51-3 Side牡丹
扉が開く音がして、ピヴワヌは咄嗟に机の下に隠れた。
どうせユシアが何かを取りに来たのだろう。ヤタが医者として働く診療所の奥の部屋に、入って来る人間は限られている。気配を消して動かずにいると、部屋に入って来た人物が机の下を覗き込む。
「ピヴワヌ様、いつまで隠れているの?」
「何だ、トウゴか」
目が合った青年を見て、安堵の息を洩らす。
兎の姿でいればユシアには見つかることはないに等しいが、見つかったからには動かないわけにはいかない。膝をついていたトウゴが椅子を引き、出やすくなって、ヤタの机の下から這い出た。
大きく手を空に伸ばそうとすると、何かが物足りない。
ここ数日は控えていた人の姿に変わって、思いっきり身体を伸ばした。
腕を伸ばすと、赤い着物の袖が揺れた。着物一枚に裸足の姿を人は寒いと言うが、精霊であるピヴワヌには関係ない。帯は髪と同じ真っ白で、首を回して言う。
「隠れているのも、肩が凝るな」
「そう思うなら、ヤタさんに迷惑をかけないで。さっさと家に帰って来ればいいのに」
「帰るかどうか決めるのは、儂の勝手だろ」
左右に身体を曲げながら答えて、近くに他の人間がいないか視線を巡らせた。
真っ赤なルビーの瞳で見つけられたのは、トウゴだけ。
いつ見てもトウゴは黒い着物姿であるが、最近は微妙に違う無地の柄を着回して楽しんでいた。流石に寒いのか派手に着崩すこともなく、首は黒く染めた包帯を巻いている。
包帯の下には、牡丹の紋章。
主の加護を与えられた証であり、生涯消えぬ証でもある。加護と共に、その身は主の光を宿し続けて、闇の影響を受け付けない。
加護で結ばれた主とトウゴの間には、ピヴワヌとは違った繋がりがある。
主は気付いていない。禁術を破りはしたが、縛られ奪われていた魔力を取り返したわけじゃなかった。今のところ失くした命と同等の魔力を戻す術はなく、加護を通して、主の魔力が無意識にトウゴの命を補っている。
契約を結ぶピヴワヌとは少し違う感覚を、トウゴも感じている。
好んで黒ずくめになり、灰色の紐で紺色の長い髪を結ぶ青年は、全身黒ずくめに見えて、その魂は光に包まれている。その証拠に、瞳だけは綺麗な澄んだ水色だ。
他にも契約を結んでいるが、それは主と比べるまでもない。
いざとなれば、主の力で契約を破棄できる。
元々魔力の高いトウゴなら、将来的には自力でも可能だろう。おそらく無意味な契約破棄は行わないが、禁術に関わらなければ、主に近い魔力量の持ち主だった。
精霊達からは好かれやすく、一番懐いているのは水の精霊のフルーヴだ。
どうやら今日は、フルーヴと一緒じゃない。
わざわざ一人で会いに来たようで、数日世話になっているヤタを除けば、ピヴワヌを見つけた最初の人間とも言える。
ピヴワヌが身体をほぐしているうちに、ちょっと狐のような顔のトウゴはソファに腰を下ろして、小さな風呂敷をテーブルの上に置いた。
中身を訊ねる前に、深く腰掛けたトウゴが言う。
「アリカちゃんと、ちょっとした喧嘩じゃなかったの?」
「ちょっとした喧嘩だ。だからまだ、儂は帰らん」
「それならさ。アリカちゃんがトシヤに対して、よそよそしい態度の理由を教えてよ」
診療所の奥の部屋に人が来ないから、トウゴは遠慮なく質問をぶつける。知っているだろうと言わんばかりの視線を感じて、そっぽを向いた。
診療所の奥の部屋にいれば、ヤタ以外の人間と会うことはなかった。
部屋の壁際にはソファがあり、小さいながらも冷蔵庫が設置されている。喉が渇いたら勝手に冷蔵を開けるし、二つある机のうち、もので溢れた机の引き出しの中には大量の蜜柑と酒が隠してある。
食べ物にも寝る場所にも困らなくて、居心地は悪くはなかったはずだ。
「…儂のせいじゃない」
「やっぱりピヴワヌ様が関係しているわけだ」
理由など聞く気のなかったトウゴの言葉に、ますます振り向けなくなる。
家に帰りもせず、行き先も告げていない。家出をしているのは子供じみた態度だと分かっていたが、意地になって引くに引けなくなった。
テーブル越しに置いてあった椅子には背もたれがあり、反対向きにして座った。
背もたれに隠れることなど出来ないけど、両手で掴んで正直に話す。
「儂とて、さっさと帰るつもりだった。だが考えれば考える程、儂はアリカにとって必要なのか分からなくもなった。元我が主と違うと頭では理解していても、その顔も性格もそっくりだ。儂がいなくたって、平気な顔で笑うのだろう」
瞳を伏せて話したことは本心であり、呆れた声が返って来た。
「平気なふりと分かっている笑顔は、偽物だよ。心からの笑みじゃない。ピヴワヌ様だって、それは分かっているでしょ?」
「…それでも、時間が経てば変わる」
「時間が経つまで、どれくらい?」
間を置かない質問に、ピヴワヌは黙り込む。
「今のアリカちゃんの笑顔が悲しそうなのは俺だって分かるよ?ピヴワヌ様がいつ帰って来てもいいように、毎日甘酒を煮て、寂しそうに待っている。主であるアリカちゃんがこのままで、本当にいいの?」
