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Last Crown  作者: 香山 結月
第3章 雪明かりと蠟梅
270/507

55-1

 生クリームを挟んだサンドイッチは柔らかく、優しい甘さが口の中に広がった。焼きたてのワッフルは冷たくなっていたが、こんがりと焼けて溶けたバターが染みこんでいた。粉砂糖をまぶした丸い焼き菓子も、バニラの匂いが香る平らな焼き菓子も美味しくて、何もない真っ白な皿がテーブルの上に残る。

 ふわふわのシフォンケーキを切り分けた最後の一口を食べ、亜莉香はフォークを置いた。


「ご馳走様でした」

「よく最後まで食べたな」

「ピヴワヌの方が食べていましたよね?」


 反射的に言い返せば、寄りかかっていた身体が起き上がった。

 曖昧な返事をして、一枚の紙を睨んでいたピヴワヌは反対側に寝ころび、文字と地図で埋まった紙を眺め続ける。亜莉香の声に反射的に返しただけで、頭の中は別のことを考えているに違いない。


 その紙を書いたのは亜莉香で、情報を提供した人物は部屋にいない。

 言いたいことだけ言って、ヒナは部屋から出て行った。大量のお菓子を処分するように言われたので、素直に好意と受け取って、ピヴワヌが半分以上を平らげた。

 暇だったフルーヴはお腹を膨らませて、ヒナが座っていたソファで仰向けに寝ている。

 食べ過ぎたトウゴが席を外したのは数分前の話で、気持ち悪そうに口を手に当てていた。トウゴが戻って来るまでは部屋で待ち、紙をから目を逸らさないピヴワヌは話し出す。


「本当に良かったのか?」

「何が、ですか?」

「あの小娘と取引をして。確かにお互いにとって良い条件でも、何か裏があったのかもしれないぞ。あの小娘は、きっと何かを隠している」


 確信を持ったピヴワヌは寝転がったまま、亜莉香は振り返って微笑んだ。


「隠し事があるから、信頼出来ないわけではありません。無理やり隠し事を暴きたくもないのです。誰かを傷つける隠し事でなければ、私は追求しませんよ。ピヴワヌだって、私に隠し事の一つもないとは言えませよね?」

「…まあ」

「アンリちゃんの危機を、ヒナさんはわざわざ教えてくれました。一人では荷が重いから私に協力を仰ぎ、春まで停戦でいることも約束しました。お茶をご馳走してくれて、目を見て話してくれて、それで十分です」


 それに、と笑みを零して付け足す。


「アンリちゃんの危機を聞けば、協力なんて言われなくても私は動きます。それでもそれを自分の望みと言い、その望みを一つ私が叶えるのだから、私の願いも一つ叶える。そんな取引を持ち込まれて、断る理由もないでしょう。素直に協力なんて言われて余計な詮索と疑いを持つより、私達らしい取引で動きやすいです」

「お主自身の問題は何も解決していないだろ」


 亜莉香を心配してくれるピヴワヌは小さく言い、紙で顔を隠した。


「灯が本物ではないとして、お主の居場所を奪ったことは変わらん。儂はアンリのことより、お主がこのままの方が――辛い」


 たった一言に気持ちが込められて、亜莉香の心に響いた。

 現状に向き合えるのは、自分のことのように悲しんで苦しんでくれる存在がいるからだ。辛くても取り乱すことなく、強がりだとしても泣いたりしない。

 立ち止まるわけにはいかないから、顔を上げた。

 冷めた紅茶が残るティーポットに手を伸ばして、亜莉香は言う。


「皆が私を忘れていても、過ぎてしまった時間は戻りません。私がいなくても日常は続いて、居場所は奪われたままだと分かっています」


 注ぎ終えた紅茶がティーカップを満たして、微かに水面が揺れた。

 映った亜莉香の顔に迷いはなく、そっと両手で包んで持ち上げる。


「私の居場所を諦めるつもりはありませんが、一つだけ良かったとも思います。今は私の居場所に灯さんがいるから、大切な人達に心配をかけることはなく、これから行うことに巻き込まずにいられます。それだけは本当に良かったと、心の底から思えるのです」


 ティーカップの縁に口を添えて、本心からの言葉を告げた。

 紙で顔を隠したままのピグワヌは黙ったままで、部屋の中が静かになる。音を立てないように亜莉香が紅茶を味わえば、ため息と共に隣で起き上がる気配がした。


「奪われた魔力を取り返せば、お主の記憶は戻るだろう」

「そうですか」

「灯がどうなるかは知ったことではないが、お主のことは絶対に、儂が何とかする」


 絶対に、と怒りのこもった声で強調した。

 そう簡単に、魔力を取り戻せる話ではないだろう。もしも亜莉香が居場所を取り戻したとしても、灯はどうなるのか。生きる屍の意味を考えて、灯自身のことも考えた。レイは灯を狙っているし、魔力を奪われていたのが亜莉香だと知れば、また状況が変わる。

