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Last Crown  作者: 香山 結月
第3章 雪明かりと蠟梅
277/507

56-3

 痛みは襲ってこなくて、ゆっくりと瞼を開く。


 真っ白い世界は前の夢と同じで、無事であることに安心して息を吐く。ふわふわと身体は浮いて、僅かに動けば、自然と体の向きが変わった。

 そのタイミングで足が地面に触れて、ぽつりと、傍に雨が落ちた。


 ぽつぽつと降り出した雨が、景色を生み出していく。

 亜莉香に雨が当たっても何も感じないが、雨が滴る屋根の下で雨宿りしている少年少女は違う。しゃがんでいる叶詠と、小さな子犬を抱えて立つサクマがいて、どちらも降り止まない曇天の空を見上げていた。


「止まないね」

「ノエが急に走り出さなければ皆とはぐれなかったし、雨宿りする必要もなかったのに」

「仕方ないじゃない。私を呼ぶ声がしたのだもの」


 悪びれなく言った叶詠は空を見上げたままで、サクマは抱えている子犬を見下ろした。

 先程より少し大人びた二人はびしょ濡れで、路地裏にいた。人踊りがなく、どこの路地裏なのかは亜莉香には判断できない。


 灯籠を持っている叶詠の姿は見当たらなかった。

 雨の湿った匂いがして、二人が黙ると話し声がなくなる。子犬が寒そうに鳴いて、サクマが優しく抱きしめた。

 そっと叶詠が瞳を伏せて、静かに話し出す。


「私が見つけなかったら、その子は死んでいたよ」

「それは分からないだろ。僕達が見つけなくても、他の誰かが見つけたかもしれない」

「それこそあり得ない。その子を見つけるのは私とサクで、その子を家に連れて帰ったサクは最初こそ両親に反対されるけど、何度も頭を下げて飼うことを許可してもらうの。その子はサクを凄く慕って、数年後には立派な子になるよ」


