56-1
明日に備えて早く寝たのに、不意に息苦しくなって目が覚めた。
顔を覆う毛並みは覚えがあり、手探りで顔に乗っている小さな兎を持ち上げる。瞬きを繰り返した亜莉香の瞳には、さっきまで顔の上で寝そべっていたフルーヴの姿が映った。首根っこを掴まれているにも関わらず、寝息を立てて全く起きる気配がない。
肩の力を抜きながら、横向きになってフルーヴを傍に置いた。
やけにベッドが固いと思えば、布団の上に置いたはずのフルーヴの奥に牡丹の花の模様が浮かぶ灯籠を見つける。瞬時に居場所を把握して、亜莉香は勢いよく起き上がった。
眠気が覚めた瞳を擦っても、目の前には闇が広がっていて景色は変わらない。
夢の中で意識がある状態には慣れたはずなのに、現状に驚いて辺りを見渡した。今回は気が付いたら過去の光景を見ていた、なんてことはないようで、静寂と暗闇しかない。
何故かフルーヴが一緒に居るのが、とても不思議だった。
ひとまずピヴワヌを呼ぼうと口を開く前に、肩を叩かれて勢いよく振り返る。
「ごめんなさい。驚かせちゃった?」
全く知らない少女が後ろに立っていて、深紅の瞳に寝間着姿の亜莉香を映した。
猫のように大きく、丸い瞳。血の気のない肌で、下ろしている前髪が眉毛より短い。紅梅の花のような色合いの紫がかった桃色の髪は腰より長く、髪飾りを一つも付けていなくて、毛先だけはねている。純白の着物に緋袴を合わせた姿は、裳を付けてしまえば、まるで灯籠祭りの時に舞を披露する姫巫女の衣装のようにも見えた。
愛らしい表情で微笑む少女の年は、亜莉香とあまり変わらない。
少女はゆっくりと亜莉香の前に移動して、腰を下ろして嬉しそうに言う。
「やっと会えたね。牡丹の紋章を受け継ぐ者さん。それとも、瑠璃唐草の紋章を宿す者さんと呼んだ方がいい?」
「…あの、貴女は?」
「呼び方より、私の方が気になる?聞かれたなら答えましょう。さらさらで美しい髪と、誰もが振り返る美貌を持ち、時には幻想的な火の魔法を操って人々を惑わせた美少女。そう、それが私!」
あまりにも熱がこもった自画自賛に、亜莉香は呆気に取られた。
座ったままでも少女は胸を張り、右手を心臓付近に当てている。聞いていないことを話してくれたが、肝心な答えを聞いていない。
「えっと…お名前は?」
「ノエよ。何かを叶えるに、詩歌をうたう意味を持つ、言うと永遠の永を合わせた二文字。願いを叶えて歌を詠うで、叶詠」
宙で描くように、叶詠が指を動かした。現れ揺れたのは、叶詠、の二文字。温かく儚なくて、淡く赤い光は水に溶けるように、あっという間に消えてしまう。
魔法の仕業かと考えていると、叶詠が口角を上げた。
「貴女の名前は?」
興味津々で訊ねられて、亜莉香は少し考えてから口を開く。
「アリカです。唖然の左側に、草冠に利口の利、香りの三文字を組み合わせて、亜莉香」
難しい説明だったかな、と思ったのは杞憂で、叶詠は自分の名前と同じように宙に文字を描いた。間違えることなく、亜莉香、と描き、にっこりと笑う。
「間違っていない?」
「はい、合っています」
きちんと説明して通じたのは初めてで、亜莉香の文字もすぐに消えた。
安心したように叶詠は胸を撫で下ろして、ほっと息を吐く。
「記憶に間違いがなくて良かった。もっと難しい字を言われたら、流石に分からなかったかもしれない」
「難しい字、ですか?」
「魑魅魍魎とか、欝憤とか。画数多い字は読めても書けない」
肩を竦めて見せた叶詠が言った漢字を、亜莉香は頭の中に思い浮かべた。
その漢字を使った名前は、すぐに出て来ない。よく知っているなと感心していると、叶詠が寝ているフルーヴに視線を向けていた。
優しい笑みを零して、そっと右手を伸ばして毛並みを撫でる。
撫でられたフルーヴは小さく唸って、寝ぼけた顔で目を開けた。叶詠を見て、亜莉香の姿を探し出して、のそのそと動き出す。亜莉香の膝の上に収まると身体を丸めて、気持ちよさそうな呼吸に戻った。
宙に浮いていた手を戻して、叶詠は膝を抱えて亜莉香に微笑む。
「やっぱり貴女の方が精霊に好かれるみたい」
「やっぱり?」
「気にしないで。挨拶はここまでにして、追いかけっこをしましょう!」
気を取り直した叶詠が立ち上がって、亜莉香は座ったまま顔を上げた。
いつの間にか叶詠の左手には灯籠があり、見せつけるように揺らして話す。
「私が逃げる側で、亜莉香達は追う側ね。灯籠を取り返したら終了で、私が逃げる範囲は夢の中。安心して、夢の中なら亜莉香の身体に危害が及ぶことはない」
「今?」
「そう、今この夢の中で。他の人は呼んじゃ駄目だよ。亜莉香とその子で、私を捕まえないと灯籠は永遠に返してあげない」
にっこりと笑った叶詠がはっきりと言い、灯籠を隠すように後ろに回した。
その子、と指し示したのは寝ているフルーヴであり、呼ぼうと思っていたピヴワヌを呼ぶのは躊躇した。灯籠が亜莉香にとって大切なものか、問われれば肯定も否定も出来ないのに、取り返さなくてはいけない気持ちが芽生える。
寝ているフルーヴを起こさないように、亜莉香は両手で抱えて立ち上がった。
叶詠が一歩下がって、楽しそうに言う。
「制限時間はなし。ちゃんと私を追いかけて、しっかり捕まえてね」
「分かりまし――」
「じゃあ、始め!」
「え!」
真剣な顔で亜莉香が頷くより早く、叶詠は踵を返して駆け出した。
闇の中でもはっきりと見える背中には迷いがなく、真っ直ぐにどこかへ進む。慌てて亜莉香が追いかけても、その背中には簡単に辿り着けない。どこに誘われているのか分からないまま後を追えば、微かに梅の匂いがした。