 必要なら自分から緋の護人を名乗るだろうが、先に片付けるべきはアンリの件。

 何だか難題が増えたと呑気に思う。


「灯さんに関しては、アンリちゃんを助けてから考えましょうか」

「…儂が何を言っても、動じないのだな」

「もう心は決まっていますので」


 そうか、と小さく呟いて、ピヴワヌは再び亜莉香に寄りかかった。

 手にしていた紙を膝の上に下ろして、物思いにふける表情が肩の近くにある。顔は前を向いたまま、瞳は何もない空間を見つめていた。

 半分も飲んでないティーカップを置いて、亜莉香も頭を寄せる。


「今の私が一番怖いのは、夢で見たような別れが訪れることなのですよ」

「あれは正夢じゃない」

「そうだとしても、あんな別れは嫌です。悪夢のような時間を繰り返さないために、私は戦いたいと思いました」


 戦う相手は誰なのか、静かに話ながら自問自答した。

 狂った笑みを浮かべる血まみれの少女なのか。亜莉香の居場所を奪った灯なのか。出会ったことのないヒナが主と呼ぶ人物なのか。

 その答えは出ないけど、ゆっくりと息を吐いて続ける。


「目には見えない繋がりを断ち切られても、私はもう大丈夫です。心の中には皆がいて、隣にはピヴワヌがいてくれますので」

「ふん」


 照れた頬を膨らませて、ピヴワヌは腕を組んだ。

 その手にしていた紙を貰い、書いてある内容に目を通す。

 領主の家の構造から始まって、警備隊の配置位置や交代時間。アンリだけじゃなく、兄であるシンヤと母親であるカリンの詳細の予定まで、よくここまで詳しく調べたと思うほどの情報が記されていた。

 全ての内容を記憶しようとすれば、紙を覗き込んだピヴワヌが話し出す。


「それにしても、よくこれだけの情報を集めたな」

「凄いですよね。ヒナさん」

「いや、半分はお主の提供した情報だろう?」


 呆れ返った声に、視線を向けない亜莉香の口角が上がった。

 ピヴワヌの言う通り、紙に書いてある情報のうち半分程度を提供した。協力していく上で必要だと思った情報だけを選んで教えたつもりで、既に覚えていた情報を除外して、紙に書いてある内容を頭の中に叩き込む。

 黙って読み上げていると、亜莉香が見ていない箇所をピヴワヌは眺めた。


「いつ、領主の家の結界や魔道具の位置を確認した?」

「以前、シンヤさんに呼ばれた時ですね。家の中を案内して下さった時に、自分の目で見て確認しました。魔道具は気付いた時に、それとなく聞けば、シンヤさんは丁寧に教えてくれましたよ」

「警備隊の魔力は?」

「警備隊の訓練を見学させて頂いた時に、サクマさんから詳しい解説を。他の人に聞いても、教えて欲しいと頼んだら色々教えてくれました」


 当時を思い出せば懐かしく、笑いの絶えない日々だった。

 好奇心旺盛な亜莉香に対して、誰もが優しく接してくれた。一緒にいたトシヤに止められるまで、数多くの魔法を見ては亜莉香の目が輝いていたに違いない。

 今となっては素敵な思い出として、無意識に笑みが零れた。

 亜莉香の横顔を見たピヴワヌは、誰にも聞こえないようにぼそっと呟く。


「末恐ろしい才能を垣間見た」

「…え?」

「何でもない」


 何か聞こえた気がして顔を上げると、ピヴワヌが勢いよく紙を奪った。

 返してもらう前に立ち上がって、フルーヴのいる反対側に回られると手が届かない。仕方なくティーカップに手を伸ばして、休憩の時間と思ってソファに深く腰掛けた。


「そう言えば、どうしてヒナさんは私を覚えていたのでしょう?」

「んー?」

「聞いていませんね」


 ほんの数分前の亜莉香と同じように、真剣に紙を覚えるピヴワヌから視線を逸らす。

 明るい中庭を眺めれば、明るい太陽はまだ空の上。温かい日差しのせいで溶けた雪から雫が滴り、真っ白な世界に残っていた濃い緑の葉が揺れた。

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