49-1
カーテンの隙間から零れる朝日は、一筋の光だった。
朝日を感じて瞳を開くと、目の前にユシアの顔がある。
ぼんやりした頭のまま、亜莉香は横向きだった身体を起こした。
隣には身体の半分以上が亜莉香の布団に侵入しているユシアがいて、ぐっすりと眠っていた。枕を挟んで向かいには規則正しい寝息を立てるルカがいて、斜め向かいには朝日を背にして横向きに寝ているフミエがいる。
固めて敷いてある布団の中心に、灯りの消えた蝋燭。
冷たい蝋燭に朝日が当たり、金の装飾の蝋燭立てが輝く。
朝方まで語っている途中で灯りは消えて、亜莉香はいつの間にか眠ってしまった。寝る直前までユシアに起きるように声をかけられたり、眠たいルカがフミエに肩を揺すられていたりした気もするが、記憶は曖昧で覚えていない。
途中で瞼が重くて仕方がなかった。
永遠と話が続くのではないかと思うほど、ユシアとフミエに根掘り葉掘り聞かれた。
トシヤとの出会いから遡って、最近の近況まで。護人や魔力のことで一部話せないこともあったが、それでも二人は興味津々の表情を始終浮かべていた。
一晩中、それぞれの恋愛話が尽きなかった。
込み上げてきた欠伸を右手で押さえて、亜莉香は部屋の中を見渡す。
いつも寝起きしている部屋より、とても広い。
おおよそ二倍の広さがある、ユシアのもう一つの自室。
部屋の壁側に天井付きからのベッドがあって、細かい刺繍の施された毛布が畳んである。傍には鏡台があり、上には大量のぬいぐるみが並ぶ。本来ならユシアはベッドで眠るはずが、昨日は一緒に布団で寝た。
大きな鳥や兎のぬいぐるみと目が合って、朝日が零れるカーテンに視線を向ける。
色鮮やかな小花柄のカーテンは白地で、部屋の色を明るくする。その奥はテラスへ続くガラスの扉で、テーブルと二脚の椅子を常備。テラスに出れば中庭が見渡せるのは部屋が二階のためで、今の時期なら庭園を囲むように植えられた向日葵が見頃だ。
立ち上がって、傍に畳んであった浴衣に着替える。
袖に手を通しながら、ベッドとは反対側にある本棚を見た。
壁に備え付けの本棚の多くを占めるのは医学書で、専門的な知識の本ばかり。勉強するための机と椅子、休んだり本を読んだりするための大きなソファがあっても、部屋は狭さを感じない。
庶民の家とは違う。立派な貴族の部屋を再確認。
着替え終わった亜莉香は、足音立てずに部屋の中を移動した。目指したのはテラスとは真逆にある、もう一つの大きな扉。
廊下へ続く出入口は、温かな深い茶色。
手を伸ばせば、微かな音が鳴った。
静かな廊下を進む。鳥のさえずりや葉の揺れる音が、外から聞こえる。足を止めずに扉の前を通り過ぎ、扉のない部屋の中を覗き込んだ。
見慣れた台所は、童話の世界のような可愛らしさがある。
開け放たれたアーチ状の窓で、白いレースのカーテンが揺れた。焦げ茶で統一された食器棚には大小様々な鍋や皿が重ねられ、台所の中心には大きなテーブルがあり、野菜や果物が入った幾つもの銀色のボール。
中でも目立つのが、煉瓦造りのかまど。
パンでも菓子でも何でも焼けて、台所に欠かせない存在だと言っていたのは、台所の全てを一任されている女性。ユシアの父親が住む家で、キサギと共に使用人として働いている女性は一人しかいない。
規則正しい音を立てながら、窓に向かって野菜を切る後ろ姿を亜莉香は瞳に映した。
邪魔にならないように豪快に、濃い抹茶色の髪を後ろで一つにまとめている女性。首元でまとめた髪は腰よりも長く、所々うねっているが本人は気にしない。料理の邪魔にならなければいいと、目尻に皺を寄せて笑っていた。
豪快なのは髪だけじゃなくて、性格も含まれる。
山賊のお頭みたいな顔、と随分前に誰かが言っていた。
出会う前にそれを聞いた時は、内心怯えていたこともある。実際に会えば気さくで優しく、料理が上手なお喋り好きな女性の名前を、遠慮がちに呼ぶ。
「あの、ネイロさん?」
名前を呼ばれて、女性が包丁を持つ手を止めた。
