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Last Crown  作者: 香山 結月
第3章 雪明かりと蠟梅
252/507

51-4

 夕飯の買い物を済ませて家に向かっているのに、嫌な感覚が離れない。

 どれだけ足を速めても付き纏う何かがあって、誰かに見られている気がする。両腕で抱えた風呂敷を強く握りしめて、振り返らずに亜莉香は早足で路地裏を進んだ。


 後ろから、誰かが付いて来る。

 段々と駆け足になって、息が上がった。

 地面に降り積もった数センチの雪で、転ばないように気を付ける。いつの間にか全速力で走っていて、ショートブーツの裏に付いた雪が舞った。


 白い気を吐きながら、助けて、と叫びたい気持ちを呑み込んだ。

 叫んだところで、きっと誰にも届かない。人々が行き交う市場に方向転換すればいいのに、それを選んではいけないと、頭の中で誰かが言う。


 誰かじゃない。

 その声は、夢の中の灯の声そのものだった。


 声を無視したい。耳を塞ぎたいのに、それが出来ない。傍には誰もいなくて、今日に限って、いつもなら目の片隅に映る精霊の姿もない。


 こんな時こそ、ピヴワヌを呼びたい。

 気まずくなかったら迷わず名前を呼んだのに、と奥歯を噛みしめた途端に雪で滑った。


「――っ!」


 思いっきり地面に倒れ込んで、咄嗟に抱きしめた風呂敷ごと派手に転んだ。袴越しでも片膝に傷みを感じて、蹲って痛みに耐える。


 そっと後ろを振り向けば、路地裏には亜莉香の足跡しかなかった。

 それでも誰かの視線を感じて、鼓動が早くなる。浅い呼吸を繰り返す度に、誰かが近づいてくる気がしてならない。


「…誰」


 思わず呟いた声は、ちらつき始めた雪のように冷たかった。


「誰なの」


 強気で言ってから、ゆっくりと身体を起こした。

 地面に座っていては、身体は冷えてしまう。それでも立ち上がることはせず、風呂敷を手放して、両手を地面についたまま真っ直ぐに後ろを見た。


 亜莉香の足跡の上に、誰かの足跡が重なっていく。

 同じぐらいの足の大きさがくっきりと、雪を踏みつけて跡が残る。姿は見えないのに誰かがいて、その誰かが一メートルの距離まで近づき、足を止めた。


 ちらつく雪が、誰かに当たって宙に浮いた。

 亜莉香と同じくらいの誰かが、ため息を零す。


「貴女は本当に、厄介な力を持っているようね」


 聞き覚えのある女性の呆れた声がして、着物の掠れた音もした。

 頭から被っていた着物を剥ぎ取ったようで、雪に溶け込むような真っ白な髪が靡いて揺れる。まるで最初からその場にいたように、目の前に一人の女性が現れた。


 どこか悲しそうな亜麻色の瞳と見つめ合い、亜莉香は呆然と女性の名前を呼ぶ。


「…ヒナ、さん」

「名前を呼ばれる覚えはない。それに私は、様子を見に来ただけ」


 被っていた黒い無地の着物を肩に羽織り直して、ヒナはしゃがみこむ。

 亜莉香と目線の高さを同じにすると、表情を消した。


「先に言っておくけど、これから起こることは私が仕向けたことじゃない」

「何の、話ですか?」

「さあね。見つかったから、忠告してあげたのよ。あとは貴女の心次第」


 すっと立ち上がったヒナが、着物を頭に被り直した。

 たったそれだけの行動で、ヒナの姿は見えなくなる。誰もいないようにしか見えないのに、雪は不自然に積もった。

 そこにいてくれて、何かを待っているように動かない。

 風呂敷を持って立ち上がり、着物に付いた雪を払った。手の温かさで雪は消えて、ヒナがいる方向に目を向けた。


 何も言わなくて、攻撃する気配もない。

 不審に思いながらも、亜莉香には何も出来ない。


 封印された魔力は、そのままだ。

 夏に透がガランスに来た時は街を案内して、慌ただしくセレストに帰ってしまった。護人や亜莉香の魔力について、ゆっくり話をする時間はなかった。水鏡を通して顔を合わせても、その話題は何故かはぐらかされる。


