51-1 斑雪冬雷
木々が燃える音がした。
赤々とした焔が辺りを焼き尽くして、何もかも燃やす。青々と茂っていた木々も、足元で咲いていた可憐な花も。数時間までは美しかった光景が変り果てて、鳥や昆虫もいなくなり、太陽ですら雲に隠れてしまった。
何もかも燃えていく中に、漆黒の髪の少女はいた。
後ろ姿しか見えない少女の髪は乱れていたが、桃色の牡丹の簪だけは無傷だった。一部をまとめて髪に挿していた簪だけは無事だけど、それ以外は悲惨だ。身に付けている上品な白の着物も、深紅の袴も、レースアップの黒のブーツも破けて、焦げていた。
手足や首元の肌には血が滲み、目の前の惨劇の前から動かない。
下ろしていた両手で、薙刀を握っていた。あまりにも強く握りしめているせいで爪が食い込み、ぽたぽたと地面に血が落ちた。
少女の数メートル後ろには、動かない人影がある。
血だまりの中で倒れていたのは、三人。誰もが灰色の着物と黒の袴姿だった。
うち二人は若い青年で、何かと戦っている途中で力尽きたようだった。刃こぼれした日本刀を握りしめたまま、背中合わせで戦っていたのかもしれない。お互いの方こそ向いていないが、安心した表情を浮かべて息絶えていた。
二人から少し離れて、十代後半の少年がいる。
仰向けで、とても穏やかな表情。明るい茶色の髪の少年の脇に日本刀が置いてあり、眠っているようにしか見えない。僅かな風で短めな前髪が揺れるのに、身体はピクリとも動かなかった。
三人共、少女より酷い怪我を負っていた。
その結果が現状であり、少女は振り返ることなく立ち尽くす。
「灯!」
名前を呼ばれて、ゆっくりと少女は、灯は振り返った。
駆け寄ろうとした少年の名前は透で、地面に横になって動かない少年に気が付いて足を止めた。灯と少年を交互に見て、何か言おうとした口から言葉が出ない。
ルビーのような赤い瞳に透の姿を映すと、潤んだ二重の瞳から一粒の涙が零れた。
「間に合わなかったよ」
擦れた声が出て、無理やり笑みを作る。
「沢山…沢山の人が、いなくなっちゃった」
震えた声で事実を伝えて、起こってしまった惨劇に耐えていた。
遠くで瓦礫の崩れる音がして、人々の悲鳴が聞こえる。立ち止まっている暇はないのに、透も動けなくなって、灯の腰より伸びた髪が熱風で靡いた。
辺りが燃えて熱いはずなのに、灯の声は冷たく凍る。
「ねえ、どうすれば良かったのかな?」
「それは…」
「どうしようもなかったとしても、出来ることはあったのかな?もっと早く気付ければ、もっと早く行動していたら、ほんの少しでも未来を変えられたのかな?」
答えを求めずに疑問をぶつけて、手にしていた薙刀を見下ろした。
「愛していたの」
口にすれば苦しくて、感情の止められない灯は静かに続ける。
「この国も、この国の人々も。今日まで過ごしてきた家も、精霊達が住む土地も。他愛のない話を聞いてくれる家族も、一緒に戦ってくれた仲間も、遠くにいて会えない友達も、城下で優しく話しかけてくれた人も――皆を、愛していたの」
過去形で言って、何も言えない透に笑いかけた。
「私が皆を愛していたこと、透は忘れないでね」
「…灯」
「誰かが覚えていてくれたら、それだけで嬉しいから。もう行かなくちゃ」
透が言い返す前に、悲しみが滲んだ微笑みを浮かべた灯は踵を返した。
背を向けて歩き出すと同時に、背後で結界を作り出す。透や動かない三人を結界の外に置き、右手に薙刀を持って、燃え盛る森の奥へ行く。
透の必死に呼び止める声は、聞こえないフリをした。
その先に何が待ち受けているのか。その先へ進んだら帰って来られないと分かった上で、心に従って前に進む背中はとても小さい。
透は力の限り結界を叩き、灯の名前を呼ぶ。
悲痛な声が、やけに耳に響いた。
「…何を見ているのだ?」
後ろから話しかけられて、両手で袴を強く握っていた亜莉香の肩が震えた。
ゆっくりと振り返れば、真っ黒な暗闇の中でも姿が見える兎がいた。真っ白で両手の上に乗る大きさの兎は、灯と同じルビー色の赤い瞳。
見つめられて、隠し事は出来ないと悟った。
じっと亜莉香の瞳を見たピヴワヌが、あからさまにため息をつく。
「ここ数日。お主との繋がりが弱まったのは、深く潜っていたせいか」
「無意識なのですが、やっぱりばれましたね」
正直に言えば、駆けた小さな兎が駆け出した。
軽やかに跳んで、亜莉香の肩に収まる。首筋にふわふわの毛並みが当たって、温かくて柔らかい。頭だけ傾けて、身体の力を抜いた。
「ピヴワヌがいるだけで、安心しますね」
「それなら、わざわざ一人で夢の中に行かなければいい。儂とてお主が遠くに行きすぎると、どこに行ったのか感知出来なくなる。そうしたら迎えに行けないではないか」
ここがどこなのか。
足元に見慣れた灯籠があるから、予想は出来ていた。それでも誰にも言えなかったのは、夢にしては現実的で、容易に口にしたい内容じゃないからだ。
同じ夢を見ているからこそ、ようやく誰かに話せる。
「ピヴワヌが来てくれたので、場所を移動して話しても大丈夫でしょうか?」
「そうだな。ここは少し…きつい」
呟いたピヴワヌは背後の景色を見て、瞳を伏せた。
