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Last Crown  作者: 香山 結月
第3章 雪明かりと蠟梅
265/507

54-1

 暗くなり始めた宿に戻ると、まだトウゴとフルーヴは帰っていなかった。

 泣き疲れた顔は酷くて、人に見せられたものではない。ピヴワヌが羽織っていた赤い着物で顔を隠して、誰とも目を合わせずに部屋に入った。


 足が伸ばせる湯船に熱いお湯を張った後、着物を脱いで肩までお湯に浸かる。

 涙を流した顔を洗い、浴室から部屋に繋がる扉に目を向けた。扉の向こうで座っているピヴワヌは静かだけど、近くにいるのを感じる。


 隅々まで掃除されて清潔な浴室には、真珠のような白い湯船があり、ふかふかで端に小さな赤い花が描かれた白の足ふきマットがある。洗い場はないが、洗面所と姿見もあって、最低限のアメニティは揃っていた。

 全体的には白い浴室で寛ぐと、扉の外からピヴワヌが言う。


「それで、居場所を取り返す作戦は何かあるか?」

「…今のところは、まだ」


 答えながら、首まで潜った。解いた髪が浮いて、髪が長くなったと実感する。腰近くまで伸びた髪を眺めながら、膝を抱えて右手を見た。


 黒い包帯を巻いていた怪我が、いつの間にか消えている。

 知らないうちに傷みは感じなくなり、傷跡もない。

 右手を開いては閉じて、何ともないことを確認しながら亜莉香は問う。


「右手の怪我って、闇の力が混ざっていたのでしたっけ?」

「そうだが、どうかしたか?」

「傷がなくなったので、その理由をご存知ですか?」


 軽い質問に対して、ピヴワヌの返事がない。

 右手をお湯の中に戻して数秒待てば、考えをまとめた声が返って来た。


「お主の心の中で、闇が消えたからだろう」

「私の心ですか?」

「人間誰とて闇を持つが、光の力で跳ね返すことだって出来る。お主の場合、灯が現れて心を乱された時に闇に付け込まれ、心の整理がついて光が闇を打ち消した。まあ儂は、こうなることも分かっていたが」


 自分のことのように照れくさそうに、ピヴワヌは言った。

 そういうものかと考えると、天井から水滴が落ちて波紋が広がる。明るい照明を見上げながら、亜莉香は独り言のように呟く。


「これから、どうしましょうかね」

「風呂から出た後か?それとも、明日以降のことか?」

「どっちも、です。もう少ししたら、トウゴさんとフルーヴが帰って来るかもしれません。ひとまず何か食べたいのですが、明日以降の予定は未定です。だからと言って、いつまでも宿に居てはいけない気がして」


 両手でお湯をすくった。指の間から水が零れるように、今は何も掴めなくて落ちていく。残ったのは微かなお湯で、それすら蒸発して消えていく。

 灯に居場所を奪われてから失ったものを、想いを、未練がましく言う。


「やっぱり、簪は直せませんよね?」

「あれだけ壊れて、儂は直せると思わん。装飾も半分、無くなったのだろう?」

「…はい」

「諦めろ、としか言えん。だが、捨てろとは言わんからな。それはお主にとって、何よりも大事なものだとは分かっておる。これからも肌身離さず持ち歩きたいなら、怪我をしないように十分気を付けろ」


