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小さな女の子から手渡された小瓶を、泣き疲れた亜莉香は一気に飲み干した。
飲んだ直後に睡魔に襲われて、そのまま意識を失った。
はっきりと覚えているのは、ユシアの父親の住む家にいたこと。目が覚めて、台所に行って、ネイロと話したことまでは覚えているのに、その後が曖昧だ。
ユシアの父親が作った薬を飲んでから、よく覚えていない。
瞼を開けば、見慣れた茶の間の天井が瞳に映った。
首だけを動かして、聞き慣れた沢山の声のする方を見る。
「ねえ、ルカ。あれ、本当に大丈夫だと思う?」
「本人が大丈夫って言ったから、大丈夫だろ。ユシアとトウゴよりは、ましな食べ物が出来上がりそうだし」
あまり興味のない声で言い、本をめくる音がした。
ソファで横になっていた亜莉香の目の前に、胡坐をかいたルカとルイがいる。集中しようとするルカの視線は手元の本で、ソファにもたれ掛かるルイは台所を眺めた。
目が覚めた亜莉香には気付かない。
床に座っている二人から視線を逸らして、台所を見た。
並んで立っているのはトシヤと透で見間違いではないか、瞬きを繰り返した。何度見ても、二人がいるのは間違いない。
全身は見えないが、透は無地の紺色の着物を身に付けている。
妙に様になっていて、楽しそうにトシヤに話しかけた。
「どうだ!いい匂いがして、美味そうだろ!」
「美味そうだけど、色々と雑だよな。あ、切れてない人参があった」
「それくらい気にするなよ。切れてなくても、食べれば一緒だろ?ぐつぐつと煮れば、美味しいカレーの出来上がり」
得意げな透が腕を組んで、トシヤは呆れつつ鍋を混ぜる。
「と言うより、それ以外の夕飯は?」
「カレーあれば、十分だろ?玉子でも茹でるか?」
「ねえ!フルーヴも手伝いたいの!」
手伝いたいと繰り返すフルーヴの姿は見えないが、飛び跳ねる音は聞こえた。
引っ張られていたのは透のようで、身体を傾けて話し出す。
「分かった、分かった。それじゃあ、トシヤと交換して。鍋を混ぜるか」
「まぜる!」
「あんまり勢いよく混ぜるなよ」
トシヤが場所を空けると、透が小さな女の子の姿のフルーヴを抱き上げた。言われた通りぐるぐると混ぜ始めて、部屋の中にカレーの匂いが広がった。
香辛料の匂いが鼻をくすぐり、美味しそうな匂いに亜莉香のお腹が鳴った。
咄嗟にかけてあった毛布で顔の半分を隠すが、視線が集まって恥ずかしい。
「…美味しそう、ですね」
なんて誤魔化せばいいのか分からず、小さく呟いた。
意識すると空腹を感じて、もう少しだけ毛布を引っ張る。振り返ったルカとルイは驚いた顔をして、目が合ったトシヤは安心した顔で駆け寄った。
「ようやく起きたか」
「アリカさん、僕達のこと分かる?」
「自分のことも、ちゃんと分かるか?」
勢いよく質問をされて、亜莉香は小さくも頷く。
「分かります、よ?」
当たり前のことを聞かれて、答えは疑問形になった。
どうして、そんなことを訊ねるのか。亜莉香の方から質問をする前に、ルカとルイは肩の力を抜いて座り込む。
「「良かったー」」
「だから言っただろ、元に戻るって。亜莉香、気分はどうだ?」
台所から動かず、フルーヴを抱えたままの透は言った。
「どうと言われても…お腹が減っている、かな?」
答えながら毛布を顔から外すと、寝ていたせいか浴衣がはだけかけていた。
部屋で着直したいと考えて、毛布を抱きしめて起き上がる。立ち上がろうとソファから足を下ろすと、ルカが手伝って支えてくれた。
お礼を言うと、たったった、と軽い足音がした。
亜莉香が顔を上げるよりも早く、フルーヴが足にしがみついて顔を埋める。
「良かったの!」
「えっと、本当に何の話ですか?」
知らないところで、何かがあったのは間違いない。訳が分からず、説明を求めたいのに、誰も答えてくれずに会話が飛び交う。
「いやー、これで明日からはアリカさんのご飯だ。掃除も洗濯も、しなくていいね」
「一安心だよな」
「たまには、ルカとルイも家事を手伝えよ」
「フルーヴは手伝うもん!」
「それより誰か、カレーを混ぜてくれない?やっぱり俺、茹で卵食べたい」
透に至っては自由気ままな発言に、何が何だか分からなくなった。
透がガランスにやって来て、家で話をするつもりだったけど、正門まで迎えに行った記憶が無い。それなのに合流して、ユシアの父親の家から移動して、夕飯は皆でカレーを食べることになっている。
これは現実なのか、夢なのか。
とりあえず朝も昼も何も食べていないから、お腹が減っているのは現実だ。
騒がしい部屋の中で動けずにいると、誰かが帰って来て茶の間の扉が開いた。
「ただいま!アリカちゃん、戻った!?」
息絶え絶えのトウゴが叫んで、亜莉香を見るなり瞳に涙を浮かべる。
「おかえり!」
「ただいま、です?」
真っ直ぐに向けられた言葉に返したが、逆な気がした。帰って来たトウゴにおかえりと言うのは分かるが、おかえりと言われるのは変だ。
扉の前にいるトウゴに退けてもらう前に、再び玄関の扉が開く音がした。
あと帰って来ていない人は、一人しかいない。ユシアは邪魔になっていたトウゴを押しのけて、慌ただしく茶の前に足を踏み入れるなり、亜莉香を見つけて抱き付いた。
後ろに倒れそうになったが、何とか持ちこたえる。
亜莉香の首に両腕を回したユシアが、耳元で嬉しそうに言う。
「アリカちゃん!おかえりなさい!」
「た、ただいま?」
「元に戻っていて、本当に良かったわ。もう戻らないかと気が気でなくて、仕事中も気になって。もうお父様の怪しい薬なんて、飲まなくていいからね!」
記憶が抜けているのは、やっぱりユシアの父親の薬が関係していたのだと確証した。そのせいで心配をかけたのだと、ようやく納得する。
ユシアの背中を撫でて宥めていると、遅れてキサギが茶の間に顔を出した。安堵の表情で、胸を撫で下ろして微笑む。
「旦那様の効果があるかどうか分からない解毒剤、必要なかったですね」
「効果が分からないのに、キサギがわざわざ持って来たの?」
呆れたルイの問いに、キサギは頷いて茶の間に入った。
持って来た小瓶について、ソファに座ってルイとキサギが話し出す。トウゴはカレーの匂いにつられて、茹で卵を作ろうとする透のいる台所に移動して、余計なことをしそうな気配にトシヤが後を追った。
そろそろ、部屋に行きたい。
ルカが離すように言っても、ユシアが首を横に振る。フルーヴも真似してくっついて、亜莉香だけが身動きが取れない。
この場を助けてくれそうな名前を、心の中で呼びかける。
どこからともなく赤い光が集まって、瞬く間に一人の少年が現れた。赤い着物を身に纏った、白い髪の十歳前後に見える。
軽く着地して、困っている亜莉香と赤いルビーの視線が交わった。
「ピヴワヌ、助けて下さい」
「全く、仕方がない主だ」
仕方がないと言いつつ、嬉しそうにピヴワヌが言った。
同じ気持ちで亜莉香も笑えば、再びお腹が鳴った音が部屋に響いた。




