49-4 Side牡丹
契約を結んでいるからこそ分かる主の変化に、ピヴワヌは舌打ちをした。
少年の姿のまま屋根を駆け抜けて、人の目にも留まらぬ速さで進む。
途中で動けなくなった主はルイに預けて、ルカと共にトウゴの店で休んでいる。いつもならトウゴの傍にいるはずのフルーヴは、探している時に限って見つからない。
別れる直前には、幼少期の記憶が主の心を占めていた。
今まではピヴワヌに勝手に記憶が流れ込むことなんて、一度もなかった。
寧ろ心を固く閉ざしていて、興味本位で覗き込もうとすると弾かれる。透明なガラスの中は綺麗な記憶だけじゃなく、目を凝らしても見えない暗闇で隠された感情もあった。
それが今は、覆っていたガラスの一部が砕けたような。
覗き込もうとしなくても、主の記憶が見えてしまう。
隠そうとしていた両親の不仲。怒鳴られ、無視され、誰もいない部屋で過ごす日々。誰にも頼らず、頼れる人もいなくて、一人きりの寂しい時間。
どれだけの孤独を抱えて生きていたのか。
どんな言葉を重ねても、今の主には届かない。
笑顔が消えていく主と離れるのは心苦しかったが、これ以上は見ていられなかった。立ち止まって考えたところで答えは出なくて、急いで水の精霊であるフルーヴを探す。
見渡すと、こっちだと教えてくれた緑の精霊がいた。
どうせ魔法の特訓をさぼって、ピヴワヌから逃げているに違いない。
緑の精霊の案内に従って、神社の敷地に足を踏み入れた。
人の気配はない。本殿へ続く道を外れて、緑の多い林を歩く。足音を立てずに行かないと、耳の良いフルーヴは一目散に逃げ出す。
木々の間を歩くと、微かに水の音が聞こえた。
すぐに小川を見つけて沿って歩けば、小川の近くの木陰で寝そべる小さな兎。
丸くて白い兎は気持ちよさそうに、寝返りを打って、どうでもいい寝言を零す。ピグワヌが現れても気付かないフルーヴが間抜けで、思わず真上に立った。
兎を見下ろして、右足で思いっきり腹を踏む。
「おい、起きろ!」
「ひゃあ!」
「呑気だな。儂の特訓から逃げ出して、こんな所で寝ているとは」
柔らかい腹を押し潰さない程度に、腕を組むと嫌味たっぷりに言った。
両手両足を伸ばしたまま固まって、青い瞳に涙が浮かぶ。言い訳を必死に考えて叫び出す前に、ピヴワヌが先に口を開く。
「逃げ出したことは何も言わんから、今すぐに水鏡を作れ」
「なんで?」
「言うことを聞かないと、今夜こそ鍋の具材にするからな」
低い声を出せば、真っ青になったフルーヴは反論せずに激しく首を縦に振った。
軽く足を上げると抜け出して、そのまま逃げそうな首根っこをすかさず掴んだ。本当に逃げようとしたのか、ぶらりと揺れた身体が一瞬だけ震える。
「に、逃げてないもん」
振り返ろうとはしないフルーヴの言い訳が白々しくて、ピヴワヌはため息を零した。話をしないと隙を見て逃げようとすると考えて、素直に事情を説明する。
「緊急事態だ。アリカにどうしても必要な薬があるから、水鏡でセレストに繋げ」
「ありかに、何かあったの?」
たった一人の名前で、フルーヴは大人しくなった。
微かに首を動かして、不安な瞳がピヴワヌの顔を見ようとする。契約をしていない相手ながら、フルーヴにとってピヴワヌの主は特別だ。
最初に懐いた相手の命を救ったから。
護人で傍に居ると居心地が良いから。
きっと理由は幾つもあって、懐いていると言ってしまえば、それで終わる。その理由を問い質したことはないし、フルーヴ自身が理解しているとも思わない。
それでも主に何かあれば、いつだって素直にフルーヴは力を貸すだろう。
それだけは確信出来て、フルーヴが身体の向きを変えた。視線を交わした途端に、心配そうな兎は質問を重ねる。
「ありか、大丈夫なの?」
「薬が手に入ればな」
静かにピヴワヌの声が響いて、風で近くの木々が揺れた。
小さな身体が身をよじったので、もう逃げ出すことはないと手を離す。地面に着地する前に三歳くらい女の子の姿に変わって、急ぎ足で小川に駆け寄った。
自分が何をするべきか、言わなくてもフルーヴは分かっている。
しゃがんで両手を水面に当て、淡く青い光が波打った。瞳は輝き、水の中の何かを探す。
「セレストの、どこ?」
「ばばあに繋げ」
「うん」
答えると同時に、水面の景色が変わった。
映っているのは青い空で同じだけど、周りの景色が違う。小川の縁にある木々ではなく、枝垂れ柳が水の中に存在しているように見えた。
しゃがんでいるフルーヴの隣に立ち、ピヴワヌは黙って見守る。
すうっと息を吸い込むと、フルーヴは思いっきり叫んだ。
「くそばばあー!」
そこまで叫ばなくても相手には届くはずだ。他の近くの精霊を呼べばいい話だけど、敢えて何も言わない。
水鏡の向こうで水の跳ねる音がして、ピヴワヌも腰を落とした。
すぐさま景色に割り込んだ女性の顔は、何百年経っても変わらない。
腰よりも長い艶やかな濃紺の髪が靡いて、大きな瞳と目が合った。瑠璃唐草が描かれた着物に真っ白な帯を合わせて、帯留めは瞳とお揃いの青いサファイアの宝石。
