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Last Crown  作者: 香山 結月
第3章 雪明かりと蠟梅
248/507

50 箱庭

 歩くたびに、床の軋む音がした。


 山奥の誰もいない家は崩壊しかけて、屋根は所々剥がれている。新しい家具はない。古い家具は幾つかあるが、どこか壊れたものばかり。どの部屋も窓ガラスが割れていて、冷たい外の空気が満たす。一歩間違えれば底が抜ける家で、女性はため息を零した。


 目指す場所は決まっていて、廊下を抜けた先にある温室。


 木製の重たい扉を押し開けると、天井のガラスから太陽の光が降り注いでいた。

 広々とした温室は、住まいである家よりも広くて大きい。何年も手入れをしていないから、天井のガラスは割れているし、屋根に溜まった雨水が落ちる音がする。植物は自由に育って、鉢から飛び出した花もあれば、水が足りなくて枯れてしまった草もある。

 以前より、雑草が増えた。

 一歩踏み込めば、いつだって懐かしい土の匂いがする。

 近くにあった青々とした木々の幹に触れると、力強い何かを感じる。それは温室の全ての植物に当て嵌まり、目には見えない力が宿る温室を作り上げていた。


 少しだけ瞼を閉じて、深呼吸を繰り返した。

 それから瞳を開けて、温室の奥へ進む。


 向かった先には、美しい姿見があった。

 壁に立て掛けられた全身を映す、大きな鏡。装飾はなくて、枠は細く歪み、少しでも力を加えれば壊れてしまう。一部が割れていても鏡の表面は滑らかで、僅かな光も反射して辺りを照らしていた。


 温室の中がどれだけ酷い有様になっても、姿見だけは変わらない存在感を放つ。

 そっと傍に寄り、優しく撫でた。

 撫でた途端に、姿見は淡く白い光に包まれる。光が弱まって、映していた温室の景色が歪み、全く違う景色が現れた。



 鏡の向こう側の世界は、雨だった。


 ベンチに座っている、少年の後ろ姿が見える。少年と言うには大人で、青年の方が合っているかもしれない。年齢を知らないけど、おそらく二十歳は越えていない。


 雨宿りをしていて、手にしている傘の先端が地面に触れていた。

 ぽつぽつと降り続ける雨が、開いたままの傘に当たる。深く腰掛けた青年の目の前に広がる場所は、緑に囲まれている神社。小さな社殿があり、敷地の隅の授与所にだけ人の気配があった。近くの池や参道に誰もいない。


 青年は、ぼんやりと池を眺めていた。


 まるで誰かを待つかのように動かない青年と同じく、女性も動かずに見守った。

 暫くして、誰かが駆けて来た。水玉の傘を差して来たのは少女で、少年と同じく女性の見慣れない服装だ。着物や袴姿じゃない。青年は全身黒くて、茶髪の髪をふわふわ揺らした少女は膝上の短い服装だった。