 断定した叶詠の瞳は真っ直ぐに前を見て、サクマが遠慮がちに問う。


「それは…いつもの予感?」

「そうだよ。そんな気がしたの。だから私は呼ばれて走って、皆とはぐれて、こうして雨宿りをしているの。あーあ、ナギがいれば雨除けしてもらうのに」


 途中から明るく言って、叶詠は立ち上がった。

 濡れてしまった着物や袴を見下ろして、ふっと笑みを零すとサクマを振り返る。


「ごめんね。一緒にいるのがアキ姉さんじゃなくて」


 鳩が豆鉄砲を食らったような顔になったサクマに、叶詠が追い打ちをかける。


「早く私にお兄さんと呼ばれるといいね」

「な、何の話かな?」

「はっきり言っていいの?サクがアキ姉さんに恋をしていると――」

「うわー!」


 裏返ったと思ったら叫んだサクマの声に、腕の中の子犬が驚いた。

 叶詠は可笑しそうに右手を口元に寄せて、笑みを隠して、そっぽを向く。肩を震わせて笑う姿にサクマが詰め寄り、大慌てで口を開く。


「ちょ、いつ!いつから気付いていた!」

「結構前から。安心してよ。誰にも言っていないし、まだアキ姉さんもナギも気付いていない。あ、でも馬鹿は気付き始めているかも?」

「シンヤ様が!?」


 嘘であった欲しいと願うサクマに、叶詠が微笑んで見せた。耳を赤くしたサクマがずるずると蹲り、子犬の身体に顔を埋めて呟く。


「最悪だ」

「いいじゃない。私は別に反対していないよ。今のところはお似合いだと思っていて、サクより素敵な人が現れるまでは応援してあげる」

「いや、何もしなくていいから」


 即答して、真顔になったサクマが叶詠を見上げた。


「今までの経験上、ノエやシンヤ様が手出して良かったことがない。何もしないでいてくれた方が、まだましだよ」

「それだと延長線上で、進展もしなければ後退もしないに一票」

「ノエの予感は当たるから怖い」


 ため息をついたサクマが言い、子犬を撫でながら続ける。


「でも、さ。やっぱり今は手出しをしないで欲しい」

「どうして?」

「現状で満足しているから」


 本心からの言葉を受け取って、叶詠はサクマを見下ろした。サクマは子犬を撫でていて気付かないが、叶詠の表情は消えた。

 音を立てずに建物の外壁に寄りかかり、叶詠は小さく問いかける。


「サクマは、ずっと今のままでいたいのね?」

「ずっとは無理だろうな。俺やナギトは警備隊に入るつもりだし、シンヤ様はあれでも領主の息子。今は皆で遊べても、一年後には別々の場所にいる可能性が高い。ノエの言う通り、チアキの前には僕より素敵な人が現れるかもしれない。ずっとは無理でも、今だけの時間を大切にしたい」


 潤んだ瞳の子犬を抱えて、笑みを浮かべたサクマは顔を合わせた。

 雨は降り止まない。不規則な雨音が響いて、叶詠が雨の中に一歩を踏み出す。サクマが引き戻そうとする声を無視して、両手を広げて全身で雨を浴びた。

 亜莉香の位置からは背中しか見えない叶詠は、はっきりと言う。


「変わらない日々なんて、ないよ」

「ノエ?」

「皆でいられたら、それは幸せだとは思う。でもね、サク。忘れちゃ駄目。この雨がもうすぐ止むように、私達は変わっていく。変わった先が幸せであるように、今の時間を大切にしながら前に進まなくちゃ」


 雨なのか。涙なのか分からない雫が頬を伝う叶詠は振り返って、幸せそうに微笑む。


「前に進むことが困難でも、皆がいて一人じゃない。前に進んだ先に、きっと幸せはある。その幸せは望んでいたものとは違うかもしれない。気付きにくい幸せかもしれないけど、顔を上げれば見つけられる」


 両手を後ろに回したノエに、雲の隙間から注いだ太陽の日差しが降り注いだ。

 サクマと子犬は屋根の影で雨が降り続けているのに、叶詠を中心とした一カ所だけ明るい。雨の雫すら太陽に光で輝いて、光の中で叶詠は続ける。


「私達は誰だって幸せになれるよ」

「…そっか」

「幸せを、自分から手放さないでね。私は欲張りだから、いつだって自分で幸せを掴みに行くけれど。サクと違って、自分の想いは伝えに行くけど」

「え、誰に?」


 途中で変わった話に驚いたサクマに、叶詠は意地悪な笑みを見せた。それ以上の追求を察して、どこかに続いている路地に目を向ける。


 遠くから叶詠とサクマを呼ぶ、誰かの声がした。

 シンヤの声が路地に響き、叶詠の姿を見つけるなり大きく手を振る。近くにチアキとナギトの姿はなくて、手を振りながら満面の笑みで悠々と歩いていた。

 濡れているのに、シンヤは楽しそうにも見えた。そのシンヤに向ける叶詠の横顔に、サクマは気持ちを悟った。子犬を濡らさないように腕で庇いながら、前に出て隣に並ぶ。


「そういうこと?」

「そういうこと。知らなかったでしょう?」


 シンヤから目を逸らさずに、堂々と叶詠は言った。

 雨が少しずつ弱まって、呆れたサクマも近づいて来るシンヤを眺める。


「いつも喧嘩ばかりしていたくせに。初対面の時なんて最低最悪だと、今でも口にしているくせに」

「嫌い嫌いも、好きのうち。皆が知らないだけで、私達は何度も二人で出掛けている」

「本当に?」

「嘘。それは未来の予定なの」


 叶詠の冗談に、サクマは安堵の息を吐いた。

 雨が止む。日が差して、辺りが明るくなる。シンヤが傍にやって来る前に、叶詠はサクマにしか聞こえない小さな声で囁いた。


「私はシンが好き」

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