ゆっくりと振り返って、顔だけを覗かせていた亜莉香と目が合う。灰色の瞳は緑みがあり、年は見た目相応の五十より上、何でも知っているような表情を時々見せる。
「おはよう。丁度良かった。そこにある皿を並べてくれる?」
「はい、喜んで」
顔を綻ばせて言えば、ネイロは視線を戻してまた包丁を動かした。
手伝いをしたかった、と言わなくても、亜莉香の心情を読み取るのはお手の物。お菓子作りを教わりながら、いつも先回りして助言をくれる。
そそくさと台所に足を踏み入れて、ネイロとは反対を向きながら並んだ。
テーブルの上に重ねてあった少し深い皿を並べると、手を動かしたままネイロが言う。
「昨日は夜遅くまで語っていたでしょう。ちゃんと寝た?」
「ちゃんと寝たかは分かりませんが、それなりに寝ました。もしかして、昨晩は五月蠅かったですか?」
ネイロの寝室は一階だったと思いながら問えば、ふふっと笑う声が聞こえた。
「何も、聞こえなかったよ。何かが飛び跳ねる音は以外はね」
「飛び跳ねては、いなかった気もするのですが…」
皿を並べる手が止まって、昨晩のことを思い出した。
ルカとフミエの昔話を聞いている途中で枕投げの話になり、騒いだことが関係しているかもしれない。ユシアは物凄い威力でルカに命中させるし、フミエは腹を抱えて笑っていた。お互い本気になるのに時間はかからなくて、飛び跳ねていたと言えなくもない。
「まあ、楽しそうで良かったよ」
詳しい話を聞くつもりのないネイロの言葉に、亜莉香は胸を撫で下ろした。
部屋の中で騒ぐのは程々にしないといけないことを心の隅に置くと、皿の横に冷たい枝豆のスープが入った鍋が置かれた。盛り付け用の茹でた枝豆の入った小さなボールと、スープを彩るための生クリームまで並び、盛り付けを任される。
仕事を任せたネイロは具たくさんの卵焼きを作っている途中で、亜莉香も集中することにした。黙々とスープを盛り終えて、自画自賛したくなる出来栄えに嬉しくなる。
振り返れば、タイミングを見計らったように優しい声がした。
「ガランスにいるユシア様は本当に楽しそうで、旦那様も喜んでいたよ」
亜莉香の方を向かずに、白い皿に一品一品を盛り付けながらネイロは言った。
突然の言葉に瞬きを繰り返すと、静かに言葉が続く。
「小さい頃のユシア様は知っているけど、あの頃はあんなに笑う子じゃなかった。特に母親が亡くなってからは笑えなくなって。使用人達は皆、影で心配しても、表立って手を貸すことは出来なかった」
ネイロが昔の話をするのは珍しい。亜莉香は思わず、気になっていた質問をぶつけた。
「それは、ユシアさんのお母さんが使用人という立場だったからですか?」
「そうだね。使用人であるユシアの母親は、いつも肩身を狭くしていたよ。それでも旦那様と愛し合った。旦那様の結婚が貴族同士の逆らえない結婚だったとは言え、最初から夫婦の間には埋められない溝があって、奥様と子供達の憎しみは増えるばかりだった」
淡々とした口調に、おそらく偽りはない。
亜莉香が黙っていると、ネイロの声は続く。
「ユシア様が生まれた時、使用人達は皆、心の底から喜んだ。奥様の手前は感情を隠しても、ユシアの母親は優しい人で皆から好かれていたからね」
手を止めて、窓の外に目を向けたネイロは、遠い昔を瞳に浮かべた。
「今でも後悔しているよ。生まれた子供に罪はなかった。奥様達に何を言われようと、手を差し伸べて守るべきだった、とね」
なんて声をかけたらいいのか。少しの迷いが生じて、亜莉香は瞳を伏せた。
僅かに口角を上げたネイロが、でも、と明るく話し出す。
「今は、いつだって手が届く。誰に止められることもなく、手を差し伸べられる。那様もユシア様も笑っていて、これ以上に幸せないことはないよ。これも全て、ユシア様を助けてくれた人達のおかげだね」
くるりと振り返ったネイロがじっと見て、口角を上げた。
「ありがとうね」
「私は、何も――」