 思うように魔法も使えず、戦うことは無理。


 今更ながら、いつも守られていたのだと自覚する。いつだってピヴワヌやトシヤが、傍に居てくれた。ルカやルイ、ユシアやトウゴやフルーヴだって一緒にいてくれていたのに、今は一人で気持ちを抱え込んで、自分から周りを遠ざけた。


 一人でいる時間は平気だったはずなのに、不安で怖くなる。

 忠告をくれたヒナが亜莉香に危害を加えるとは思わないが、これから何かが起こると言った。その言葉を嘘だとは思えず、歩き出せば足が重くなる。


 少し距離を置いて、ヒナは黙って付いて来た。

 自然と顔が下がって歩き続ければ、ふらふらと前からやって来た真っ赤な髪の少女に目を奪われる。くせがなくて真っ直ぐな髪に、髪飾りは付いてない。さらさらと髪を揺らしながら近付いて来る少女に、亜莉香の心臓の音が五月蠅くなった。


 段々と亜莉香の足が止まって、少女が傍を通り過ぎた。


 冬なのに裸足で、足が赤くなっていた。上品な白の着物を身に纏い、合わせている袴は深紅。全身ぼろぼろで、所々着物や袴が破けていて、滑らかな肌に血が滲んでいた。


 こんなことあるはずがない。

 嘘だと思うのに、亜莉香とそっくりな顔の少女には見覚えがあった。


「灯、さん」


 声は震えて掠れた。女性の名前を呼べば、足音が止まる。

 お互いに振り返って、大きな黒い瞳と視線が絡んだ。顔がそっくりだと、ピグワヌが言っていた意味がよく分かる。髪の色が違って雰囲気も違うけど、まるで鏡を見ているような気がした。


 ぼんやりとした少女の瞳は瞬きを繰り返して、焦点が合うまで数秒かかった。

 亜莉香を見て首を傾げた後、一人で納得して口を開く。


「貴女が、私の代わり?」


 告げられた灯の言葉に、身体の芯が凍りついた。

 亜莉香を見て微笑んだ少女は、最近の夢の中で見た髪と瞳の色が違う。

 随分前にピヴワヌと契約を交わした時の、あの時に見た灯だ。だけど身に付けている着物や袴は、最近の夢の中の灯と同じ。ちぐはぐな夢を繋ぎ合わせて出来上がった灯に違和感があり、同時に恐怖を覚えた。