灯がいなくなっても透は叫び続けて、その手に血が滲む。動かない三人は言うまでもなく、この夢はまだ終わらない。
この後にルグトリスが現れて、透は一人で戦う。戦っている途中で透が脇腹に一撃を受け、その衝撃を共有して亜莉香は目を覚ます。
いつもは夢が終わるのを一人で待った。途中でどこかへ向かう気にならず、暗闇で迷子になるのが何より怖かった。
夢を見た時の目覚めは酷い。全身に痛みを感じて数分動けなくなることもある。吐き気を伴うこともあり、朝早く誰にも見られない時間帯で良かったと何度も思った。
ユシアは同じ部屋で寝起きしているが、朝方は熟睡していることが多い。亜莉香の次に早く起きるトシヤと顔を合わせる前に、いつも冷たい水で顔を洗った。
牡丹の花の模様が浮かぶ灯籠を拾い、お互いに黙ったまま暗闇の中を歩き出す。
足取りは単調で、全ての音が消えても暗闇が続いた。目印もなく足を動かし続けて、道を示さないピヴワヌを横目で見た。
何も言わないから、道を間違ってはいないはずだ。
「ちゃんと寝ているのか?」
前を向くピヴワヌに急に質問をされて、少し間が空いた。
「当たり前じゃないですか?今だって、寝ていますよ?」
「そうじゃない。あの夢を見ないで、心を休めている時間があるのか聞いたのだ。あの夢を見たのは、初めてのことじゃないのだろう?」
素っ気ない言い方ながら、心配されていることは分かった。
目を合わせてはくれないので、亜莉香も視線を何もない暗闇に向ける。
「何回目かは、数えるのをやめました。夏に透と会った時に話を聞いてから、時々見るようになって。最近は、ほぼ毎日ですね」
「半年以上前からなのに。何故、儂に言わなかった」
「ただの夢だと思っていたのですよ。それに夢なら――いつか覚める」
静かに響いた声に、ピヴワヌが肩から飛び降りた。亜莉香の前に立ち塞がると、前足の爪を立てながら睨みつける。
「いつか覚める夢だとしても、その夢でお主の心が壊れる可能性だってあった!」
「これくらいでは壊れませんよ」
自嘲気味に言って、腰を落とした。手にしていた灯籠を脇に置く。膝を抱えて、黙ったピヴワヌを真っ直ぐに見つめた。
目の前で怒っているピヴワヌが、どこから見ていたのかは分からない。亜莉香の見る夢の始まりは、いつも決まって同じ場所で、同じ時間。
夢の始まりと終わりは変わらず、繰り返したからこその言葉が零れる。
「夢の中だから、見ていた光景は過去のもの。過去は変わらなくて、どれだけ私が叫んでも声は届きません。死んだら生き返らなくて、触れることすら叶わない」
「それは――」
「当たり前のことでしょう?」
微笑んだ亜莉香に、ピヴワヌは言葉を詰まらせた。
否定出来ないはずなのに、意地でも認めたくないようだ。睨む目つきが鋭くなって、吐き捨てるように言う。
「だからって、お主は好いている男の死を繰り返すのか?」
誰のことを指しているのか。
気付いた亜莉香が反論する余地を与えず、ピヴワヌは言い出したら止まらない。
「儂が来るまで何回も。いや、何十回もお主は、あの男の死を見ていたのだろう。眠っているようにしか見えなかったが、あの男は死んでいた。それでも平気なのか?」
「…あの人は違います」
「何が違う。お主と元我が主の姿がそっくりなように、あの男だって同じだ。茶色の髪も儂の嫌いな顔も、寝顔だって、トシヤそのものだろ!」
咄嗟に口を挟んだのに、名前が出た途端に唇を噛みしめた。
平気なわけない。
夢を見る度に、灯から離れた場所で横たわる少年を見てしまう。他の二人より目を奪われる。脇に置いてある日本刀が同じで、トシヤと瓜二の少年の死に直面して、心が痛まなかったことはない。
平気なふりをしているだけで、最初の頃は声を上げて泣いた。泣いて叫んでも、声は届かない。触れることすら叶わず、亜莉香には何も出来ない。
いつか灯が辿った結末を辿る日が来るのではないか。
今日までの日々だって、本当に自分の意思で選んで来たのか。
何事もない日々の中でも不安で、怖くて。人との距離を、今まで以上に縮める勇気を持てずに、何でもないと装って笑っていた。
何も言い返せなくなって、やれやれ、とピヴワヌが背を向けて歩き出す。
「全く可愛げがない。頑固で、己の心を偽って、元我が主と同じように、感情を隠したがる。本当にそっくりで、たちが悪い」
頬を膨らませたピグヴワヌの言葉が、深く胸に突き刺さった。
灯と比べられたくない。見た目や性格を重ねて話されるのは嫌だ。顔を膝に埋めて、何も聞きたくなくて耳を塞ぐ。足元にひびが入ったが、見たくなくて瞼を閉じた。
亜莉香の心を表すかのように、ひびが広がる音がする。
ピヴワヌは気付かなくて、灯籠の温かな光は闇に吸い込まれていく。
「おまけに間抜けで、夢の中を抜け出せない。儂が来なかったら、あと何回、あの夢を見続けたつもりだ。儂が面倒を見ないと、お主は――」
話している途中で、亜莉香のしゃがんでいた地面が砕けた。
ピヴワヌに名前を呼ばれても、答えられない。口論なんてしたくない。ぎゅっと瞳を閉じれば、身体の感覚がなくなって、何も考えられなくなった。




