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Last Crown  作者: 香山 結月
第3章 雪明かりと蠟梅
272/507

55-3

 灯と出会った日を一日目と数えると、ヒナと出会った翌日は五日目だった。


 二日目から宿での生活で、三日目にトシヤ達に会いに行って、四日目にヒナと取引をした。雪が降り積もるように問題ばかりが増えていき、五日目にして重大なことを思い出す。

 先に朝食を食べ終わった亜莉香は、熱い湯呑を両手で包んだ。


「ピヴワヌ、そろそろ仕事に支障が出そうです」

「朝ご飯を食べ終えたと思ったら、急に何の話だ」


 お椀を持ったままのピヴワヌの箸が止まって、呆れた表情を浮かべた。

 湯呑を膝の上に下ろした亜莉香は顔を上げ、実は、と小さく話し出す。


「ケイさんのお店に納める着物が、部屋に置きっぱなしです。明日までに納める予定でしたので、出来たら今日中に届けに行かなくてはいけません」

「何故に今、それを思い出した?」

「だって今日は、特にやることがないですよね?」


 何を今更と言わんばかりに首を傾げると、何とも言えないような顔を返された。

 暫し無言の空気になり、ピヴワヌは残っている朝食を口に運ぶ。亜莉香の言ったことなど聞かなかったことにしようとする雰囲気に、ひとまず温かい煎茶で喉を潤した。


 ヒナとの合流は、明日の正午に中央通り。

 下準備の時間が一日欲しいと言われ、反対する理由がなかった。アンリを守るために出来ることはしようと、昨晩はピヴワヌの曖昧な記憶を頼りに魔法薬を作ったが、どれだけ頭を捻っても亜莉香には出来ることが限られている。


 今更身体を鍛えても遅く、ヒナから得た情報は全て暗記した。

 今朝は時間をかけて朝食を食べる余裕があり、トウゴは朝早くから街の様子を見に出かけて、お供にフルーヴが付いて行った。


 部屋に残されたのは亜莉香とピグワヌで、目の前には朝食の重箱。

 床に大きな布を敷いて食事をするのは、宿の中と言え、どこから情報が洩れるか分からないからだ。十分な警戒をして、人の目から遠ざかり、食事は部屋で済ませて、外に出る時は頭に着物を被って顔を見られないように意識する。

 どれだけ食事の量が多くても、ピヴワヌはなんだかんだ言って食べ残さない。

 その見事な食べる様子を眺めてから、亜莉香は窓際に視線を向けた。


 窓の縁に並んでいるのは三つの小瓶で、それぞれ色が違う。

 右から澄んだ菫色の液体と、水飴のようなやわらかい赤みの黄色である飴色。無色透明で水にしか見えない液体が入った小瓶を見ると、僅かに口角が上がってしまった。


「丁度、素敵な魔法薬があります」

「今日の為に作ったわけじゃない」

「折角作ったのですから、効果があるか試してみませんか?右端の若返りの薬で子供の姿になれば、誰にも警戒心は抱かれません。中央の惚れ薬で市場の人に好意を抱いて頂ければ、色んな話が聞きやすいです。まあ、左端の効果不明の魔法薬は使い道に悩みますが」


 実際に何が起こるのか。

 一つだけ分からない小瓶に対して、少し困った声で言った。魔法薬の効果に興味のある亜莉香の心情が伝わっても、ピヴワヌは素っ気なく言う。


「左端の小瓶の中身は、お主とトウゴが勝手に色々混ぜた薬だろう。魔法薬と呼べた代物じゃない。そもそも効力が分からない魔法薬を作った挙句、よく毒味をしようと思ったな」

