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Last Crown  作者: 香山 結月
第3章 雪明かりと蠟梅
282/507

57-3

 派手にガラスが割れる音がして、亜莉香は後ろを振り返った。

 立ち上がった衝動で椅子は倒れて、場面が変わる。


 執務室に朝日が差し込み、テーブルの半分を照らしていた。その影にあったティーカップが割れて、中の紅茶が床に滴る。ティーカップを取ろうとしていたシンヤの右手は何も掴めず、誰もいない部屋でため息を零す。


「…やってしまった」


 テーブルの上に広げてあった書類に被害はない。椅子を引いて、立ち上がろうとしたシンヤだったが、何故か座り直してテーブルに肘を付いた。

 両手で顔を隠して、もう一度深いため息をつく。


 本棚に囲まれた部屋は静かで、シンヤ以外に人はいない。規則正しい時計の針の音がして、来客用のテーブルとソファはあるが、余計な物を置いていない。どこか寂しそうに見えたのは部屋に物が少ないせいか、シンヤの醸し出す雰囲気のせいなのか。


 眺めていることしか出来ない亜莉香には、判断することは叶わなかった。

 誰かが扉を叩いて、シンヤが淡々と返事をする。顔を上げた時には何食わぬ顔を浮かべ、部屋を訪れた人物を瞳に映す。


「久しいな、チアキ」


 挨拶をしたシンヤに対して、チアキは唇を噛みしめて睨み返した。

 子供ではないが、大人びてもいない。長い髪を下ろして、真っ黒な着物姿はまるで喪服。亜莉香が知っているチアキより若く、涙を浮かべて両手を強く握りしめていた。


 その一歩後ろに、無地の灰色の着物に黒い袴姿のナギトがいる。

 日本刀を身に付けた警備隊の格好で、機嫌が良いとは言えない表情。先に部屋に足を踏み入れたチアキに続いて、部屋に入ると静かに扉を閉めた。邪魔にならないように部屋の隅に立ち、成り行きを見守るようにシンヤとチアキを見比べる。