 それから、と言って妙な間が空く。

 言おうか言うまいか。悩んでいるような雰囲気を感じて、ピヴワヌの名前を呼んだ。


「言いたいことがあるなら、遠慮なく言って下さい」

「簪が壊れたくらいで、お主の心が変わらないように。小僧だって、根本的な心は変わっていないかもしれんぞ」

「え?」

「お主が吹き飛ばされた時、儂より早く駆け付けたからな」


 苦々しく話したピヴワヌの言葉に、亜莉香は瞬きを繰り返した。

 そうだったら嬉しくて、顔が緩んでしまう。思わず両頬をつねって、ピヴワヌの言葉が夢ではないか確認した。そのまま両手で包んで、頬を伸ばす。

 熱いお湯のせいか、トシヤのことを考えたせいか。

 仄かに赤くなった顔は、熱を帯びた。


「絶対に、居場所を取り戻しましょう」

「小僧の隣が、そんなに恋しいか」

「…トシヤさんだけの話ではない、です」

「否定しても説得力はないな」


 馬鹿正直に話した亜莉香に対して、ピヴワヌはため息を零した。

 耳まで赤くなって、それ以上何を言えない。膝を抱えて口元まで潜ると、ぶくぶくと泡を出して耳を澄ませた。


「全く、儂の主はいつも小僧に心を奪われる。あんな小僧のどこがいいのか。儂には分からんのだが、仕方がない」


 仕方がないと言いながら、返って来た声は呆れていた。

 話が長くなると思ったのか。ピヴワヌが黙ると、無言の空気になる。気まずくはないが、気になることはあった。あの、と遠慮がちに質問をしようとして、直前でやめた。

 馬鹿な質問をして、これ以上ピヴワヌに呆れられたくない。


「なんだ?」

「いえ」

「聞きたいことがあるのなら遠慮なく質問しろ。そう言ったのは、お主だろ?途中で言葉を止めるな。気になるではないか」


 ピヴワヌのいじけた声に、亜莉香は息を吐いた。質問しなければ、ピヴワヌは黙って待ち続け、答えを聞かないと、亜莉香自身も疑問が心に引っかかる。

 それが分かっているからこそ、小さく問いかける。


「灯さんも、やっぱりトシヤさんが好きなのですよね?」

「儂に言わせるな」


 その返事だけで、ピヴワヌの言いたいことは分かってしまった。

 亜莉香以外に、好意を寄せる相手がトシヤの傍にいる。今はどうしようもないと分かっていても、それだけで胸がもやもやした。


「トシヤさんと灯さんに、何かあったらどうしましょう」

「何があるのだ?」

「分かりませんけど、何かあるかもしれないじゃないですか?」


 甲斐甲斐しく一日中介抱したり、記憶を失っていると思っている灯を抱きしめたり。色々妄想して、言おうとした言葉を呑み込んだ。

 トシヤと過ごした時間を思い出すのは、空しくなるだけだ。

 別のことを考えようと、亜莉香は口を開く。


「それじゃあ――」

「まだ、質問があるのか?」

「質問すればいいと言ったのは、ピヴワヌですよ?」


 大きな舌打ちをしたが、ピヴワヌなら何だかんだ答えてくれると信じている。湯船の縁に両腕を置いて、ピヴワヌに問いかける。


「私って、灯さんより勝っている所あります?」

「暫しの時間を設けろ」

「考えないと出ないのですか」


 落ち込んで、亜莉香は頭を腕に乗せた。


「別にいいですけどね。見た目は同じですし、前にピヴワヌは、私のことを頑固者とか可愛げがないとか言っていましたし。私自身も素直じゃないと分かっていますし」

「いじけるな。それより、そろそろ上がらんか。色々考え過ぎて、頭がおかしくなるぞ」


 答えをはぐらかしたのは、ピヴワヌなりの優しさだと分かっている。

 言葉は酷いが、心配してくれていることは伝わった。十分に温まって上がろうとすれば、ただいま、と二人分の声がした。


「いやー、ルカとルイを撒くのは疲れたよ」

「つかれたー」


 ぐったりしたトウゴとフルーヴの声に対して、ピヴワヌは言う。


「後を付けられてないだろうな」

「途中で狭間を通ったからね。フルーヴの案内で俺は迷子にならないけど、あの二人が躊躇した隙に狭間を抜けて、ちゃんと着物を替えて帰って来ましたよ」

「フルーヴも!」

「フルーヴの着物は、買う必要ないだろ」


 何をしているのだと言いたげなピヴワヌに、亜莉香はくすくすと笑った。笑い声は浴室の外に届き、フルーヴが浴室に入ろうとする音がした。


「フルーヴもおふろ!」

「開けようとするな!」

「アリカちゃん!俺が背中を流そうか?」

「何を言うのだ!さっさと部屋の奥へ行け!!」


 ピヴワヌが叫んで、冗談を言ったトウゴは素直に返事をした。不満なフルーヴは駄々をこね、中々動こうとしない。


 部屋の中が、一気に騒がしくなった。

 その声を聞いているだけで、安心して肩の力が抜ける。もう少し上がらないでいようと、亜莉香はお湯に浸かることにした。

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