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Last Crown  作者: 香山 結月
第3章 雪明かりと蠟梅
264/507

53-6

 悲しみが積み重なって、涙が枯れるまで泣いた。

 灯が現れたこと。帰る場所が無くなったこと。大切な人達に忘れられたこと。顔を見て、話をしても思い出して貰えなかったこと。トシヤから貰った大事な簪が壊れて、何も伝えられなかったこと。


 たった数日で、目まぐるしく状況が変わった。

 泣き腫らした瞳を拭い、鼻をすすりながら亜莉香は口を開く。


「すみま、せん」

「喋れるか?」

「…はい」


 何も言わずに歩き続けたピヴワヌに頷き、僅かに顔を上げた。

 真っ直ぐに前を見据えるピヴワヌと、視線は交わらない。不機嫌な表情で口を閉じ、亜莉香を下ろす気配のないピヴワヌに話しかける。


「そろそろ大丈夫です」

「もう少し休め」

「歩き疲れませんか?」

「儂を誰だと思っているのだ」


 ため息交じりに、ピヴワヌが言った。

 歩く速度は変わらず、近くにある幼い少年の顔をまじまじと見る。精霊であることは頭では分かっていても、いつも見た目に騙される。無理をしてないか心配になるのは、きっと姿も心も、人と変わらないからだ。


 一緒に笑って、泣いて、楽しんで、怒って、悲しんでくれる。

 寄り添えば温かく、支えられれば安心する存在に、今は心が救われた。一人じゃなかったことに感謝して、ピヴワヌの着物を少し握る。


 寄りかかって、落ち着きを取り戻してから辺りを見渡した。

 果てしない灰色の世界が続き、どこにいたのか理解する。いつの間にか路地裏から狭間に入り、ピヴワヌは黙って歩き続けていたに違いない。


 誰もいない。何もない。

 雪もなければ、風もない。


 平坦な地面と、どこまでも続く世界。一人だったら出口が分からなくて、迷ってしまう狭間を、ピヴワヌは真っ直ぐに進む。

 迷いのないピヴワヌが、亜莉香には眩しく見えた。

 眩し過ぎて、抱えていた弱さをさらけ出す。


「失くしてから、大切さに気付くのですね」


 何のことを話し出したのか。

 分かった素振りを見せないピヴワヌから視線を落として、亜莉香は言う。


「皆の存在が、どれだけ私にとって大切だったのか。傍に居られることが幸せで、手放したくないものだったのか。分かっていたはずなのに、こんな状況になって、改めて考えてしまうのです」


 後悔を抱いて、壊れた簪を片手で握りしめる。


「大切な人達に忘れられる前に、もっと一緒に過ごせば良かった。もっと色んな話をして、美味しいものを食べて、一緒に過ごせる時間を惜しんで。いつまでも続く未来ではないと理解して、日々を大切にしたかった」


 もう手を伸ばせない人達の顔が浮かんで、込み上げる気持ちを呑み込んだ。

 泣き喚いて取り乱したところで、塗り替えられた思い出は戻らない。目を閉じれば鮮明に思い出せる記憶が心に重くのしかかり、亜莉香を弱くする。


 もう、どうすればいいのか分からない。

 一息をついて、肩の力を抜いた。


「今更、の話なのですけどね」

「それで、このまま泣き寝入りするのか?」


 この場で話し相手は一人しかいないが、ピヴワヌは亜莉香を見ない。頬を膨らませる顔に、何も言わなければ肯定と受け取られた。


「儂は嫌だぞ。このままどうしようもないと諦めて、お主の居場所を灯に譲るのは」

「でも、もしかしたら最初から何かの間違いで、私こそが居場所を奪っていたのだとしたら?これこそが本来の形で、私は――」

「代わりじゃない」


 口にしようとした言葉を先に言われて、言葉に詰まった。

 ピヴワヌの足が止まり、はっきりと告げる。 


「お主は、お主だ。それは自分でも、よく分かっているのだろう?」

「分かっていても…心が追いついてくれないのです」


 弱々しく言い、もう枯れたはずの涙が零れそうになる。


「こんなにも、呆気なく忘れられるなんて思いませんでした。皆が認識しているのは、私じゃなくて灯さん。私の居場所は、どこにもなくなってしまいました」


 消えてしまいそうな声で言った事実に、心が押しつぶされそうになった。心のどこかで期待していた希望は砕かれて、誰にも見えない存在になったようだ。


 ピヴワヌですら、そのうち離れてしまう気がした。

 ずっと待っていた灯が現れたのだから、いつまで一緒にいてくれるのか。問いかけて、返って来る答えを聞くのが怖い。

 付き纏う不安が心を侵食すると、呆れた声が降り注いだ。


「馬鹿なことを考えるな。儂の居場所は、お主の隣だ」


 ため息を零して、ピヴワヌの声が優しくなる。


「そろそろ気丈に振る舞うのはやめろ。悲しいなら悲しいと、辛いなら辛いと言えば良い。お主の隣には儂がいて、何もかも一人で背負う必要はないのだからな」


 そんな風に言われたら、これ以上の弱音を吐いてしまう。

 ピヴワヌは何かを察して、ゆっくりと空を仰いだ。


「小僧に会えて良かったな」

「…はい」

「会いたかったのだろう?」

「そう、ですよ」


 何もかも分かっているピヴワヌに、亜莉香は嘘が付けなかった。ぎこちなくも話し出せば、偽りのない本音が止められなくなる。


「会いたかったのに、会わなければ良かったとも思ってしまったのです」


 目頭が熱くなって、泣きそうだ。


「一番会いたかった人なのに、忘れられたことが悲しくて、辛くて苦しくて。簪を見ても何も言われない私なんて、その程度の存在だったのかなって。そう思ったら、自棄にだってなりたくなるのですよ」


 壊れた簪を見下ろして、強く握りしめた。

 牡丹の花は欠けてしまった。簪の棒は曲がり、ガラスは割れた。今の亜莉香の心を映したかのような壊れた簪を手にして、なんで、と涙が頬を伝う。


「なんで――私だったのですか?私は灯さんじゃない。皆が私を忘れても、トシヤさんだけには忘れて欲しくなかった。名前を呼んで欲しかった」


 簪を額に寄せれば、今まで交わした会話が脳裏に浮かぶ。

 いつだって守ってくれた大切な人に、もう手を伸ばせない。名前を呼ばれることもなく、笑いかけられることもない。

 押え込んでいた感情をさらけ出して、枯れたはずの涙が地面に落ちた。


「傍に居るって、言ってくれたのに」

「うん」

「私の居場所は、私だけのものなのに」

「そうだな」


 正直に話し出した亜莉香に、ピヴワヌは短くも温かな相槌を打った。


「それが、お主の本当の気持ちなのだな」


 ようやく聞けた、と言わんばかりの声に、亜莉香は小さく頷いた。

 そっと地面に下ろされて、思いっきり抱きしめられる。息を呑んだ亜莉香の顔を、ピヴワヌは片手で肩に押し付けて、もう片手を背中に回した。小さくても力強い両手は、小さな子供をあやす母親のように優しくて温かい。


 何も言わずに背中を撫でるピヴワヌに、亜莉香は力の限りしがみついた。

 我慢していた感情が押し寄せて、声を上げて泣いた。悲しみは癒えず、辛さも苦しさも消えない。それでも包み込んでくれる光があって、泣いた分だけ心の闇が晴れていった。

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