50 箱庭
歩くたびに、床の軋む音がした。
山奥の誰もいない家は崩壊しかけて、屋根は所々剥がれている。新しい家具はない。古い家具は幾つかあるが、どこか壊れたものばかり。どの部屋も窓ガラスが割れていて、冷たい外の空気が満たす。一歩間違えれば底が抜ける家で、女性はため息を零した。
目指す場所は決まっていて、廊下を抜けた先にある温室。
木製の重たい扉を押し開けると、天井のガラスから太陽の光が降り注いでいた。
広々とした温室は、住まいである家よりも広くて大きい。何年も手入れをしていないから、天井のガラスは割れているし、屋根に溜まった雨水が落ちる音がする。植物は自由に育って、鉢から飛び出した花もあれば、水が足りなくて枯れてしまった草もある。
以前より、雑草が増えた。
一歩踏み込めば、いつだって懐かしい土の匂いがする。
近くにあった青々とした木々の幹に触れると、力強い何かを感じる。それは温室の全ての植物に当て嵌まり、目には見えない力が宿る温室を作り上げていた。
少しだけ瞼を閉じて、深呼吸を繰り返した。
それから瞳を開けて、温室の奥へ進む。
向かった先には、美しい姿見があった。
壁に立て掛けられた全身を映す、大きな鏡。装飾はなくて、枠は細く歪み、少しでも力を加えれば壊れてしまう。一部が割れていても鏡の表面は滑らかで、僅かな光も反射して辺りを照らしていた。
温室の中がどれだけ酷い有様になっても、姿見だけは変わらない存在感を放つ。
そっと傍に寄り、優しく撫でた。
撫でた途端に、姿見は淡く白い光に包まれる。光が弱まって、映していた温室の景色が歪み、全く違う景色が現れた。
鏡の向こう側の世界は、雨だった。
ベンチに座っている、少年の後ろ姿が見える。少年と言うには大人で、青年の方が合っているかもしれない。年齢を知らないけど、おそらく二十歳は越えていない。
雨宿りをしていて、手にしている傘の先端が地面に触れていた。
ぽつぽつと降り続ける雨が、開いたままの傘に当たる。深く腰掛けた青年の目の前に広がる場所は、緑に囲まれている神社。小さな社殿があり、敷地の隅の授与所にだけ人の気配があった。近くの池や参道に誰もいない。
青年は、ぼんやりと池を眺めていた。
まるで誰かを待つかのように動かない青年と同じく、女性も動かずに見守った。
暫くして、誰かが駆けて来た。水玉の傘を差して来たのは少女で、少年と同じく女性の見慣れない服装だ。着物や袴姿じゃない。青年は全身黒くて、茶髪の髪をふわふわ揺らした少女は膝上の短い服装だった。
まつ毛が上がった大きな瞳で、青年を見下ろした少女は言う。
「もう、陸斗。また、ここにいたの?」
「…どうでもいいだろ、麗良」
素っ気ない青年の態度に、一瞬だけ麗良と呼ばれた少女は顔を顰めた。
けれども池を眺めている青年、陸斗は気付いていない。麗良は陸斗と池を交互に見て、濡れないように気を付けながら、ベンチの前にしゃがんだ。
「ねえ、何しているの?」
「関係ないだろ。どうせ何を言っても、信じないくせに」
「まだ半年前のことを言うの?」
呆れが混ざった声で言った麗良が、身体の向きを変えた。水面が雨を弾く池から雨の音が響く。陸斗と同じく池を眺めて、深いため息を零す。
「その、誰だっけ?アリカワトオルと、ヨシタカアリカ?その二人が池の中に消えたなんて言われても、普通信じられると思う?」
「その場に麗良もいた」
「私は覚えてない。あの日は補習帰りに神社に寄っただけで、誰かに会った覚えはないもん」
可愛らしく頬を膨らませた麗良に、陸斗が目を向けたのは少しだけ。
傘を閉じて脇に寄せて、動かないと言わんばかりに深く座り直した。陸斗の態度に、麗良はあからさまに嫌そうな顔をする。
麗良の瞳に映っている少年は、冷淡で寂しそうな顔。
整った顔は、万人に受けそうだ。色素の薄い茶色のさらさらとした短髪で、所謂人の視線を集める容姿。麗良の熱い視線を受け流して、興味を持つのは池だけ。
そうじゃない、と女性は考えを改める。
興味を持っている人物は、二人。
アリカワトオルと、ヨシタカアリカ。名前を聞いてすぐに思い浮かんだ少年少女は、知人と呼ぶ間柄ではなくて、敵対している関係の方が正しい。
次に出会った時こそ、戦わなければいけない。
そう思っているのに、アリカと会うたびに迷いが生じる。本当にそれでいいのか、問いかけた答えを自分自身で出せない。トオルとは一度しか会っていないが、アリカ以上に戦いなくない気持ちが芽生えてしまったから、どうしようもなく厄介だ。
いつの間にか視線が下がって、甘える麗良の声で顔を上げた。
「ねえ、夏休みになったら、二人でどこかに行かない?」
「行かない。今年は受験だ」
「じゃあ、勉強を教えてよ。私の苦手な理系を中心に。図書館でもいいし、久しぶりに陸斗に家に行ってもいいよね」
めげずに麗良が話しかけて、陸斗は淡々と返事を返す。
これ以上、二人の話を聞いていても意味はない。
女性が鏡から手を離すと、光と見えていた景色が徐々に消えた。映っている景色が温室に戻り、一歩引いて鏡を見つめる。
もう誰も、映ってはいない。
探していた人物を見つけても、こちら側に連れて来る手段はない。
「…連れて来たって、私の罪は消えないけど」
思わず零れた声は静かに響き、外にいる鳥や虫、葉の揺れる音に掻き消された。
ずるずると座り込み、膝を抱えて蹲る。目を閉じれば、幼い日に犯した罪が心を苦しめる。大切な人を裏切った罪は消えず、一生誰にも許されない。
名前を呼んでくれた人が、もういない。
夢ならば、どれだけ良かっただろう。
あの日に戻れたらと願っても、決して叶わない。
温室には太陽の光が差し込み温かくても、草木や花々が咲き誇っても。心の中の闇が深くなるばかり、手を伸ばしても欲しいものは手に入らない。
何もかも諦めて、女性はゆっくりと立ち上がった。
出口へ向かいながら、自然と体は影を探す。眩しい太陽の光に当たらないように、覆い茂る雑草に埋もれるように、重い足取りで歩く。
もうすぐ雪が降る季節になる。
髪と同じ色の雪は、嫌いだ。
冷たくて、どこまでも降り積もって、歩くのが不便になるくせに、春になれば溶けて消えてしまう。雪みたいに消えてしまえたら楽になれるのに、そんな願いは叶わない。
歩いていると、不意に一つの名札が目に留まった。
幼い頃に必死に描いた文字。花の名前は、もう擦れて読めない。花だって季節が違うから咲いていなくて、足を止めることはなく横切った。
この温室は、とても大切な居場所だった。
昼間は太陽の光で照らされて、どんな夜だって明るさを失わない。月も星もない夜でさえ、温室の中には光を宿した花が咲き、草や木々が夜風で揺れた。
空に光がない冬は、特に雪明かりで綺麗な場所だった。
その時ばかりは、嫌いな雪を少しだけ好きになれた。
扉に手をかけて、広々とした温室を振り返る。住まいである家と共に、温室は朽ち果てるだろう。この家を知る者はいなくなり、遠くない未来で山の一部となる。
もう戻れない。
戻る気も、ない。
「さようなら」
たった一言を残して、ヒナはその場を後にした。