 背を向けて逃げ出すのが恐ろしく足を引けば、灯は亜莉香に向かって踏み出した。

 ふらっとよろけた灯の身体は、そのまま地面に座り込む。全身に力が入らないようで、ぼんやりした後に、青白い顔の亜莉香を見上げた。


「久しぶりだから、調子が出ないみたい。ちょっと、手を貸してくれる?」

「えっと…」

「無理ならいいの。自分でも、頑張れば立てるから」


 よいしょ、と言いながら、灯は立ち上がろうとする。

 少しだけ迷って、亜莉香は駆け寄って手を差し伸べた。


「あの、大丈夫ですか?」

「ありがとう。助かるわ」


 左手で風呂敷を持ち、亜莉香の右手に灯のひんやりとした手が重なった。

 あまりの冷たさに手を引く前に、力強く握りしめられて、ゆっくりと灯が立ち上がる。離れようとした亜莉香の手を掴んだまま、至近距離で笑みを零した。


「見つかって良かった。私がいない間、貴女には迷惑をかけたわ」

「何を、言っているのですか?」

「安心して、怖がらなくていいの。私の役目を押し付けられて、大変だったでしょう。怖いことも、悲しいこともいっぱいあったでしょ」


 何もかも分かっていると言わんばかりに、灯は言った。

 真っ直ぐな瞳を逸らせなくて、胸が苦しくなる。


「もう、いいのよ。貴女の役目は、今日でおしまい。この土地も、ここで暮らす人達も、これからは私が護る。貴女が心配することは、何もない」


 優しく言い聞かせた灯が、同情の表情を浮かべた。

 違う、と小さく零れても、声は届かない。自分でも何が言いたいのか分からなくて、言い返せない。灯の言っていることを理解しようとすれば、強く掴まれた手のひらに、鋭い痛みが走った。


「――っい!」

「少し我慢して、すぐに終わる」


 灯の爪が食い込んで、真っ赤な血が滲んで雪を染める。

 地面に牡丹の紋章が浮かび上がって、亜莉香と灯を囲った。以前も見たことがある大輪の牡丹の花びらが広がったのに、光の色が違う。


 外側に行くほど、濃い赤であることには間違いない。

 けど、内側が黒い。

 真っ黒で、闇の色。


 満足そうに地面の紋章を見つめる灯の瞳は、知らないうちに赤く染まっていた。その奥に闇を見つけて、亜莉香は背筋が凍った。


 貴方の心次第、とヒナの忠告が頭を過ぎる。


 反射的に、左手に持っていた風呂敷を灯の顔に向かってぶつけた。

 咄嗟の亜莉香の行動に小さな悲鳴が上がって、掴んでいる手が緩んだ。無理やり引き離せば、その反動で倒れたのは亜莉香の方だった。


 左手で顔を押さえた灯に睨まれて、僅かに後退りながら唇を噛みしめた。

 そうしないと恐怖が抑えきれなくて、目を離せば何をされるか分からない。


「貴女は――」

「中途半端に、なっちゃった」


 小さな亜莉香の声を遮って、ぼそっと灯が囁いた。

 地面の紋章の光が強まる。瞬く間に赤と黒の混ざった光が広がり、大きくなった紋章が地面を滑り抜ける。咄嗟に両手で防ごうにも、光の勢いは亜莉香の身体を無視して、遥か彼方に消えて見えなくなった。


 瞳を伏せた灯の瞳の色が、黒に戻る。

 五月蠅い心臓を押さえて、亜莉香は浅い呼吸を繰り返した。

 何の魔法だったのか。目の前で見ていた魔法は温かでも、優しくもなかった。ただただ冷たくて、身体が拒絶した。


「貴女は、本当に灯さんなの?」


 震える声で訊ねれば、目が合った灯は真顔だった。

 灯のことなんて、ほとんど知らない。夢で見たり、話を聞いたりした情報しかなくて、目の前の少女が本物であると断言出来ない。


「貴女は、誰?」


 勝手に灯だと思い込んでいた。

 それが間違いであって欲しいと願えば、灯は静かに呟いた。


「【眠って】」

「…嫌です」

「【眠って!】」


 強めに発した二度目の言葉で、身体の力が抜けた。

 眠りたくないと思うのに、瞼が重くなる。視界に移っていた灯の姿がぼやけて、耐え切れずに真横に倒れた。


 まだ、眠るわけにはいかない。

 大きな雪の欠片が、亜莉香の身体の上に舞い落ちた。肌に雪が当たって冷たくて、着物越しにも雪の冷たさを感じ、動けずに灯を見つめ続ける。


「私は灯よ」


 悲しく静かな声が、耳に響いた。


「嘘はついてない。目覚めたばかりだけど、私は役目を忘れていない。私は護人、貴女は私の代わり。ようやく戻って来られたの。長い時間はかかったけど、ようやく私は、私の役目を果たせるの」


 だから、と続く声は遠くで聞こえた。

 最後に見たのは、灯の頬を流れた美しい一筋の涙だ。


「私の居場所を、勝手に奪わないで」


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