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Last Crown  作者: 香山 結月
第3章 雪明かりと蠟梅
271/507

55-2

 宿に戻って夕飯を食べた後、亜莉香は浴室にいた。

 腰を落として、小さな女の子の姿であるフルーヴの身体を膝の上に乗せて支える。亜莉香の脇には一枚の紙を片手に立つピヴワヌがいて、眉間に皺を寄せて難しい顔をしていた。


 小さな両手は白い湯船を満たす水面に触れ、淡く青い光を放つ。映っている浴室の天井は変わらず、ただいま、と部屋の扉の開く音がした。おかえりなさい、と亜莉香だけが振り返れば、開けたままの浴室の扉からトウゴが顔を覗かせる。


「帰ったよ。いやー、頼まれたものは買えるだけ買って来たけど――」


 立ち止まったトウゴの声が途中で消えて、澄んだ水色の瞳には亜莉香が映った。

 改めて自分の姿を見て、変な所がないことを確認する。伸ばしていた髪は肩より少し下の長さになって、髪飾りは何も付けない。

 顔は灯とそっくりでも、少しでも似ないように意識して髪を切った。

 トウゴの視線が釘付けになっていて、亜莉香は少し首を傾げる。


「似合っていませんか?」

「いやいや、似合っているよ。凄く似合っているけど…長い髪だって似合っていたのに、なんで髪を切っちゃったの?切る必要はなかったよね!?」


 風呂敷を片手に、驚くトウゴの声が部屋に響いた。 

 喫茶店を出ると同時に、ピヴワヌに買い物を頼まれたトウゴとは別れた。先に宿に着いたのは亜莉香とピヴワヌ、それからフルーヴで、夕食を食べ終えた後は浴室に籠っていた。

 ピヴワヌとフルーヴに至っては何も言わなかったので、少し考えて亜莉香は言う。


「まとめる髪飾りがなくなって、伸ばす必要はないかと思いました。それに灯さんと同じ髪の長さは嫌で、トウゴさんも数日前に髪を切りましたよね?あれと一緒です」

「絶対に違うでしょう。それにほら、俺と違って勿体ないと言うか――」

「動くのには邪魔になりますので。フルーヴ、水鏡は繋がりそうですか?」


 トウゴがもっと何かを言いたそうで、亜莉香は話題を変えることにした。

 瞳を輝かせて、水面を見つめる頭を見下ろす。何かを探しているのに見つけられず、口を尖らせたフルーヴが唸り声を出す。


「まだー」

「やっぱり、透との連絡は無理そうですね」

「そんな話よりアリカちゃんの話をしよう。俺で良ければ今すぐにでも髪飾り買って来るから、アリカちゃんは魔法で元の長さに戻す方法を探そうよ」

「落ち着け。夜遅くに空いている店はあるまい。フルーヴ、無理しなくていい」

「うー、わかったー」


 気が動転しているトウゴに返事をしたのはピヴワヌで、フルーヴは素直に両手を離した。

 セレストにいる透と連絡を取りたかったが、出来ないなら仕方がない。亜莉香の膝の上に座り直したフルーヴは不満そうで、慰めようと頭を撫でた。


 肩の力を抜いたフルーヴを抱えたまま立ち上がって、ピヴワヌと一緒に振り返る。

 いつの間にかトウゴが頭を抱えてしゃがみ、扉の前で立ち塞がって部屋に戻れない。困った亜莉香の代わりに、ため息を零したピヴワヌが問う。


「何故、トウゴが落ち込むのだ?」

「髪は女の命でしょう?」

「大袈裟ですよ。時間が経てば自然と伸びます。トウゴさんは夕飯を食べましたか?」

「軽く食べたよ。食べたけどさー」


 暫くは納得しなさそうな声を出し、トウゴの頭がますます下がった。


「長い髪が邪魔になる時もあるとは思うよ?それでも伸ばしていたのに、今の状況で切っちゃうとは思ってなくて。一度ぐらいは俺だって梳いてみたかったのにー」

「ぐだぐだと五月蠅い」


 話の途中で近寄ったピヴワヌが真横に蹴り倒して、トウゴを扉の前からどかした。

 多少強引で、壁に頭を打った鈍い音がした。ちゃっかり風呂敷を奪って、何気ない顔でピグワヌは通り過ぎ、亜莉香もそっと真横を抜けた。

 動かなくなったトウゴを心配して、身体を動かしたフルーヴを床に下ろす。小さな足でトウゴに駆け寄って魔法をかける所を見ると、頭を強打したに違いない。

 一撃を与えた本人は気にせず、床に座って紙を亜莉香に手渡した。


「ピヴワヌは時々、手加減を忘れますよね」

「そんなことはない。あれくらいなら平気だろ。それより暇なら、さっさと手を貸せ。なんせ魔法薬を作るのなんて、百年ぶりだからな」

「と言うより、本当に作れます?」


 トウゴの持っていた風呂敷を開き、見たことのない草や花を取り出すピヴワヌに思わず訊ねた。顔を上げないピヴワヌは、平然とした態度で言う。


「まあ、何とかなるだろ。数か月前に、最低限の知識を復習したばかりだ。いつもは見ている側だった、とも付け加えるが」


 自分では作ったことがない、と遠回しに言われた。

 少し不安はあるが、亜莉香が口出しできる分野ではない。ピヴワヌを信じるしかないと思いながら、手にしていた紙を失くさないように折り畳み、胸元に隠していた壊れた簪と一緒に布に包んだ。


 大事に抱えて、紙は簪と共に元の位置に隠す。

 そのタイミングで、風呂敷の中にあった小鍋が転がった。足元で止まった小鍋を拾い上げ、ピヴワヌの向かいに腰を下ろす。


 着々と魔法薬を作る準備が整い、以前ユシアの父親の部屋で見たような光景が出来上がっていく。草や花をすり潰す小鉢やすりこぎ棒、材料を計る秤や薬を煮るための小鍋はあるが、肝心の火を起こす道具はない。


 どうするのだろうと眺めていれば、ピヴワヌに小鍋を催促された。

 小鍋は床の上に組み立てた三角形の台の上に設置され、ピヴワヌは花をすり始める。よく考えなくても火の魔法が使えるピヴワヌに火の心配は必要なく、亜莉香は黙って魔法薬を作る過程を見つめることにした。

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