「寧ろ、作った責任で毒味はするべきかと」

「そうやって首を突っ込むから、お主の周りでは厄介事が起こるのだ。途中で爆発しなくても、毒味をする考えに至る前に捨てるべきだったか」


 深いため息を零されても、亜莉香は笑みを浮かべた。

 飲むな、とは言われていない。にこにこと笑って、塩おにぎりや漬物、焼き魚などの和食で統一された朝食で、ピヴワヌが腹を満たすのを待つ。

 重箱は綺麗になり、箸を置いたのを見て、半分程度だった湯呑に温かい煎茶を注いだ。


「今日は、右端の薬だけにしとけ」

「明日以降なら、他の二つも試しても?」

「暫くは儂の許可なく魔法薬を飲むな。調子に乗って飲んで、後で巻き込まれたくはない」


 渋々と、ピヴワヌは魔法薬を飲む許可を出した。

 熱い湯呑を差し出しながら、亜莉香は訊ねる。


「因みに、若返りの薬は一口でも十分ですか?」

「あれなら一滴でも十分だ。多く飲んでも効果は変わらない。せいぜい五歳程度、見た目が変わって、五時間後には効力が切れるように作ってある」


 湯呑を受け取ったピヴワヌは首を動かし、昨晩苦労して作った小瓶を瞳に映した。

 最初こそ邪魔をしないように、亜莉香は黙って魔法薬作りを見ていたが、途中からトウゴが口を挟み、ピヴワヌに怒られた記憶もある。そのせいで一つだけ効果不明の薬が出来上がったが、昨晩の時点では誰も飲んでいない。


 本当に何が起こるか不明で、いつ使えるかも未定の薬。

 どんな効果があるのか。試せるなら試したいと思いつつ、ピヴワヌに従って安易に魔法薬に手を出さないことを心の中で誓った。


 もう少ししたら若返りの薬を飲むことにする。

 出掛ける手前かなとも考えていると、先にピヴワヌが立ち上がった。

 窓際まで行くと菫色の小瓶を手に取り、戻って来たかと思えば、亜莉香が手にしていた湯呑に数滴垂らす。薬を入れられたのを見ていなければ、魔法薬が入っているとは思えないほど、かき混ぜなくても煎茶の色に混ざって消えた。

 湯呑と唇を少し尖らせたピヴワヌを見比べて、亜莉香は問う。


「さっさと飲んで出掛けるぞ、と言う意味でよろしいですか?」

「阿保なことをするなら、さっさと終わらせるぞ、と言う意味だ」


 しっかりと小瓶の蓋を閉めたピヴワヌの言い分に、笑みは零れて肩を震わせた。

 面倒見が良くて、亜莉香の意思を尊重してくれる寛大さに感謝する。

 湯呑を口元に近づければ、微かに菫の匂いがした。きつい匂いではなく、見た目は煎茶にしか見えない水面を覗き込む。子供の姿になってピヴワヌと一緒に街を歩く姿を想像すると楽しみで、わくわくしながら口に含んだ。






