53-6
悲しみが積み重なって、涙が枯れるまで泣いた。
灯が現れたこと。帰る場所が無くなったこと。大切な人達に忘れられたこと。顔を見て、話をしても思い出して貰えなかったこと。トシヤから貰った大事な簪が壊れて、何も伝えられなかったこと。
たった数日で、目まぐるしく状況が変わった。
泣き腫らした瞳を拭い、鼻をすすりながら亜莉香は口を開く。
「すみま、せん」
「喋れるか?」
「…はい」
何も言わずに歩き続けたピヴワヌに頷き、僅かに顔を上げた。
真っ直ぐに前を見据えるピヴワヌと、視線は交わらない。不機嫌な表情で口を閉じ、亜莉香を下ろす気配のないピヴワヌに話しかける。
「そろそろ大丈夫です」
「もう少し休め」
「歩き疲れませんか?」
「儂を誰だと思っているのだ」
ため息交じりに、ピヴワヌが言った。
歩く速度は変わらず、近くにある幼い少年の顔をまじまじと見る。精霊であることは頭では分かっていても、いつも見た目に騙される。無理をしてないか心配になるのは、きっと姿も心も、人と変わらないからだ。
一緒に笑って、泣いて、楽しんで、怒って、悲しんでくれる。
寄り添えば温かく、支えられれば安心する存在に、今は心が救われた。一人じゃなかったことに感謝して、ピヴワヌの着物を少し握る。
寄りかかって、落ち着きを取り戻してから辺りを見渡した。
果てしない灰色の世界が続き、どこにいたのか理解する。いつの間にか路地裏から狭間に入り、ピヴワヌは黙って歩き続けていたに違いない。
誰もいない。何もない。
雪もなければ、風もない。
平坦な地面と、どこまでも続く世界。一人だったら出口が分からなくて、迷ってしまう狭間を、ピヴワヌは真っ直ぐに進む。
迷いのないピヴワヌが、亜莉香には眩しく見えた。
眩し過ぎて、抱えていた弱さをさらけ出す。
「失くしてから、大切さに気付くのですね」
何のことを話し出したのか。
分かった素振りを見せないピヴワヌから視線を落として、亜莉香は言う。
「皆の存在が、どれだけ私にとって大切だったのか。傍に居られることが幸せで、手放したくないものだったのか。分かっていたはずなのに、こんな状況になって、改めて考えてしまうのです」
後悔を抱いて、壊れた簪を片手で握りしめる。
「大切な人達に忘れられる前に、もっと一緒に過ごせば良かった。もっと色んな話をして、美味しいものを食べて、一緒に過ごせる時間を惜しんで。いつまでも続く未来ではないと理解して、日々を大切にしたかった」
もう手を伸ばせない人達の顔が浮かんで、込み上げる気持ちを呑み込んだ。
泣き喚いて取り乱したところで、塗り替えられた思い出は戻らない。目を閉じれば鮮明に思い出せる記憶が心に重くのしかかり、亜莉香を弱くする。
もう、どうすればいいのか分からない。
一息をついて、肩の力を抜いた。
「今更、の話なのですけどね」
「それで、このまま泣き寝入りするのか?」
この場で話し相手は一人しかいないが、ピヴワヌは亜莉香を見ない。頬を膨らませる顔に、何も言わなければ肯定と受け取られた。
「儂は嫌だぞ。このままどうしようもないと諦めて、お主の居場所を灯に譲るのは」
「でも、もしかしたら最初から何かの間違いで、私こそが居場所を奪っていたのだとしたら?これこそが本来の形で、私は――」
「代わりじゃない」
口にしようとした言葉を先に言われて、言葉に詰まった。
ピヴワヌの足が止まり、はっきりと告げる。
「お主は、お主だ。それは自分でも、よく分かっているのだろう?」
「分かっていても…心が追いついてくれないのです」
弱々しく言い、もう枯れたはずの涙が零れそうになる。
「こんなにも、呆気なく忘れられるなんて思いませんでした。皆が認識しているのは、私じゃなくて灯さん。私の居場所は、どこにもなくなってしまいました」
消えてしまいそうな声で言った事実に、心が押しつぶされそうになった。心のどこかで期待していた希望は砕かれて、誰にも見えない存在になったようだ。
ピヴワヌですら、そのうち離れてしまう気がした。
ずっと待っていた灯が現れたのだから、いつまで一緒にいてくれるのか。問いかけて、返って来る答えを聞くのが怖い。
付き纏う不安が心を侵食すると、呆れた声が降り注いだ。
「馬鹿なことを考えるな。儂の居場所は、お主の隣だ」
ため息を零して、ピヴワヌの声が優しくなる。
「そろそろ気丈に振る舞うのはやめろ。悲しいなら悲しいと、辛いなら辛いと言えば良い。お主の隣には儂がいて、何もかも一人で背負う必要はないのだからな」
そんな風に言われたら、これ以上の弱音を吐いてしまう。
ピヴワヌは何かを察して、ゆっくりと空を仰いだ。
「小僧に会えて良かったな」
「…はい」
「会いたかったのだろう?」
「そう、ですよ」
何もかも分かっているピヴワヌに、亜莉香は嘘が付けなかった。ぎこちなくも話し出せば、偽りのない本音が止められなくなる。
「会いたかったのに、会わなければ良かったとも思ってしまったのです」
目頭が熱くなって、泣きそうだ。
「一番会いたかった人なのに、忘れられたことが悲しくて、辛くて苦しくて。簪を見ても何も言われない私なんて、その程度の存在だったのかなって。そう思ったら、自棄にだってなりたくなるのですよ」
壊れた簪を見下ろして、強く握りしめた。
牡丹の花は欠けてしまった。簪の棒は曲がり、ガラスは割れた。今の亜莉香の心を映したかのような壊れた簪を手にして、なんで、と涙が頬を伝う。
「なんで――私だったのですか?私は灯さんじゃない。皆が私を忘れても、トシヤさんだけには忘れて欲しくなかった。名前を呼んで欲しかった」
簪を額に寄せれば、今まで交わした会話が脳裏に浮かぶ。
いつだって守ってくれた大切な人に、もう手を伸ばせない。名前を呼ばれることもなく、笑いかけられることもない。
押え込んでいた感情をさらけ出して、枯れたはずの涙が地面に落ちた。
「傍に居るって、言ってくれたのに」
「うん」
「私の居場所は、私だけのものなのに」
「そうだな」
正直に話し出した亜莉香に、ピヴワヌは短くも温かな相槌を打った。
「それが、お主の本当の気持ちなのだな」
ようやく聞けた、と言わんばかりの声に、亜莉香は小さく頷いた。
そっと地面に下ろされて、思いっきり抱きしめられる。息を呑んだ亜莉香の顔を、ピヴワヌは片手で肩に押し付けて、もう片手を背中に回した。小さくても力強い両手は、小さな子供をあやす母親のように優しくて温かい。
何も言わずに背中を撫でるピヴワヌに、亜莉香は力の限りしがみついた。
我慢していた感情が押し寄せて、声を上げて泣いた。悲しみは癒えず、辛さも苦しさも消えない。それでも包み込んでくれる光があって、泣いた分だけ心の闇が晴れていった。




