地面が顔を覗かせていた。


 白い日傘を差して待っていた人がいて、精霊は傍に寄る。連れて来た、と呟いた声と同時に、日傘で顔を隠していた女性が振り返った。


 アンリとシンヤと同じ、黄色を帯びた鮮やかな朱色の髪だ。

 綺麗に編み込んだ髪を後ろの首元で一つにまとめて、簪に付いている丸い橙色の宝石が揺れた。やせ細った身体で、景色に溶け込むような白地の着物に、白に近い灰色の帯を合わせていた。美しくも儚げで、年齢が分からない。右側に流すように切り揃えられた前髪から覗く瞳は、アンリと同じ薄い黒に見えた。


 顔を合わせたのは初めてなのに、目の前の女性の名前を知っている。

亜莉香が声を出す前に、女性は微笑んで口を開いた。


「ようやく会えましたね。アリカさん」

「どうして、私の名前を?」

「娘も息子も、よく貴女のことを話していましたよ。精霊達も、貴女のことを話題にすることが多くて、私は貴女のことをよく知っていました」


 声が擦れた亜莉香に対して、女性は丁寧に話した。

 戸惑う亜莉香は何も言えなくなって、女性の瞳に一歩前にいたピヴワヌが映る。表情を消したピヴワヌと数秒見つめ合い、唇を噛みしめた女性が軽く頭を下げた。


「お久しぶりです。ピグワヌ様」

「そうだな」


 素っ気ないと言うより、感情を押し殺した声はピヴワヌらしくなかった。

 二人の間にある空気は冷めきっていて、どちらも黙ってしまう。静まり返って、気まずいトウゴの気持ちを悟って、亜莉香は遠慮がちに問う。


「ピグワヌ、カリン様とお知り合いでしたか?」

「会ったのは二度目だ。こんな姿で会うのは初めてのことだが、昔、灯が姿を消した時に、軽く問い質しただけだ」


 軽く、とは真逆なことを行っていそうで怖い。

 過去のことをこの場で訊ね始めれば、それは長い時間が必要なことになる。二人が過去の話をする雰囲気もなく、えーと、と曖昧な声を出しながら、女性に向き直った。


「カリン様、で間違いないですよね?ガランスの領主様?アンリちゃんとシンヤさんのお母さんですよね?」


 言った後に、お母様と呼ぶべきだったか考えた。

 予想外の登場で亜莉香の頭は回らず、小さく頷いたカリンが言う。


「そうですよ、アリカさん。隣の彼は、トウゴさんとお呼びしてもよろしいかしら?」

「え…あ、はい」


 急に名前を呼ばれたトウゴがあからさまに動揺して、何度も首を縦に振った。

 振り返ったピヴワヌがため息を零して、腕を組むと近くの木に寄りかかる。目の前にいるのが領主であろうとなかろうと、一人だけ平然と話し出す。


「そんなに緊張するな。目の前にいるのは、ただの人間だ。儂よりはるかに弱い」

「そういう問題ではないのですよ」


 ピヴワヌの言い分に、思わず亜莉香は口を挟んだ。全く意味が分からないと言わんばかりに、目が合ったピヴワヌが首を傾げる。

 なんて説明するか。腕を組んで考えようとすれば、小さな声が耳に届いた。


「仲が良いのですね」


 小さくも羨ましそうに言って、カリンは両手で握っていた日傘の柄に力をこめた。

 悲しそうな顔は、とても疲れているようにも見える。日傘で太陽の光を遮っているせいで、顔色が悪くも見えて、心配になって顔を見つめた。


 数歩先に、カリンがいる。

 背筋を伸ばして、両手を腹の辺りで軽く握りしめる亜莉香と見つめ合う。真っ直ぐな眼差しを見ていると、目の前にいるカリンの姿が、一瞬だけ少女の姿に変わった。


 どこかで見覚えがあると感じるのは、久しぶりだ。

 灯の記憶だと、今ならはっきりと言える。瞬きをした亜莉香の瞳に、今のカリンの姿が映っているのを確認した。灯の記憶に流されることなく、深呼吸をしてから問いかける。


「カリン様。何故私のことを覚えているのか、教えて頂けませんか?」


 緊張しつつも、はっきりと言えた。これだけだと分からないだろうと、出来るだけ簡単に説明を付け加える。


「今の私は、関わった人達に忘れられている存在です。精霊と、この場にいるトウゴさん以外の人は、誰も私のことを覚えていませんでした。カリン様は精霊から、私のことを聞いたのですか?」