水の上を渡って近づいて、流れる仕草で膝をつく。
一文字に閉じた唇が開く前に、何故か持っていた串を水面に突き刺した。
「ひえ!」
「落ち着け、フルーヴ。あっちの攻撃がここまで届くはずがないだろう」
あまりにも勢いがあった串に、フルーヴが驚いて手を離しそうになった。何とか踏み止まったのを確認して、もう一度、しっかりと女性を見返す。
「久しぶりだな、ばばあ」
「久しぶり、ですって?」
にっこりと笑って、女性は顔にかかった髪を優雅に耳に掛けた。
無理やり笑みを作っているが、怒っているのは一目瞭然。前回顔を合わせたのはいつだったのか、考えようとしてやめた。
世間話をする時間も惜しくて、すぐさま本題に入る。
「今すぐに薬が欲しい。魔法薬に詳しかったよな?」
「さあ、どうだったかしら?」
「アリカのために薬が欲しい」
はっきりと述べた名前に、女性は眉をひそめた。フルーヴと一緒で、主の名前を出すだけで効果は抜群だ。ピヴワヌの真意を確かめるように、真っ直ぐに見つめ合った。
おろおろとするフルーヴの視線を感じたが、お互いに目を逸らさない。
数秒が長く感じた。肩の力を抜いた女性が、刺した串を抜いて姿勢を正した。
「…何の薬?」
「儂はよく分からんが、身体が小さくなって、幼い頃の記憶が混沌している。ここ数年の記憶が曖昧になっていて、魔法薬の類だと思うが、儂では何も出来ない」
情けない声が出て、水面越しに女性が深く息を吐く。
「その解毒剤が欲しい、と?」
「そうだ」
「手元に薬があるなら、今すぐ送って。実物を見た方が、確実に解毒出来る薬が分かるから」
言われた通り、胸元に入れて置いた小瓶を水面に置いた。真っ直ぐに置いた小瓶は、淡く青い光に包まれて、ゆっくりと傾くと小川に吸い込まれる。
女性が水面に手を添えて、小瓶を手に取った。
半分も残っていない桃色の小瓶の蓋を開けて、顔を顰める。
「嗅いだことのある臭いがする」
「解毒剤は作れるか?」
「昔似たような症状の解毒剤を作ったから、まずはそれを送るわ。一時間程待って、効果があるか経過を見て」
ちょっと待って、と言って、女性は串を持っていた手で後ろを探った。
すぐに形の違う小瓶を水面に置けば、ピヴワヌのいる水面に、無色透明な液が入った小瓶が浮かんだ。送られた小瓶を受け取ると、そのまま小瓶をフルーヴの顔の前で揺らした。
「フルーヴ、悪いが先に届けに行け。アリカはトウゴの店にいる」
「ピヴワヌ様は?」
「私と少し、話をしなくちゃいけないの。届けるくらい、一人でも出来るでしょ?」
ピヴワヌの代わりに女性が答えて、フルーヴは眉間に皺を寄せた。悩んだかと思うと、大きく頷いて、両手を水面から離した。
女性を映したまま、水面の光は衰えない。
フルーヴに小瓶を託すと、兎の姿になって駆け出した。真っ白な兎は小さくなって、その姿は林の中に消えて見えなくなる。
真面目な顔でフルーヴを見送り、傍に誰もいなくなってから女性が口を開く。
「面と向かって頼みごとをされたのは、初めてね」
「まあな。今まで、そんな必要はなかっただろ」
「そうね。灯には私の知識は必要なかった。私だけじゃなく、貴方の力もね」
ピヴワヌ、と素っ気なく名前を呼ばれて、女性を振り返った。
顔を合わせれば喧嘩をしていたが、何故か今日は違う。ピヴワヌを見つめる女性は悲しそうで、その理由は言われなくても分かっている。
水の精霊である女性の姿は、昔から変わらない。
変わったのは、ピヴワヌの方だ。
精霊が人の姿になることは、珍しい話じゃない。けれども、その見た目が魔力に左右されることを知っている人間は、ほんの一握りの存在だ。元々ピヴワヌが人の姿を真似したのは、人間の中では灯の前だけ。だから、誰も疑問を持たなかった。
今日までは、誰にも聞かれなかった。
目の前にいる精霊には隠し事は出来ないと分かっていて、顔を合わせるのが嫌だった。同情をされたくなければ、事情を聞かれたくもない。
それでも女性の姿をした精霊は、ピヴワヌに容赦をしない。
「貸しを作りたくないなら、答えなさい」
回りくどい前置きをして、事実を求める声が言う。
「貴方は私と同じ、永い時を生きる精霊よ。その過ごした時間だけ魔力を持ち、その力は膨大で強力。以前の貴方なら私と互角で戦えたはずなのに、今の姿はまるで――」
まるで、と自分のことのように苦しそうに視線を逸らす。
直接聞かなくても、一目見れば分かる。言いたいことは、嫌と言うほど分かっている。今の主と契約をしたからじゃない。誰のせいでもない。契約が成立しているからこそ、ピヴワヌは光の存在であり続けている。
濁された言葉を受け止めて、ピヴワヌは笑みを作った。
「たった数十年の分の力しかない、ちっぽけな精霊。そう言いたかったのだろう?」
ネモフィル、と久しぶりに名前を呼んだ。
片手で数える程度しか呼んだことのない名前を呼べば、女性は目を見開き、涙を耐えるように唇を噛みしめた。沈黙がその場を支配して、少し気まずい。
近くの葉が小川に落ちて、微かな波紋が広がった。