「謙遜しなくていい。ユシア様がよく名前を出しては、色んな話を聞かせてくれるから。皆のことを、いつも楽しそうに話してくれる。お礼は素直に受け取って、ついでに、ユシア様達を起こして貰ってもいいかな?」
微笑んだネイロのお願いに、亜莉香は反射的に笑みを零した。
「勿論です。キサギさんも呼んで来ましょうか?」
「あれは勝手に来るから呼ばなくても問題ないさ。そろそろ旦那様も起きて来るだろうけど…旦那様も昨日は遅くまで起きていたから、キサギが来たら起こしに行って貰おうか」
後半は独り言のように続き、右手は料理を皿に盛りつけながら、左手は口元に寄せた。眉を寄せたネイロが考え始めて、亜莉香は邪魔にならないように踵を返す。
お礼を言われれば嬉しくて、笑みを隠せない。
台所から出ようとして、人影が前からやって来た。
ぶつかりそうになって立ち止まれば、亜莉香に気付いて男性が足を止めた。
「おっと、すまない」
「いえ、こちらこそ。おはようございます」
「おはよう。昨日はよく眠れたかな?」
臙脂色の瞳が細くなり、目が合った亜莉香は微笑んだ。
幾つもの小瓶を乗せたお盆を両手で持つ男性は、ユシアの父親のタイシ。
最初に顔を合わせた時は痩せこけていたタイシは、最近は少し肉が付き、顔色も随分良くなった。髪の色は白髪が多いけど、ユシアと並べば親子だと分かる。
まるで一晩中起きていたかのように、眠たい目をしていた。
薄い灰色がかった着物に締まりがなくて、欠伸を噛み殺して肩が上下に揺れた。
使用人であるキサギやネイロは旦那様と呼ぶが、亜莉香がそう呼ぶのは何か違う。ユシアさんのお父さん、と呼ぶこともあるが、中々に長くて呼ぶタイミングがない。名前を呼ばなくても問題はなくて、亜莉香は道を開けながら訊ねる。
「また何か、完成しましたか?」
「うーん、中々に難しくてね。今度の薬は身体が小さくなるはずなのに、全く作用しなくて困っているよ。味がないから、つい台所にある何かを足したくなってね」
「また夜更かしして、体調を崩されて困るのは私やキサギですけどね」
振り返っていたネイロの棘のある声を気にせず、タイシは優しい笑みを浮かべた。
「無茶はしないように、十分気を付けているさ。それよりネイロも試してみないか?私じゃ無理でも、ネイロなら薬も効果を発揮するかもしれない」
「馬鹿なことを言わないで下さい。もうすぐ朝食の支度が終わるのですよ」
言うことを聞かない子供を叱るように、相手をする気がないネイロが言った。
タイシはしょんぼりと肩を下げて、黙って近くにあった苺のジャムを手に取る。無色透明で水にしか見えない小瓶の一つに、淡い桃色の色が付いた。
見た目は何の変哲もない液体にしか見えない。
タイシの怪しげな薬作りは趣味のようなもので、実際に何度か、亜莉香は薬を飲んでみたことがある。その効果は実感出来なかったが、タイシが楽しそうなので薬作りを止める人はいない。
ユシアの父親であるタイシは婿養子だったと、随分前に聞いた。
貴族の立場に縛られ続けた人生から解放されて、娘であるユシアと過ごす穏やかな日々を選んだ。家を出たからこそ、ようやく自由を得たのだとも言っていたのは、タイシの友人であり、ユシアの先生で医者のヤタだ。
身体はもう長くない。
それは病気でなくても、誰にでも当て嵌まること。だからこそ一分一秒を惜しむべきだとも、言っていた。
しみじみとした声を思い出して、もう少しタイシと関わりたくなった。
ユシア達を起こしに行く前に少しだけと思いながら、小瓶を揺らすタイシの隣に立つ。
「ご迷惑でなければ、私が試飲しましょうか?」
「いいのかい?」
瞳を輝かせたタイシに、亜莉香は首を縦に振る。
「全く、旦那様は人の優しさに付け込むのが上手いから」
ぼそっと呟かれたネイロの台詞が後ろから聞こえて、わざと聞き流した。
苺味の小瓶を受け取って、口元に寄せた。ほんのり甘い匂いは苺ジャムの匂いで、苺ジュースを飲む感覚で小瓶を傾けた。




