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Last Crown  作者: 香山 結月
第2章 星明かりと瑠璃唐草
246/507

49-5

 部屋の隅の椅子に座って、亜莉香は小さな両手でビー玉の入った瓶を持った。

 炭酸が弾けるラムネは甘くて、半分も飲んでいない。暑い季節には冷たくて美味しいけれど、全て飲み干していいのか分からない。


 ラムネの瓶から顔を上げて、話し合っている三人の顔をまじまじと観察する。

 知らない部屋にいるのは、紅色の髪の少女と桃色の髪の少年。それからラムネをくれた、紺色の髪の青年。亜莉香だけが入口の扉のすぐ隣にいて、三人は部屋の中心を囲んで立っていた。

 左右の壁には細長いロッカーが並び、奥には小さな換気用の窓がある。頭の上には大きな時計があって、針の進む音がよく聞こえた。

 ほんの少しラムネを口に含んで、耳を澄ませる。


「本当に、アリカちゃんは元に戻るのか?」

「ピヴワヌ様曰く、とだけ言っておくよ。僕達も半信半疑だけど、今の状況で他に解決策は思い浮かばないでしょ?」

「ユシアの父親の解毒剤を確認して来ようか?」

「その間、誰がアリカさんの面倒を見るの?ルカが行くなら僕も行くけど、トウゴくん一人でも大丈夫?」

「勘弁してくれよ。頼むから、ルイかルカのどっちかは残って欲しい」


 声を落としていても、狭い部屋の中では会話が届いた。

 名前を聞いて、そうだったと思い出す。

 紅色の髪の少女がルカで、桃色の髪の少年がルイ。飲み物をくれた紺色の青年がトウゴで、ピグワヌは数十分前まで一緒にいた十歳くらいの少年。

 忘れちゃいけないと、心の中で名前を繰り返す。

 自然と視線が下がると誰かが傍にやって来て、顔を上げると同時に目が合った。亜莉香の前にしゃがんだのはトウゴで、困った顔を浮かべて言う。


「えっと、まずは。俺の名前、分かる?」

「…トウゴさんって、さっき呼ばれていました」

「うん。覚えているわけじゃない感じか」


 残念そうな顔になり、唸りながらトウゴは腕を組んだ。僅かに目線が下がって、何を聞こうかな、と呟く。

 何を聞かれるのだろうと思いながらも、この場にいるのが場違いな気がした。

 漠然としない、そわそわとした気持ちが湧き上がる。暗くなる前には、家に帰らないといけない。帰った所で誰もいないとしても、誰かに迷惑をかけたら両親に怒られる。

 帰らなきゃ、と思って、亜莉香の口が開いた。


「あの、そろそろ帰ります」

「家の場所は覚えているの?」

「覚えてないけど、帰らないといけないから」


 ぎゅっとラムネの瓶を握って、小さな声は消えてしまう。

 黒い霧が広がるような、重く冷たい感情が心の中を支配した。帰らないといけないくせに、どこにいるのか分からない。分からないくせに、帰らなければと気持ちが焦る。

 誰の顔も見られなくなると、じゃあ、と明るい声が降り注いだ。


「皆で一緒に、家に帰ろうか」

「それもそうだな。家に帰った方が安心するなら、そっちの方がいい」

「えー、俺だけ置いて帰るのかよ。それなら俺も、仕事さぼって帰りたい」


 トウゴの不満な声を聞いて、亜莉香は顔を上げた。

 後ろを振り返っていたトウゴの傍に居るルイは、にこにこ笑っていた。隣に立つルカは腕を組み、穏やかな表情を浮かべている。


「皆で、一緒に?」


 先程の会話が聞き間違いではないか。信じられなくて、問いかけた。

 三人が視線を交わして、無言で場所を交代する。トウゴのいた場所にルカが腰を落とし、隣にルイがしゃがんだ。トウゴは立ち上がり、静かに一歩下がった。

 亜莉香の瞳を覗き込んだルカが、そっとラムネの瓶ごと両手を包み込む。

 驚いて身を引く前に、とても優しく温かい声がした。


「今のアリカは忘れているけど、俺達は一緒に暮らしている。本当のアリカは今より大きくて、料理や和裁が上手で、とても楽しそうに笑っていたよ」

「まあ、僕達と出会ったのは一年とちょっと前だけど」

「アリカちゃんが来てから、家の中が明るくなったね」


 ルカの言葉に付け足すように、ルイとトウゴが言った。

 三人共、嘘を言っているようには見えない。


「…本当に?」

「嘘じゃないよ。今は少しだけ忘れているだけで、アリカさんの帰る家は僕達と同じ。ここにいる三人と、さっきまでいた少年。それからあと三人」

「大家族だよな」


 さりげなくルカが言い、トウゴは深く頷いた。


「大家族だからこそ、アリカちゃんがいないと、あの家は成り立たない。特に家事の面で、アリカちゃんには頭が上がらないよ」

「私の帰る家は、誰もいない家じゃないの?」


 思わず訊ねると、三人とも不思議そうな顔をした。

 亜莉香にとって、帰る家は両親と住む家だと思っていた。それ以外ないと思っていたのに、目の前にいる三人は違うと言う。何が本当で嘘か分からない。

 それでも、と泣きそうな気持ちを抱えて、言葉を待っている三人に笑いかける。


「そうだったら、いいですね」


 本音と一緒に、視界が滲んで涙が零れる。

 ラムネの瓶の中のビー玉が当たって、軽やかな音がした。


「そうだったら、嬉しいです。皆さんと一緒に暮らせたら、きっと寂しくないと思うから。一人ぼっちは、とても寂しいから」


 名前すら忘れてしまいそうになるのに、三人が話す光景が頭に一瞬だけ浮かんだ。

 亜莉香が料理をしていると、ルカとルイが帰って来る。少し遅れて帰って来るのはトウゴで、時々ピヴワヌや小さな女の子も一緒だ。一番遅くに帰って来るのは、決まって疲れた顔の緑色の髪の少女。


 おかえり、と口にする度、隣には顔を思い出せない誰かがいる。


 思い出したいのに、名前すら出て来ない。

 光のように眩しい光景を、覚えていたい。忘れたくない。瞼を閉じれば、亜莉香の名前を呼ぶ誰かの声がして、止まらない涙が頬を伝った。

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