 まつ毛が上がった大きな瞳で、青年を見下ろした少女は言う。


「もう、陸斗。また、ここにいたの?」

「…どうでもいいだろ、麗良」


 素っ気ない青年の態度に、一瞬だけ麗良と呼ばれた少女は顔を顰めた。

 けれども池を眺めている青年、陸斗は気付いていない。麗良は陸斗と池を交互に見て、濡れないように気を付けながら、ベンチの前にしゃがんだ。


「ねえ、何しているの?」

「関係ないだろ。どうせ何を言っても、信じないくせに」

「まだ半年前のことを言うの?」


 呆れが混ざった声で言った麗良が、身体の向きを変えた。水面が雨を弾く池から雨の音が響く。陸斗と同じく池を眺めて、深いため息を零す。


「その、誰だっけ?アリカワトオルと、ヨシタカアリカ?その二人が池の中に消えたなんて言われても、普通信じられると思う?」

「その場に麗良もいた」

「私は覚えてない。あの日は補習帰りに神社に寄っただけで、誰かに会った覚えはないもん」


 可愛らしく頬を膨らませた麗良に、陸斗が目を向けたのは少しだけ。

 傘を閉じて脇に寄せて、動かないと言わんばかりに深く座り直した。陸斗の態度に、麗良はあからさまに嫌そうな顔をする。


 麗良の瞳に映っている少年は、冷淡で寂しそうな顔。

 整った顔は、万人に受けそうだ。色素の薄い茶色のさらさらとした短髪で、所謂人の視線を集める容姿。麗良の熱い視線を受け流して、興味を持つのは池だけ。


 そうじゃない、と女性は考えを改める。

 興味を持っている人物は、二人。


 アリカワトオルと、ヨシタカアリカ。名前を聞いてすぐに思い浮かんだ少年少女は、知人と呼ぶ間柄ではなくて、敵対している関係の方が正しい。

 次に出会った時こそ、戦わなければいけない。


 そう思っているのに、アリカと会うたびに迷いが生じる。本当にそれでいいのか、問いかけた答えを自分自身で出せない。トオルとは一度しか会っていないが、アリカ以上に戦いなくない気持ちが芽生えてしまったから、どうしようもなく厄介だ。


 いつの間にか視線が下がって、甘える麗良の声で顔を上げた。


「ねえ、夏休みになったら、二人でどこかに行かない?」

「行かない。今年は受験だ」

「じゃあ、勉強を教えてよ。私の苦手な理系を中心に。図書館でもいいし、久しぶりに陸斗に家に行ってもいいよね」


 めげずに麗良が話しかけて、陸斗は淡々と返事を返す。


 これ以上、二人の話を聞いていても意味はない。

 女性が鏡から手を離すと、光と見えていた景色が徐々に消えた。映っている景色が温室に戻り、一歩引いて鏡を見つめる。


 もう誰も、映ってはいない。

 探していた人物を見つけても、こちら側に連れて来る手段はない。


「…連れて来たって、私の罪は消えないけど」


 思わず零れた声は静かに響き、外にいる鳥や虫、葉の揺れる音に掻き消された。

 ずるずると座り込み、膝を抱えて蹲る。目を閉じれば、幼い日に犯した罪が心を苦しめる。大切な人を裏切った罪は消えず、一生誰にも許されない。


 名前を呼んでくれた人が、もういない。

 夢ならば、どれだけ良かっただろう。

 あの日に戻れたらと願っても、決して叶わない。


 温室には太陽の光が差し込み温かくても、草木や花々が咲き誇っても。心の中の闇が深くなるばかり、手を伸ばしても欲しいものは手に入らない。


 何もかも諦めて、女性はゆっくりと立ち上がった。

 出口へ向かいながら、自然と体は影を探す。眩しい太陽の光に当たらないように、覆い茂る雑草に埋もれるように、重い足取りで歩く。


 もうすぐ雪が降る季節になる。

 髪と同じ色の雪は、嫌いだ。


 冷たくて、どこまでも降り積もって、歩くのが不便になるくせに、春になれば溶けて消えてしまう。雪みたいに消えてしまえたら楽になれるのに、そんな願いは叶わない。


 歩いていると、不意に一つの名札が目に留まった。


 幼い頃に必死に描いた文字。花の名前は、もう擦れて読めない。花だって季節が違うから咲いていなくて、足を止めることはなく横切った。


 この温室は、とても大切な居場所だった。


 昼間は太陽の光で照らされて、どんな夜だって明るさを失わない。月も星もない夜でさえ、温室の中には光を宿した花が咲き、草や木々が夜風で揺れた。


 空に光がない冬は、特に雪明かりで綺麗な場所だった。

 その時ばかりは、嫌いな雪を少しだけ好きになれた。


 扉に手をかけて、広々とした温室を振り返る。住まいである家と共に、温室は朽ち果てるだろう。この家を知る者はいなくなり、遠くない未来で山の一部となる。


 もう戻れない。

 戻る気も、ない。


「さようなら」


 たった一言を残して、ヒナはその場を後にした。

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