57-2
数メートル先で、蝋燭の炎が揺れる。
その光が徐々に辺りを照らして、亜莉香の姿も映し出す。椅子に座ったまま、梅の木もテーブルも、向かいに座っていた叶詠の姿もなくなった。
まるで映画を見ているような感覚で、目の前の光景を眺める。
月の光が差し込む薄暗い部屋は、それなりに広かった。天蓋付きのベッドがあって、勉強机や本棚があって、ぬいぐるみが並んだ出窓もある。小さいながらベランダもあり、扉を開けたままの部屋に夜風が吹いて、純白のカーテンが靡いて揺れた。
その部屋の中には、二人の少女がいる。一人は床に押し倒されている叶詠で、着物も緋袴も全て同じなのに、向かいに座って紅茶を飲んでいた叶詠じゃない。愁いを帯びた深紅の瞳で身体の上にいる少女を見上げ、亜莉香など見向きもせず、全身の力を抜いていた。
もう一人の少女は黒い着物を頭から被って、顔が全く見えない。
その両手は小刀を握りしめ、微かに震えていた。今にも心臓に振り下ろしそうな雰囲気を醸し出しているのに、それ以上動かずに小さく零す。
「どうして?」
「何が?」
「どうして、抵抗しないのよ」
あっさりと返した叶詠に対して、少女の声はか細かった。
泣き出しそうで、悲しそうな声は聞き覚えがある。顔や髪が見えなくても、幼さが残っている声が、悲痛な叫びを口にする。
「抵抗してよ。返り討ちにしてよ。先読みと呼ばれている貴女なら、簡単に私を殺してくれると思ったのに!」
叶詠の着物に、水滴が落ちた。
嘆き、悲しみに満ちた少女の姿を瞳に映した叶詠が微笑み、少女の身体が強張った。
「貴女に私の死を背負わせて、ごめんね」
優しく話し出した叶詠は、何もかもを受け入れて言った。
「確かに私は、精霊達に先読みと呼ばれている。その気になれば、あらゆる人脈と力を武器にして、未来を捻じ曲げる。でもその対価で私の命はすり減って、貴女が今殺さなくても、余命一年…ううん、もっと短い時間しか生きられない」
深呼吸をする叶詠の胸は上下して、静かな部屋で時計の針の音が大きく聞こえた。
柔らかな秋の夜風が部屋に入り、外では虫の音が響く。平穏な時間の流れは外だけで、室内は依然として誰も入って来ないし、誰も部屋の中の異変には気付かない。
「貴女はこれから沢山の人を殺すのよ」
清々しいくらい言い切った叶詠に、狼狽えた少女が僅かに身を引く。
「そんなこと――そんなこと、したくない。私は人殺しをしたかったわけじゃない」
「そうだとしても、その手は血で赤く染まる。今の貴女が私を殺さずに、逆に私に殺されたいと願っても。全ては主のための行動だとしても。既に闇に落とされた身体を元に戻す術を私は知らないし、貴女の大切な人を救う未来も見えなかった」
大切な人の単語で、小刀を握っていた少女の両手に力がこもった。
何も言い返さない少女から視線を逸らし、叶詠は首をベランダに向ける。夜空を見上げて、眩しそうに月を見つめた。
「私にとっての最悪の未来は、大切な人達が殺されること。貴女が現れる未来を見るまで、その光景は何度も見た。それも私を守ろうとして呆気なく殺されて、私の大切な人の大切な人もいなくなる。誰も救われない、悲しい未来」
淡々と語りながら、その光景を瞼の裏に思い浮かべた叶詠が言う。
「ここで私が殺されなければ、きっと最悪の未来は訪れる。貴女に殺されることは、私にとって希望なの。大切な人の為なら、私は自らの死さえ受け入れる。そう考えたら、私達は似ているのかもしれないね」
この場に似合わない愛らしい笑みを向けられ、少女は首を横に振った。
「違う」
「そうかな?まあ、似ていなくてもいいの。私は貴女に殺されたい。朝には結界は解けるから、その前にね。あと出来たらルグトリスを使って、派手に争った形跡を残して。貴女が殺した痕跡なんて、一つも残しちゃ駄目だよ。貴女が私の件で追われる必要はないから」
「本当に、それを望んでいるの?」
注文が多い叶詠へ質問は、今にも消えそうなくらい小さかった。
その声を聞きとった叶詠は頷き、少女の両手に自分の手を添えた。振り下ろせば真っ直ぐ心臓を突き刺すように固定して、強い意思を持って口を開く。
「もしも貴女が私の死に対して罪を抱くなら、どうか私の大切な人達を傷つけないで。私の大切な人の、大切な人も。身体じゃなくて、心を守ってあげて」
「…そんなこと出来るわけがない」
「出来るよ。闇に落ちても、心は光を宿した貴女なら」
諭すように言って、全てを伝えたと言わんばかりに少女に笑いかけた。両手を下ろして腹の上で組み、後は任せて瞳を閉じる。
口を閉ざした少女が、勢いよく小刀を振り下ろした。
吸い込まれるように、叶詠の心臓に突き刺さる。一瞬だけ苦痛を感じて、すぐに口角を上げると安らかな表情に変わった。
ありがとう、と微かに口元が動いて見えた。
純白の着物が赤く染まる。
ゆっくりと瞼は閉じられて、声を発することもなく、呼吸が浅くなっていく。少女が立ち上がると、手にしていた小刀から血が滴った。
「そんな恰好で死んだら、抵抗したように見えないじゃない」
誰にでもなく呟いた少女は、血だまりを作る叶詠を見下ろした。
部屋の中心で仰向けの叶詠の顔だけ見れば、気持ちよさそうに眠っている顔。幸せそうで、今にも目を覚ましそうだ。
身動き一つしなくなるまでに、長い時間はかからなかった。
叶詠から一歩引く時、頭に被っていた着物の隙間から少女の顔が見える。
表情はない。何の感情も読み取れない顔をしているのに、涙が少女の頬を伝って床に落ちた。小刀を握りしめる手には力を込め、真っ白な雪のような前髪から覗く瞳は亜麻色。
誰であるのか、亜莉香には間違いなく答えられる。
ヒナさん、と囁いた声が、目の前の少女に届くことはなかった。