 シンヤがナギトに目配せしたのは、一瞬だった。

 微かに首を横に振ったナギトに、数秒の瞼を閉じる。仕方なく入口近くで立ち止まったままのチアキに微笑み、明るく話し出す。


「さて、何か用があって訪ねて来たのだろう?茶でも用意したい所だが、生憎私の入れる茶はまずい。誰か使用人を呼んで来ることにしよう」


 独り言のようにも聞こえる言い方をして、シンヤは重たい腰を上げた。割れたティーカップを瞳の隅に映した後、反対側から前に出る。


「なんで来てくれなかったの」


 部屋から出ようとチアキの横を通り過ぎた時、聞こえた小さな声で足を止めた。

 シンヤは振り返ると同時に、勢いよく胸倉を掴まれた。抵抗することなく、掴んでいるチアキを見下ろすと、涙を浮かべた深紅の瞳には憎悪が宿っていた。

 用件なんて聞かなくても分かっていると言わんばかりに、作り笑いのシンヤが言う。


「ノエの葬式に私が行った所で、何も出来まい。それに灯籠祭りの準備やら片付けやら、忙しくて足を運ぶ暇はなかった」

「お別れぐらいしてよ!」


 泣き叫んだ声が部屋に響いて、チアキの瞳から涙が零れて頬を伝った。泣き顔を見られないように伏せて、掴んでいた手の力が弱まる。


「最後だったのに。あの子の顔が見られる最後の瞬間に、どうして来ないのよ。どうして、ノエが死ななくちゃいけなかったのよ」


 ぽたぽたと床に涙を落としながら、チアキは言った。

 どうして、と繰り返して、握りしめた右手でシンヤを叩く。力を込めた右手が当たっても、叩かれたシンヤは少し困った顔をしただけで、何も言い返さない。

 ナギトは瞳を伏せているだけで、話に混ざろうとしなかった。

 泣きじゃくるチアキが座り込んで、シンヤは片膝をついて言う。


「ノエが殺された件で恨むなら、私を恨めばいい。守れなかったのは私の責任だ」


 チアキが何も言わなくて、取り乱すことのない静かな声が続く。


「あの日、ノエの護衛をしていた者達を責めないでくれ。あの晩の警備態勢は万全だった。それでも対応出来なかったのは、責められるべきは警備隊を指示した私だろう」


 勝手に納得するシンヤの話の途中で、チアキが顔を上げた。

 涙目ながらも怒りの表情のチアキと、この先を予想していないシンヤの目が合う。謝罪をしようとシンヤが頭を下げる前に、チアキ右手は物凄い速さで宙を切った。

 鳴り響いた音は、平手打ちの音。

 一瞬で間抜けな顔になったシンヤに反応する隙を与えず、低い声のチアキが口を開く。


「謝って欲しいのは、そのことじゃないの」

「…チアキ?」

「ノエが殺されたことを勝手に自分のせいにするなんて、お門違いも甚だしいのよ!恨むなら貴方じゃなくて、殺した犯人を恨むわ!私が貴方に怒っていたのは、葬式に来なかったこと!灯籠祭りなんて言い訳にしないで、ちゃんと参列して欲しかった!」


 言いたいことを言い切ったチアキは肩で息をして、両手を膝の上で握りしめた。

 呆気に取られていたシンヤが、叩かれた頬を片手で押さえる。微かに赤くなった頬を押さえたまま、瞬きを繰り返すと小さく呟く。


「私の頬を叩いた二人目だな。姉妹揃って、すぐに手が出る」

「…申し訳ありませんでした」

「別に気にはしていない。おかげで色々と、目が覚めたからな」


 気まずいチアキが視線を逸らして、シンヤは立ち上がった。

 右手を差し出して、チアキにも立ち上がるように促す。少し迷ったチアキだったが、厚意を突き放すことなく手を重ねた。

 立ち上がって向き合って、手を離さずにチアキは問う。


「ノエのことは、誰よりも大切でしたか?」

「当たり前だ。そうでなければ、わざわざ会いに行かなかった」

「ノエのことを、忘れないでいてくれますか?」


 うっすらと涙が滲んでいる瞳に問いかけられて、シンヤの顔が少しだけ泣きそうに見えた。隠そうとしていた本心が垣間見えて、ああ、と小さく言った。


「忘れない」


 はっきりと断言した言葉を聞けて、チアキが微かに笑った。

 怒りに来たわけじゃない。叶詠のことを忘れないで欲しいから、その言葉を聞き出すためだけに乗り込んできたチアキは、そっと手を離して一歩下がると、深々と頭を下げる。


「先程は大変失礼いたしました」

「さっきも言ったが、気にしていない。さっさと頭を上げてくれ。ナギト、手ぬぐいを持っていたら濡らしてくれないか?」

「手ぬぐいを持っていないので、お茶と一緒に取って来ましょうか?」


 素っ気ないナギトの提案に、眉間に皺を寄せたシンヤはわざとらしく腕を組んだ。


「それなら自分で行った方が早い。チアキ、悪いが暫く、ソファに座って待っていてくれるか?急いで茶の用意を頼んで来る」

「いえ。私は用事があるので、長居は致しません」


 振り返ったシンヤに、慌てて顔を上げたチアキは申し訳なさそうに言った。

 そうか、とシンヤが相槌を打ち、今度はナギトに向き直る。


「では、ナギト。チアキを家まで送り届けて来てくれ」

「分かりました」

「あの、シンヤ様」


 遠慮がちにチアキが声をかけて、椅子に戻ろうとしたシンヤの足が止まる。チアキが胸元から急いで取り出したのは、小さく折り畳んだ薄紅色の手ぬぐい。隅には梅の刺繍が施されて、差し出しながら言う。