問いかけられて、何も答えられなかった。
主導権を握っているのは主であるとは言え、灯の時とは違う。契約を交わしていても、多少の意思疎通と感覚の共有をしているに過ぎない。灯の時のように逆らえない主従関係はなく、今は友として対等な立場で繋がっている。
対等だと思っているからこそ、余計なことまで言ってしまった。
人と比べられるのが嫌だと分かっていたのに、責める言葉で心を傷つけた。己の心を偽ってまで感情を隠すのは、そうしないと自分を保てないからだと分かっているはずだった。
あの夢の中では、お互いに譲れない気持ちがあるのは明確だった。
平気だと言わずに、すぐに頼って欲しかった。
「儂は――必要とされたいのだ」
情けないくらい小さな声が出て、黙ったままのトウゴに言う。
「今のアリカには、守ってくれる人間が沢山いる。灯の時より、人も精霊も手を貸すだろう。儂はアリカと契約を結んでいるに過ぎず、儂がいなくて孤独を感じることもない」
幼少期の孤独は、もう感じていないはずだ。
家に帰れば温かく迎えてくれる人がいて、受け入れてくれる人がいる。それがどれだけ主の心を支えているのか、ピヴワヌは誰よりも知っている。
察しのいいトウゴは、少し考えて訊ねた。
「それはさ、うちに来る前のアリカちゃんは孤独だったと言うことだよね?夏の一件の時も思ったけど、アリカちゃんの家族は…その、仲良くなかったの?」
言葉を選んだトウゴの顔をきちんと見て、はっきりと言う。
「アリカが自分で言わないことを、儂が教えるわけがないだろ」
「うん。まあ、それもそうだね。ちょっと気になって、思わず聞いただけ。あの夏の一件でアリカちゃんの子供時代と会ったら、色々考えさせられたから」
「アリカは覚えておらん」
「そうだけど、気にはなるよ。一人ぼっちは寂しいって泣かれると」
静かに告げて、トウゴが風呂敷に手を伸ばした。
泣かれなくても、何をしていても気になっているのはピヴワヌの方だ。たった数日しか離れていないのに、セレストに行った時より心の距離が遠い。
今更ながら、馬鹿なことをしていると落ち込んだ。
項垂れたピヴワヌに、とりあえず、とトウゴが話しかける。
「甘いものを買って来たから、一緒に家に帰って食べようよ。毎日甘酒を飲んではいるけどね。そろそろ匂いだけで、むね焼けしそう。因みに限界を感じているのは、俺だけの話じゃないよ」
「それも…儂のせいか?」
「ピヴワヌ様が帰って来れば、解決する問題でしょ?」
それとも言えるのか。
納得はしないでいると、風呂敷の中から綺麗な蜂蜜が現れた。
思わず目が輝いたのは、あまりにも美しい色だったせいだ。大きめの瓶の中に、とろっとした黄金色の液体。少し濁っては見えるが、微かに甘い匂いがして、唾を呑み込む。
そのまま舐めても美味しいだろうが、たっぷりの蜂蜜を入れた紅茶は身体が温まる。家に甘酒があるなら、蜂蜜を加えるのもいい。お菓子の中に混ぜ込んでも、美味しくないわけがない。それなりの量があるから、色々と使い道はあるだろう。
ピヴワヌの目が蜂蜜に釘付けになったのを見て、微笑んだトウゴは話し出す。
「これ、最近女の子の間で有名になっていてさ。肌に塗って、美容効果もあるらしい」
「勿体ない!」
興奮した顔を上げると、声が大きくなった。
「これを食べずに何を食べるのだ!」
「一般的には食用で販売しているよ。一部の女の子は美容目的で買っている話。甘いもの、好きでしょ?」
分かりきった質問の主語は、きっとピヴワヌだけじゃない。
うぐ、と言葉に詰まって、ゆっくりと頷いた。にんまりと笑うトウゴの意図は分かりきっていることで、話に乗せられて帰る羽目になるのは癪だが、こうならなければ帰れなかったのもまた事実。
この場でトウゴが蜂蜜を渡してくれるなら話は別だが、そんなわけがない。
急速に気持ちは沈んで、渋々答える。
「…好きだろうな、我が主は」
「それなら買って良かった。アリカちゃんはお菓子作りも得意だから、美味しいものを沢山作ってくれるよね。ピヴワヌ様が帰らない場合は、俺の取り分増えるかな?」
「帰るに決まっているだろう!儂の分を食うな!」
噛みつくように、半分自棄になって叫んだ。言質を取られたことは分かっているが、ここまで来ると素直に帰るだけは嫌だ。
椅子から飛び降りて、代わりに片足を勢いよく乗せた。
立ち上がろうとしていたトウゴを指差して、恥を捨てる。
「だが帰るのは、儂の謝る練習が済んでからだ!ちゃんと謝れるようになるまで、儂は帰れん!練習に付き合え!」
「謝る練習…ねえ、ピグワヌ様は本当に何をしたわけ?」
「五月蠅い!黙って儂の言うことを聞くのだ!」
「横暴だなー」
仕方がないと肩を竦めて、帰る気を失くしたトウゴは座り直した。
視線は窓の外に注がれて、ピヴワヌも外を見る。
外は、まだ明るい。雪がちらついているが、積もる雪じゃない。日が暮れる時間が伸びつつあるとしても、夜になれば積もる雪に変わるかもしれない。
早く帰りたい、と近くで呟かれた声は、聞かなかったことにした。