 子供用の着物と履物は、宿の従業員に頼んだら快く用意してくれた。

 お礼に多めにお金を手渡して、亜莉香は宿を出てから真っ直ぐに家に向かった。

 雪が止んだ住宅街を並んで歩くのは、同い年くらいにしか見えない十歳程度の少年。深い赤の髪でルビー色の瞳の少年は、無地の茶色の着物に同じ色の靴を履いている。


 その隣を歩く亜莉香の姿は、少年と同じ紺色の帯をした着物姿。

 薄い黄色と白を混ぜた着物地に、目立つように描かれているのは大輪の真っ赤な椿の花。寒いからと言う理由で頭には無地の深く赤い着物を被り、足元の靴は黒。

 肩より少し長い黒い髪を揺らしながら、上機嫌で口を開く。


「ピヴワヌ、楽しいですね」

「転ぶなよ、アリカ」

「分かっていますって――あ、こんにちは」


 家の前の雪かきをしていた人に軽く頭を下げれば、にっこりと笑って挨拶を返された。

 見た目が変わって、誰にも怪しまれずに堂々としていられる。それは亜莉香だけの話ではなく、両腕を頭の後ろに回して歩くピヴワヌにも言えた。


 髪の色を変えて、着物も普段とは違う。

 冷えた両手に息を吐きながら、亜莉香は満足して言う。


「こうやって姿を変えると、誰にも気付かれないものですね」

「今のお主は子供の姿だからな。灯とは似ても、同じとは思わん」

「そうですよね。ですがピヴワヌまで着物を替えたり、髪の色を変えたりしてくれるとは思いませんでした。瞳の色も変えられるのですか?」

「出来ないことはないが、意識して変えると疲れるのだ。髪の色だけで勘弁しろ」


 深いため息をついて、ピヴワヌは前を見ながら足を動かした。

 亜莉香を置いていかないように歩幅を合わせて、一人分の距離も置かずに隣にいる。転びそうになったり、人にぶつかりそうになったりすれば手を差し伸べてくれる。

 姿は変わっても態度は変わらなくて、ピヴワヌを横目に微笑んだ。


「まさか、子供の姿で一緒に歩く日が来るとは思いませんでしたね」

「…そうだな」

「今の間は何ですか?」

「気にするな。それよりさっさと家に戻って、仕事を取って納めに行くのだろう?まだ午前中とは言え、油断して誰かと鉢合わせるのは避けるぞ」

「そうですね。まだ会わせる顔がないので、その方が有難いです」


 今度はピヴワヌが横目に見て、亜莉香は視線を逸らした。

 宿を出る時は、ちらほら降っていた雪が止んだ道は白い。誰も踏んでいなければ真っ白で、誰かが通れば道が現れて、どこまでも行ける気がした。

 誰もいないはずの家を思い浮かべ、不意に訊ねる。


「家に帰っても、灯さんはいませんよね?」

「そのはずだ。まあ、儂には灯が家に寄りつかない理由が分かる気がするが」

「どうして、ですか?」


 ピヴワヌには分かっても、亜莉香には全く分からない。

 目が合って、お互いに何となく歩く速度と声を落とした。


「あの家は光の力が強すぎる。そのせいだ」

「光が強すぎることが、灯さんにも影響するのですか?」

「あの灯が作られた存在なら、その根本には闇の魔法がある。あの家は幾重にも結界を張り、闇を遠ざけ、住人を守るため光に満ちた場所。光の力には、あの灯には耐えられなかったと考えれば良い」


 淡々とした説明に耳を傾け、灯の存在を思い出す。

 頬を伝った涙は美しく、悲しそうに泣いていた。本来は生きる屍として感情がないとしても、その身に宿る感情が亜莉香の魔力を奪ったせいだとしても、芽生えた心を奪うのは正しいのか。