「良かったら、お使いください」

「いいのか?」

「本当はノエに頼まれて刺繍をしたものです。渡すことが叶いませんでしたが、手放すことも出来なくて。シンヤ様がお使いになったら捨てて下さい」


 どうぞ、と付け加えられた手ぬぐいを、シンヤは素直に受け取った。

 そのままナギトの元へ行き、水魔法で濡らして貰って頬に当てる。ひんやりとした手ぬぐいで頬を冷ましながら、シンヤは椅子に座って片肘をついた。


「捨てるには勿体ないな。私が貰っても構わないのだろう?」

「はい。私には不要です」

「では、預かることにする。いつか返そう」

「…返して欲しいとは思っていないのですが」


 困ったチアキの小さな呟きは無視して、シンヤは笑みを零した。チアキが踵を返す前に、不意に何かを思い付き、小さな声を上げてから問いかける。


「そうだ、チアキ。仕事が欲しくないか?」

「…急に何の話ですか?」


 怪訝そうなチアキに対して、シンヤがにやりと笑う。


「私の傍には、美味しい茶を入れてくれる使用人がいないのでな。時間がある時だけでも、私に仕える気はないか?」

「え…?」

「返事は急がなくて良い。良い返事を貰えるまで、サクマを通じて勧誘することにしよう。ああ、用事があるのだったな。引き止めてすまない」


 好き勝手言ったシンヤに、チアキだけじゃなくてナギトも驚いていた。

 誰かが口を開く前に、部屋の外から叩く音がした。チアキが脇に退き、シンヤが返事をすると、ナギトが扉を開ける。

 片手で数冊の本を持ちながら、扉を自分で開けようとしていたのはサクマだった。


「失礼し――て、なんでチアキがいるわけ?」


 部屋の主であるシンヤよりも先に、サクマは入口近くにいたチアキを見た。問いかけたサクマを見るなり、チアキは唇を尖らせて、不機嫌な声を出す。


「サクマには関係ありません。シンヤ様、失礼しました」

「またな」


 軽く手を振ったシンヤに対して、軽く頭を下げたチアキは急いで部屋を出た。一礼したナギトもいなくなり、二人の後ろ姿を目で追ったサクマが、楽しそうなシンヤを振り返って訊ねる。


「なんで、チアキがここに?それに頬を押さえて、何かありました?」

「チアキは用があって来ただけで、頬は気にするな。それより頼んでいた資料はあったか?」

「一応。頼まれていた精霊についての本は図書館から借りて来ましたが、私じゃなくてナギトに頼んだ方が、有力な資料を見つけられたかもしれませんよ?」

「ナギトに取りに行かせたら帰って来ないだろう」


 シンヤの言い分に納得して、確かに、とサクマが呟いた。

 手にしていた数冊の本をシンヤのテーブルに置き、頬を抑えるのをやめたシンヤと同じように、一冊の本を手に取って捲る。隅から隅まで目を通すシンヤを見ずに、サクマはテーブルの前で立ったまま、本を片手に口を開く。


「精霊の本を読みたいなんて、どういう風の吹き回しですか?そもそも精霊なんて、空想上の存在ですよね?」

「精霊は空想上の存在ではなく、限られた人間しか関われない存在だな」

「以前も調べたのですか?」

「いや、以前は直接、自分の目で見て話をしていた」


 何てことなく言ったシンヤに、サクマは数秒無言になる。

 頭の中には疑問が芽生えたようで、本から顔を上げて首を傾げた。


「精霊の姿が見えていた、なんて馬鹿なことは言いませんよね?」

「見えていたさ。ノエが死ぬまでは、な。色々あって見えなくなったから、もう一度見るための方法を探している。話を聞いたからには、他言無用でサクマも道連れだ」


 シンヤが淡々と話す度に、サクマの返事まで時間がかかる。

 精霊の存在の認識を、話を聞いていた亜莉香は理解した。見たことがない人に信じろ、と言うのは難しい話だと改めて考えさせられて、黙って成り行きを見守る。

 本を閉じたサクマが、いやいや、と軽く首を横に振った。


「冗談ですよね?精霊が見えるなんて人、出会ったことがありませんよ?」

「見えている人間は大抵、口を噤むものだ。信じない人間には頭がおかしいと思われるだけで、話しても分かってもらえないからな」

「…何で見えなくなったのですか?」


 心の底から信じたわけではないのに、サクマは声を落として訊ねた。

 本から顔を上げたシンヤが、椅子におっかかって息を吐く。明後日の方向を向けば、サクマは慌てて付け足した。


「言いたくなかったら、聞きませんが」

「対価、だな」

「対価ですか?」


 繰り返したサクマを見て、シンヤは小さく頷く。


「どうしても手に入れたいものがあったから、精霊を見る力を差し出した。見えなくなったからと言って、特に困ることもない。少々周りが静かになって、物足りない気分なだけだ」

