56-3
痛みは襲ってこなくて、ゆっくりと瞼を開く。
真っ白い世界は前の夢と同じで、無事であることに安心して息を吐く。ふわふわと身体は浮いて、僅かに動けば、自然と体の向きが変わった。
そのタイミングで足が地面に触れて、ぽつりと、傍に雨が落ちた。
ぽつぽつと降り出した雨が、景色を生み出していく。
亜莉香に雨が当たっても何も感じないが、雨が滴る屋根の下で雨宿りしている少年少女は違う。しゃがんでいる叶詠と、小さな子犬を抱えて立つサクマがいて、どちらも降り止まない曇天の空を見上げていた。
「止まないね」
「ノエが急に走り出さなければ皆とはぐれなかったし、雨宿りする必要もなかったのに」
「仕方ないじゃない。私を呼ぶ声がしたのだもの」
悪びれなく言った叶詠は空を見上げたままで、サクマは抱えている子犬を見下ろした。
先程より少し大人びた二人はびしょ濡れで、路地裏にいた。人踊りがなく、どこの路地裏なのかは亜莉香には判断できない。
灯籠を持っている叶詠の姿は見当たらなかった。
雨の湿った匂いがして、二人が黙ると話し声がなくなる。子犬が寒そうに鳴いて、サクマが優しく抱きしめた。
そっと叶詠が瞳を伏せて、静かに話し出す。
「私が見つけなかったら、その子は死んでいたよ」
「それは分からないだろ。僕達が見つけなくても、他の誰かが見つけたかもしれない」
「それこそあり得ない。その子を見つけるのは私とサクで、その子を家に連れて帰ったサクは最初こそ両親に反対されるけど、何度も頭を下げて飼うことを許可してもらうの。その子はサクを凄く慕って、数年後には立派な子になるよ」
断定した叶詠の瞳は真っ直ぐに前を見て、サクマが遠慮がちに問う。
「それは…いつもの予感?」
「そうだよ。そんな気がしたの。だから私は呼ばれて走って、皆とはぐれて、こうして雨宿りをしているの。あーあ、ナギがいれば雨除けしてもらうのに」
途中から明るく言って、叶詠は立ち上がった。
濡れてしまった着物や袴を見下ろして、ふっと笑みを零すとサクマを振り返る。
「ごめんね。一緒にいるのがアキ姉さんじゃなくて」
鳩が豆鉄砲を食らったような顔になったサクマに、叶詠が追い打ちをかける。
「早く私にお兄さんと呼ばれるといいね」
「な、何の話かな?」
「はっきり言っていいの?サクがアキ姉さんに恋をしていると――」
「うわー!」
裏返ったと思ったら叫んだサクマの声に、腕の中の子犬が驚いた。
叶詠は可笑しそうに右手を口元に寄せて、笑みを隠して、そっぽを向く。肩を震わせて笑う姿にサクマが詰め寄り、大慌てで口を開く。
「ちょ、いつ!いつから気付いていた!」
「結構前から。安心してよ。誰にも言っていないし、まだアキ姉さんもナギも気付いていない。あ、でも馬鹿は気付き始めているかも?」
「シンヤ様が!?」
嘘であった欲しいと願うサクマに、叶詠が微笑んで見せた。耳を赤くしたサクマがずるずると蹲り、子犬の身体に顔を埋めて呟く。
「最悪だ」
「いいじゃない。私は別に反対していないよ。今のところはお似合いだと思っていて、サクより素敵な人が現れるまでは応援してあげる」
「いや、何もしなくていいから」
即答して、真顔になったサクマが叶詠を見上げた。
「今までの経験上、ノエやシンヤ様が手出して良かったことがない。何もしないでいてくれた方が、まだましだよ」
「それだと延長線上で、進展もしなければ後退もしないに一票」
「ノエの予感は当たるから怖い」
ため息をついたサクマが言い、子犬を撫でながら続ける。
「でも、さ。やっぱり今は手出しをしないで欲しい」
「どうして?」
「現状で満足しているから」
本心からの言葉を受け取って、叶詠はサクマを見下ろした。サクマは子犬を撫でていて気付かないが、叶詠の表情は消えた。
音を立てずに建物の外壁に寄りかかり、叶詠は小さく問いかける。
「サクマは、ずっと今のままでいたいのね?」
「ずっとは無理だろうな。俺やナギトは警備隊に入るつもりだし、シンヤ様はあれでも領主の息子。今は皆で遊べても、一年後には別々の場所にいる可能性が高い。ノエの言う通り、チアキの前には僕より素敵な人が現れるかもしれない。ずっとは無理でも、今だけの時間を大切にしたい」
潤んだ瞳の子犬を抱えて、笑みを浮かべたサクマは顔を合わせた。
雨は降り止まない。不規則な雨音が響いて、叶詠が雨の中に一歩を踏み出す。サクマが引き戻そうとする声を無視して、両手を広げて全身で雨を浴びた。
亜莉香の位置からは背中しか見えない叶詠は、はっきりと言う。
「変わらない日々なんて、ないよ」
「ノエ?」
「皆でいられたら、それは幸せだとは思う。でもね、サク。忘れちゃ駄目。この雨がもうすぐ止むように、私達は変わっていく。変わった先が幸せであるように、今の時間を大切にしながら前に進まなくちゃ」
雨なのか。涙なのか分からない雫が頬を伝う叶詠は振り返って、幸せそうに微笑む。
「前に進むことが困難でも、皆がいて一人じゃない。前に進んだ先に、きっと幸せはある。その幸せは望んでいたものとは違うかもしれない。気付きにくい幸せかもしれないけど、顔を上げれば見つけられる」
両手を後ろに回したノエに、雲の隙間から注いだ太陽の日差しが降り注いだ。
サクマと子犬は屋根の影で雨が降り続けているのに、叶詠を中心とした一カ所だけ明るい。雨の雫すら太陽に光で輝いて、光の中で叶詠は続ける。
「私達は誰だって幸せになれるよ」
「…そっか」
「幸せを、自分から手放さないでね。私は欲張りだから、いつだって自分で幸せを掴みに行くけれど。サクと違って、自分の想いは伝えに行くけど」
「え、誰に?」
途中で変わった話に驚いたサクマに、叶詠は意地悪な笑みを見せた。それ以上の追求を察して、どこかに続いている路地に目を向ける。
遠くから叶詠とサクマを呼ぶ、誰かの声がした。
シンヤの声が路地に響き、叶詠の姿を見つけるなり大きく手を振る。近くにチアキとナギトの姿はなくて、手を振りながら満面の笑みで悠々と歩いていた。
濡れているのに、シンヤは楽しそうにも見えた。そのシンヤに向ける叶詠の横顔に、サクマは気持ちを悟った。子犬を濡らさないように腕で庇いながら、前に出て隣に並ぶ。
「そういうこと?」
「そういうこと。知らなかったでしょう?」
シンヤから目を逸らさずに、堂々と叶詠は言った。
雨が少しずつ弱まって、呆れたサクマも近づいて来るシンヤを眺める。
「いつも喧嘩ばかりしていたくせに。初対面の時なんて最低最悪だと、今でも口にしているくせに」
「嫌い嫌いも、好きのうち。皆が知らないだけで、私達は何度も二人で出掛けている」
「本当に?」
「嘘。それは未来の予定なの」
叶詠の冗談に、サクマは安堵の息を吐いた。
雨が止む。日が差して、辺りが明るくなる。シンヤが傍にやって来る前に、叶詠はサクマにしか聞こえない小さな声で囁いた。
「私はシンが好き」