 居場所を奪わないで、と灯は訴えた。


 灯の意思を想って黙れば、ピヴワヌが立ち止まり、亜莉香も足を止めて顔を上げた。見慣れたはずの一軒家に目を奪われて、考えていたことを頭の隅に追いやった。


 垣根で囲まれた、煉瓦造りの赤い屋根の家。

 白や薄い灰色の外壁に、木製の玄関の扉や窓枠。小さな備え付けの庭があり、奥には枝垂れ桜があるが、今の季節は雪が積もって綺麗な雪景色になっていた。

 帰りたかった場所に、泣きたい気持ちを押し殺す。

 唇を噛みしめて、両手を強く握って、ゆっくりと息を吐く。


「…入りましょう」

「そうだな」


 踏み出した亜莉香の後に続いて、ピヴワヌも歩き出す。

 一歩歩くごとに玄関に近づき、恐る恐る扉に手を伸ばした。カチャ、と鍵が外れる音がして、ゆっくりと回す。当たり前のように扉が開き、たったそれだけで安心した。


「追い出されたわけではない、ですよね」

「当たり前だろ。儂らは一時的に家に帰ってないだけ、違うのか?」


 小さく零れた声にピヴワヌが答えて、隣に並ぶ。亜莉香の手に自分の手を重ねると、躊躇する暇もなく扉を開けた。


 目の前には階段があり、広い玄関がある。

 右手にある曇りガラスの扉の先には茶の間があり、左手の木製の二つの扉は、ルカとルイの部屋がある。靴を脱いで家に上がり、迷わず階段を目指した。


 階段を上って右手の奥に進み、玄関の扉同様に、少し緊張して扉を開ける。

 散乱しているぬいぐるみが置かれたベッドや、小さな丸椅子とセットの鏡台。鏡台の鏡の前の真っ赤な牡丹が描かれた布や、壁や天井や床の色が懐かしい。


 たった数日前は寝起きしていた部屋を見渡して、笑みを零した亜莉香は足を踏み出した。

 探し物は、ケイに仕立てを頼まれていた着物。箪笥の中に入れていた着物を取り出して、和紙で出来た紙に包み直し、雪で濡らさないように風呂敷で二重にする。

 慣れた手つきで一連の作業を行う亜莉香の背中に、腕を組んだピヴワヌが問う。


「取りに来たのは、それだけでいいのか?」

「頼まれていた仕事はこれだけです」

「そうじゃなくて、この部屋にはお主の大切なものが他にもあるだろ」


 寂しそうな声がして、振り返った亜莉香の瞳に鏡台を見つめるピヴワヌの姿が映った。

 仕事ではなく、亜莉香自身が大切にしていたもの。ユシアの部屋を借りている身なので、あまり物を増やさないようにしていても、少しずつ増えた大切なものは、隠すように鏡台の引き出しの一つに入れていた。


 部屋の入口から一歩も離れないピヴワヌの意思を受け取り、風呂敷を片手に持って、鏡台に足を運ぶ。引き出しを開ければ、白くて可愛い兎が描かれた大きめの四角い缶。

 丸椅子に風呂敷を置き、缶に手を伸ばす。

 そっと蓋を開けて、幾つかの品物を見下ろした。


「これは、私が持って行っても良いのでしょうか?」

「お主の物じゃないと思うのか?」


 優しく問われて、いいえ、と言いながら首を横に振った。

 初めてガランスを散策した時に、ユシアが買ってくれて滅多に使わない帯留め。トウゴから貰った歳時記の絵本。セレストの水花祭りの時に、ルカとルイから貰った青い薔薇の花びらを押し花にして、作った長方形のしおり。領主の娘であるアンリと、セレストに住んでいるカイリやメルと交わした手紙。近所に住む少年であるコウタの母親、ムツキから譲ってもらった紙と万年筆。

 トシヤから貰った花束をイメージした、勿忘草と同じ色の青いリボン。


 リボンを手に取れば、端に付けてある露草の飾りと桃色の雫の金具が揺れた。

 大切なもの。大切だから缶の中に隠して、誰にも見られないようにした。


「これは全部、私の大切なものです」

「なら持って行くべきだ。大切なものを、お主が手放す必要はない」


 力強い声に頷き、亜莉香は笑みを浮かべた。リボンを缶の中に戻して振り返る。


「ありがとうございます」

「儂は思ったことを言っただけだ。儂が着物を持って行くから、それは自分で持って行け。落とすなよ」

「一言多いのですよ」


 ピヴワヌは丸椅子の上にあった風呂敷を手に取った。

 背の高さの変わらないピヴワヌが着物の入った風呂敷を背負ったのを見て、亜莉香は首を回して、箪笥から一枚の風呂敷を借りることにした。


 箪笥の奥、きっとユシアが存在すら忘れている風呂敷を拝借して、丁寧に缶を包む。

 ピヴワヌと同じように背中に担ぐと、中の物が缶に当たった音がした。背中から聞こえる様々な音に楽しくなって、満面の笑みの亜莉香は肩を動かすのをやめる。

 一部始終を見て、冷ややかな瞳を浮かべていたピヴワヌを振り返った。


「何か言いたそうですね」

「子供だな」

「ピヴワヌだって、見た目は同い年ぐらいです。そろそろ家を出ないとまずいでしょうか?午後から天気も悪くなると、言っていましたよね?」


 数秒の無言があり、ため息が部屋に響く。


「昼過ぎには帰りたい。まずは家を出るぞ」

「分かりました。その前に、冷蔵庫の中も確認して帰りましょう。もしかしたら、ピヴワヌと仲直りするために作った甘酒が残っているかもしれません」

「もう仲直りはしただろ?それに残っていたとして、冷蔵庫の中が変わったら気付かない馬鹿はいまい。いや、あいつらは冷蔵庫の中身の確認をあまりしていなかったな」

「いつも私が冷蔵庫の中に食材を詰めないと、この家の冷蔵庫は寂しいですよね」


 他愛のない話をしつつ、亜莉香は先に踵を返したピヴワヌの後を追った。

 後ろで扉の閉まった音がして、振り返らずに階段を下りる。足取り軽い二つの足音は家の中に響き、最後の一段で足を踏み外しそうになった。

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