「…いいえ」


 微妙な間があった後に、カリンは言った。ピヴワヌに視線を送り、何かを受け取った声が淡々と続く。


「私は、トウゴさんと同じ立場の者です。二十年以上前、アカリから加護を与えられたのが、この私です」


 カリンは襟元を少し見せた。

 着物に隠れて見えなかった肌に、くっきりと牡丹の紋章が刻まれている。トウゴの紋章より小さく、色も薄い。目を見開いた亜莉香とトウゴを見て、そっと襟元を戻した。


「領主であるのに護人に守られているなんて、おかしな話でしょう」


 自嘲気味に言って、瞳を伏せる。

 そんなことはないと言う前に、声を落としたカリンは言う。


「護人を捕まえようとする立場なのに、私は加護を与えられた。力を分け与えられて、護人に守られているようなもの。私の加護を知っている人達の多くは、もうこの世にはいません。このことは、娘や息子も知らない話です」


 襟元を握りしめるカリンは口を閉ざして、ゆっくりと顔を上げた。


「アカリが死んでからも、彼女の加護は続きました。加護のおかげで、魔力で私に危害を加えることは何人たりとも叶いません。そのおかげで命拾いをしたこともあって、加護を与えられた日から、私の見ていた世界が変わりました」


 どんな風に、と聞かなくても、言いたいことは分かった気がした。

 少しだけ黒が深くなったカリンの瞳には、精霊や魔法の光が見えている。それはきっと亜莉香以上に色々と見えているに違いない。亜莉香とピヴワヌ、亜莉香とトウゴ、その間の何もない空間を見つめたカリンは、安心したような笑みを零して肩の力を抜いた。

 黙っていたピヴワヌが、そっと訊ねる。


「儂らの契約の繋がりは、ちゃんと見えたか?」

「はい。とても強い繋がりがあります。先程はトウゴさんと私は同じ立場だと言いましたが、訂正します。アリカさんは、トウゴさんに加護以上のものを与えていたのですね」

「「え?」」


 驚いた亜莉香とトウゴの声が重なった。

 そうだな、と独り言のように呟いたのはピヴワヌで、亜莉香は視線を向けた。どういうことか説明を求める前に、カリンが瞬きを繰り返す。


「違いましたか?」

「違わない。アリカの魔力は無意識だが、トウゴに与えられている。いつまで続くかは儂も知らん。生涯、失われたトウゴの命を補い続けるのだろう」

「初めて聞きましたよ?」


 自分のことなのに知らなかった事実に、亜莉香は呟いた。そうだったのか、と何となく納得したトウゴの声も無視されて、ピヴワヌはカリンに目を向けた。


「それを確認するために、儂らを呼んだのか?」

「いいえ。数日前に、結界の揺らぎを感じました。ルグトリスの目撃情報は増え、娘と息子の口から出て来る名前が変わりました。ここ数日で、ガランスは何かが変わってしまったようですね。精霊から情報を集めていた所、貴女方がやって来ましたので、私は貴女の話を伺い、今後を話し合うのが最善策だと判断しました」


 貴女の、と言った時、カリンは間違いなく亜莉香を見た。

 迷いのない顔つきになり、小さな結界の中に閉じ込められる。亜莉香とピヴワヌとトウゴ、それからカリンと朱色の精霊を囲む透明な結界は半円で、全てを遮断した。


 ルカと似た結界で、透明な光に守られる。

 風はないが寒さを防いで、太陽の光が降り注ぐ。温かな日差しは少しだけ弱まり、カリンは日傘を閉じた。


「この結界の中での会話は、誰にも聞こえないし見えません。この土地に何が起こっているのか知っているなら、私にそれを話しなさい。領主として、私はこの地を護らなくてはいけません。貴女が何者でも構いません。私は貴女のことを誰かに告げたり、捕まえさせたりすることはしないと誓いましょう――もう二度と、同じ過ちは犯したくないので」


 最後の声の時だけ瞳を伏せて、よく声が聞こえなかった。

 それでもカリンの決意が伝わって、醸し出す雰囲気が一変した。逆らえない力を感じたのは、それは亜莉香だけじゃなく、ピヴワヌやトウゴも同じはずだ。


 目の前にいるのが、この街を護る領主であると強く思う。

 味方は少ない。信じられる人も少ない状況で、目の前の女性は信じたい人だと言えた。ピヴワヌと視線を交えると頷き返され、トウゴは無言で笑みを浮かべる。決めるのは亜莉香だと察して、初めに訊ねたいことは一つしかない。


「少し長くなる話ですが、よろしいですか?」


 真っ直ぐに見つめ返したカリンは首を縦に振り、亜莉香は静かに語り出した。

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