「だから取り戻したいと?」

「そうだ。念を押すが、他の者には言うな。私が精霊を見ることが出来たことも、その力を取り戻そうとしていることも。ナギトやチアキに話すことは許さない」


 真剣な眼差しに、サクマはゆっくりと首を縦に振った。


「…はい」

「それから言い忘れていたが、また割った」


 重々しい空気のまま告げられた一言で、部屋が静まり返った。

 急に話が変わって、サクマがテーブルの後ろに回った。何を割ったのかは言わなくても伝わっていて、床に散らばったティーカップの欠片を見つけるなり、深いため息を零す。


「今日だけで、三回目ですよ」


 しゃがんで、椅子を動かして場所を空けようとするシンヤを見上げて言った。


「わざとじゃないが、すまない。心より反省している」


 しょんぼりした顔で謝り、シンヤは手伝おうした。

 それを手で追い払い、ガラスの破片を触らせないように配慮する。万が一にも手を怪我しないように、サクマが一人で片付け始める。


「触らなくていいので、ソファにでも座ってお待ちください。なんで割っちゃうかな」

「すまない」

「はいはい、分かりましたから。シンヤ様、さっきナギトがいたのですから、さっさと片付けるように言えば良かったのではないですか?」


 サクマが軽口を叩けば、シンヤは言われた通りソファに座って返事をした。


「ナギトに言えるわけがないだろう」

「チアキみたいに、ねちねちと怒るからですか?」

「いや、それだけじゃなくて――」


 背中を向けて本を読みながら、シンヤは言いたくなさそうに答えた。


「ナギトの前では、あまり格好の悪い姿を晒したくない。想い人を奪った私としては、毅然とした態度でいるべきかと考えただけだ」


 耳に届いた言葉に、サクマはテーブルから顔を覗かせた。

 片付けを中断して、意外と言わんばかりに口を開く。


「シンヤ様は、ナギトの気持ちに気付いていないのかと思いました」

「あれで気付いていないのは、チアキぐらいだろう?ノエだって、何も言われなくても分かっていたさ」

「取り乱した姿をナギトに見せたくないから、葬式にも顔を出さなかったのですか?」


 無言の肯定があり、口を押さえたサクマが、にやけた顔を隠した。

 普段はどれだけ偉そうでも、今日だけは素直に答えている。本音を話すシンヤは珍しく、にやにや笑っていると、ちらっと振り返った黒と赤を帯びた橙色の瞳に睨まれた。

 急いでテーブルの裏に引っ込み、破片を一カ所に集める。

 箒を取りに行こうと立ち上がると、シンヤが少し大きめな声で名前を呼んだ。


「チアキを使用人として迎えるから、変な噂が流れたら上手く対処してくれ」

「変な噂が流れるのを前提に、話をしないでくれませんか?」

「仕方がないだろ。ノエがルグトリスに狙われていたのは前からだが、いなくなった代わりにチアキが狙われないとも言えない。あの姉妹で、次に魔力が強いのはチアキだ。今はナギトが様子を見ているが、これから先も続けるわけにもいかない。急に使用人とすれば怪しまれるとは思うが、何もしないよりはサクマの心配も減るだろ」


 図星を言い当てられて、サクマは黙った。

 シンヤが本を閉じて、それに、と言いながら振り返る。


「チアキの入れる茶が美味いのは事実だ」

「それは癪ですが、認めます」

「チアキの傍に居るサクマを、見ていて面白いのも事実だな」

「そっちの方が本心じゃないですよね?」


 顔を引きつらせたサクマに、振り返ったシンヤは肩を竦めて見せただけだった。

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