52-5
診療所の扉には、休診の札がかかっていた。
ヤタがいない診療所の扉の鍵はかけていなくて、中に患者の姿はない。フルーヴを抱えたトウゴは外で待つと言い、亜莉香はピヴワヌの後を追って奥の部屋まで進んだ。ユシアがいるはずの部屋の前で、被っていた着物を肩に掛けたピヴワヌが振り返る。
「開けるぞ」
「はい」
確認してくれたピヴワヌに頷き、頭から被っている黒い着物の襟元を両手で強く握った。灯とそっくりの亜莉香が急に訪れて、驚かせたくはない。先にピヴワヌが話をすると言ったので、その話が終わるまでは大人しく待つ。
コンコン、と優しくピヴワヌが扉を叩けば、中から返事が聞こえた。
中で書類を片付ける音がして、急いで扉が開く。
「はい!お待たせしまし――た?」
ピヴワヌの顔を見て、ユシアは瞬きを繰り返した。
数日前にあった時と、何一つ変わらない。透き通る草木の色の髪も、長い髪を左側で一纏めにしてまとめている鈴蘭の簪も、濃い抹茶色の瞳も変わらない。
診療所が寒いからと、亜莉香が縫った半纏を羽織っていた。
黄金色を帯びた金茶の半纏は、熟した枇杷と暗い茶である黒鳶の二色のチェック柄。温かみのある黄色の着物に、袴は松の葉のような深みのある青緑色。
一瞬だけ目が合ったが、亜莉香は反射的に顔を下げた。
ユシアが口を開く前に、ピヴワヌが問う。
「昨日は何をしていた?」
「昨日、ですか?」
目の前にいるのが精霊であると知っているユシアは、ピヴワヌに対して敬語だ。
右手を口元に寄せ、えっと、と少し考えた。
「私は灯ちゃんに付き添っていました。まだ記憶が戻らないみたいで、不安そうでしたので。その、ピヴワヌ様やトウゴは――」
「じゃあ、他の連中は?」
自分のことを聞かれる前に、ピヴワヌは質問をぶつけた。
じっと見つめる真面目な顔に、ユシアは唇を閉じた。それから両手を合わせて姿勢を正し、奇妙な間が空く。
「…良かったら、中で話しませんか?」
「昨日と今日、他の連中は何をしている?」
遠慮がちだったユシアの提案を無視して、ピヴワヌは言った。
「話さないなら、儂らはすぐに帰る。それでいいのだろう?」
ユシア以外で部屋にいるのは、亜莉香しかいない。目を合わせて、小さく頷く。まだ何も言えないから、今はピヴワヌに任せる。
亜莉香から視線を外して、ピヴワヌはユシアを見上げた。
「さて、話せないことでもあるか?」
「ないですけど…」
ユシアの声が段々と声が小さくなって、不安そうな声に変わった。
「ピヴワヌ様がいなくなったことで灯ちゃんは塞ぎこんで、ルカとルイは二人を探しに行きました。トシヤも仕事の合間で探したけど見つからなくて、今日も探していると思います」
「そうか」
「帰って来ないのですか?」
素っ気ないピヴワヌに、ユシアは訊ねた。
「フルーヴも、一緒ですか?ピヴワヌ様とトウゴがいなくなって、灯ちゃんは記憶が無くて、家の中がいつもと違う気がして。上手く言えないけど、このまま二人が帰って来なかったら、一緒に住んでいる家族がバラバラになってしまいそうで」
泣きそうな顔になっているユシアを、亜莉香は瞳に映した。
亜莉香の名前は一度も出て来ない。本気で心配して探しているのは、ピヴワヌとトウゴ。フルーヴも家に帰っていないから、一緒にいると信じているのは間違っていない。
本当は、忘れてないと思いたかった。
亜莉香がいた場所に、灯が当たり前のように存在していても。目が合えば、些細なきっかけで思い出してくれる期待していた。
これが現実だと知った時、取るべき行動は何が正しいのか。
考えるより先に、ユシアを安心させたい声が口から零れる。
「大丈夫ですよ」
掠れなかった亜莉香の声は響いて、着物を被ったまま、目を見開いたユシアに微笑む。亜莉香を凝視するユシアは、信じられないものを見た顔をした。
「灯、ちゃん?」
「…いえ、別人です」
顔を合わせて目を見て、灯の名前を呼ばれるのは辛い。
これが現実だと知らされて、それでも逃げ出すのは嫌だ。息を吐き、見守ってくれるピヴワヌの優しさを感じながら、亜莉香は話し出す。
「私は灯さんではなくて、以前貴女にお世話になった者です。私が何を言っても信じられないかもしれませんが、ユシアさん達の絆は、そう簡単に壊れるものではありません」
嘘じゃないと、分かって欲しくて言葉を重ねる。
「大丈夫。きっと、私が何とかしますから」
「貴女が?」
「はい。必ず」
根拠もない言葉でも、少しでもユシアの不安が無くなればいい。
ピヴワヌと一緒に来たおかげか、警戒心は抱かれていない。黙ったピヴワヌが何も言わないから、今度は亜莉香が情報を集める。
「そのためにも、幾つか詳しく伺ってもいいですか?」




