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ピヴワヌに手を引かれて、人通りの少ない路地を歩く。
転んで出来たこぶは小さくも、赤みも痛みも引かない。微かな揺れも痛みが生じて、亜莉香は右手を額に当てた。
「ううー、まだ頭が痛いです」
「自業自得だろ。何故お主は何もない所で転ぶのだ」
「まあまあ、アリカさんも好きで転んだわけじゃないから。でも歩くのが辛かったら、すぐに言ってね。背負ってもいいし、どこかで休んでもいいから」
「と言うより、外に出て本当に大丈夫なのかよ」
あからさまに心配するルカを他所に、一歩前を歩くルイは軽く言う。
「大丈夫でしょう?ピグワヌ様に、一応策はあるみたいだし?」
「最終手段だ」
「どっちにしろ、俺は不安しか感じない」
ルイの隣で腕を組みながら歩くルカの言葉に、亜莉香はほんの少し同意する。
確かに小さな身体では不安を感じないわけはなく、誰が見てもおかしな状況と言うことは数十分前の出来事でよく理解した。
フミエを迎えに来たヨルは、亜莉香を見るなり家中に響く渡る声を上げた。朝から口喧嘩を繰り広げながら一緒にやって来たルイも、小さな亜莉香を見て言葉を失った。ヨルのように取り乱しはしてないが、内心相当驚いて状況を把握していた。
心配性のヨルとフミエは今日も残ることを提案してくれたが、それは断った。
そこまで迷惑をかけられない。ピヴワヌの後押しもあり、今頃帰路を辿っているはずだ。
考え事をしていると少しだけ痛みが引いて、亜莉香は明るく話し出す。
「誰もが驚くなら、透を驚かせられるのは嬉しいですね」
「何でお主は、そこまで楽観的な考えが出来るのだ」
淡々と即答したピヴワヌの言葉に、両手を頭の後ろに回したルイが振り返った。後ろ向きになったまま、にこにこしていた亜莉香を見て困った顔になる。
「驚かせたいなら成功すると思うけど、今は小さな身体だと言うことは忘れないでね」
「忘れていませんよ?」
「どうだかな?既に俺とルイは、歩く速度をいつもの何倍も落としている」
さらりと告げられた事実に、亜莉香は言葉に詰まる。
「そう、だったのですか?」
「速度を上げたら、お主は転ぶだろ」
手を離さないピヴワヌが言い、前を見ながら言葉を重ねる。
「自分で歩くのは悪くない。だが、こんな状況になったからこそ、素直に他人を頼るのも悪くないはずだ。普段から頼るのが苦手だと、お主の性格は知っているが」
何気ない一言で、思わず足が止まった。
素直に頼ればいいのに、と頭の中で母親の声がした。
責めるように頭の中に響いて、母親以外の声もする。それはきっと近所に住む人の声であり、亜莉香が頼ることが出来なかった人達の声。幼い頃は誰に言われても気にならなかった言葉なのに、今は心が重くなって動けなくなる。
親を頼らないなんて可愛くない、と父親が言ったこともあった。
頼りたくないわけじゃない。あの頃は、誰にも頼れる環境じゃなかった。どうしようもなかったのに、それを理解してくれたのは透だけだった。
立ち止まった亜莉香に視線が集まって、唇を噛みしめた顔が自然と下がった。
頭に小さな痛みを感じて、握っていた手に力を込める。
「なら…どうすれば、良いのですか?」
消えそうな声に、ルカとルイが顔を見合わせた。
いつもなら笑って聞き流せるはずなのに、今はそれが出来ない。心配してくれたり、手を差し伸べようとしてくれたり、そんな人たちが現れる度に、優しさに頼るのが怖かった。
自分で歩けると言えば、周りは余計な手出しをしない。
気付いていた優しさは、いつも見て見ぬふりをした。
ふむ、と呟いたルイが亜莉香に近寄って、目の前にしゃがむ。途方に暮れた亜莉香の瞳を覗き込み、優しく微笑んだ。
「助けて、と言えばいいよ」
「それは、言えません」
視線を下げて、か細くも断定した。
助けを求めても、意味なんてなかった。
母親に助けを求めても、話をろくに聞かないで、自分で何とかしなさいと言われた。父親に助けを求めれば、助けを求めなかった母親が亜莉香を叱った。
理不尽でも、それが当たり前のこと。
助けを求めるのはいけないことだと、幼いながらも理解した。
身体が小さくなったせいなのか、幼い頃の感情が心を占める。諦めることに慣れて、幼い子供らしくない作り笑いばかりしていた。
昔のような笑みを浮かべれば、目の前にいるのがルイではない誰かに見える。
当時の亜莉香に声をかけた誰かのようで、何度も繰り返した言葉が零れる。
「私は大丈夫です。一人でいた方が、誰にも迷惑をかけません。誰かを頼ったら…両親に迷惑をかけちゃうから」
余計な言葉を口にして、段々と声は小さくなった。
口をつぐむと左手を強く握られて、ゆっくりと顔を上げる。赤い瞳と目が合うが、誰なのか分からなかったのは一瞬。
ひんやりとした小さな手が額に当たって、ピヴワヌはため息を零す。
「お主…記憶が混沌していないか?」
「こん、とん?」
繰り返した声は舌足らずで、意味を理解するのに時間がかかった。
視線を落とすと、頭の中がぼんやりとした。何となく頭の痛みが強くなって、瞬きをするたびに大事な何かを忘れていく気がする。
「なあ、アリカは本当に大丈夫なのか?」
「大丈夫とは、僕は言えない状況な気がするかな」
「…予定を変更して、水辺を探しに行くぞ」
ピヴワヌが手を離しても動けず、頭上の会話は耳から通り過ぎた。
手を引っ張られて、亜莉香は何も言わずに付いて行く。先頭を歩き出したピヴワヌに道を開けて、ルカとルイは慌てて後を追う。
「水辺を探して、どうするの?」
「儂の知り合いと連絡を取る。途中でフルーヴを捕まえて、水鏡で事情を説明して解毒剤を送ってもらうしかないだろ」
「その知り合いと連絡を取れれば、アリカは元に戻るのか?」
「多分な」
ルカの質問に振り返ることなく、ピヴワヌは言った。
確信はなくても、それしか方法はないと小さな背中が語る。その背中を眺めていると透と似ていて、手を引いているピヴワヌの名前が頭から消えたり浮かんだりする。それは傍に居る二人も同じで、気を抜くと足元が崩れるような錯覚を覚えた。
どうして、ここにいるのか。
誰と一緒にいるのか。
知っているはずなのに、記憶が朧げになる。忘れていた記憶は鮮明に思い出して、蘇った感情を抑えるようと、亜莉香は空いていた右手で心臓を押さえた。




