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Last Crown  作者: 香山 結月
第3章 雪明かりと蠟梅
279/507

56-5

 両腕で瞳を覆っていた腕を外せば、地面に触れていた足の感覚が消えていた。


 ゆっくりと瞼を開けると、真っ赤な布が目に焼き付いた。端には梅の花の刺繍が施された布は丸いテーブルを覆い、その上にはお茶の用意が整っている。色とりどりのベリーが乗ったタルトに、ホールで用意された苺のショートケーキ。真っ白な皿とティーカップ、ティーポットは梅の花が描かれて、正面に座っている叶詠が紅茶を注ぐ。


 注いだ途端に、梅の香りが充満した。

 見上げれば梅の花が咲き乱れる木の下にいて、空高くは爽やかな青。地面は芝生に変わり、温かな春の風が髪を撫でた。

 手にしていた梅の形の石を膝の上に置き、座り直した亜莉香は問いかける。


「もう逃げないのですか?」

「一時休憩。そろそろ疲れたでしょう?」


 疲れたかと問われると、どちらとも言えない。叶詠を追いかける過程で走り回ったが、つい先程までは階段に座って十分休憩した。


 差し出されたティーカップから、熱い湯気が出る。

 口を付けるか迷ってテーブルに置くと、日陰を作っていた梅の木から花びらが零れ、ティーカップの傍に舞い落ちた。ちらっと叶詠を伺うと、片手でティーカップを優雅に口元に運び、口を付けた途端に声を上げる。


「熱い!」

「…大丈夫ですか?」


 落ち着いて訊ねた亜莉香を見ずに頷き、叶詠は何度も頷いた。十分に紅茶を冷ましてから、今度は両手で持って、喉を潤して口を開く。


「紅茶は嫌い?」

「そういうわけではないのですが、ここは夢の中ですよね?」

「夢だからこそ、想像すれば何だって生まれるの。欲しいと思えば、これ以上のお菓子だって用意出来るし、別の場所にも行ける」


 叶詠がほっと息を吐き、頭の上でお腹の鳴った音が聞こえた。可愛らしい音と共に、テーブルの筈に大きなおにぎりが乗った皿が現れる。


「ありかー」


 おねだりする声がして、亜莉香は椅子を引いた。軽く頭を下げると、フルーヴは頭から落ちて、膝の上に着地した。一瞬で女の子の姿に変わって、座り直してから見上げる。

 食べていいか、輝いている瞳に、亜莉香は小さくも首を縦に振った。


「食べ過ぎないで下さいね」

「うん!」


 膝の上でフルーヴが立ち上がる前に、亜莉香が皿を取って、おにぎりを手渡した。美味しそうに頬張れば、おにぎりの中身はフルーヴのお気に入りの鮭。

 もぐもぐ食べ始めたフルーヴを見て、叶詠は微笑む。


「精霊と言う存在が、そんな風に食事をするのは初めて見た」

「叶詠さんも、精霊が見えていたのですね」

「呼び捨てでいいよ。亜莉香に見てもらった通り、私は精霊の姿が見えていて、先読みと呼ばれていた」


 ティーカップを置いて、立ち上がった叶詠がタルトに手を伸ばした。

 先にタルトを切り分けて、その次にショートケーキも切り分ける。自分の分と亜莉香の分を綺麗に皿に盛りつけて、差し出された皿を受け取りながらお礼を言う。


 ラズベリーとブルーベリー、ブラックベリーが山盛りになったタルトは、とても美味しそうに見えた。一口サイズに切って口に運べば、ベリーは甘酸っぱくて、タルト生地は微かに甘くて香ばしい。

 美味しい、と零れた亜莉香の本音を聞き逃さず、叶詠は嬉しそうに話し出す。


「どっちも私のお気に入りなの。食べながら、少し話を聞いてくれる?」

「はい」

「叶詠が生まれたのは二十年前。両親がお茶屋を営む、それなりに裕福な家庭で育ち、姉が二人いた。三女である叶詠だけ身体が弱かったけど、十歳頃までには普通の子供と同じくらいの体力はあって、西市場の中で元気に遊び回っていた」


 過去形で話す叶詠は視線をケーキに向けたまま、亜莉香は黙って耳を傾ける。


「市場の中で鬼ごっこも、かくれんぼもした。仲の良い友人達がいて、二つ上の姉を入れた五人で毎日騒いでいたの。ある年に灯籠祭りの姫巫女に選ばれて、周りには隠していたけど恋人がいて、優しい人達に恵まれた人生を過ごした――それが私」


 カツン、とフォークが皿に当たった。力がこもって大きめに切り分けたショートケーキを食べる叶詠に、姿勢を正した亜莉香は問う。


「今目の前にいる叶詠…は、何者ですか?」


 呼び捨てに慣れなくて、微妙な間が入った。

 表情を曇らせたようにも見える叶詠が手を動かして、無言を貫く。今まで見た過去と、亜莉香が見聞きした記憶を合わせて、質問を重ねる。


「数年前に灯籠祭りの姫巫女に選ばれて、自ら命を絶った方がいたそうです。その方がシンヤさんの想い人だと聞きました。その方は亡くなったはずなのに、夢の中とは言え目の前にいる。貴女は何者ですか?」


 微笑むのをやめて、顔を上げた叶詠は、真剣な亜莉香の表情を瞳に映した。


「自ら命を絶ったとも言えるし、殺されたとも言える」

「殺された?」

「当時のことは後で教える。以前の私は確かに庶民から姫巫女に選ばれて、貴族から苛められたけど、それは未来に起こる最悪に比べたら小さなことだった」


 何かを思い出すように瞼を閉じ、紅茶の水面を見つめた声が続く。


「私がシンに話した未来は訪れて、私は死んだ。探していた精霊は結局見つからなかったけど、協力者を得て、私は生まれ変わった」


 すっと顔を上げた叶詠の言葉を、亜莉香は口を閉ざして待つ。

 フルーヴは食べるのに夢中で、この場には亜莉香と叶詠しかいない。僅かに風が吹けば梅の花がテーブルに落ちて、花びら一枚が手を付けていなかった紅茶の水面を揺らした。


「今の私の名前は、梅」

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